第5話 協力者
冬の初め、わたしはセルジュ殿下からの茶会の招きを断る。三度続けて断った。
四度目に、殿下のほうから中庭へ来られた。
「リディア嬢。私は何か、そなたを怒らせることをしたか」
わたしは立ち上がって礼をする。
「いいえ。殿下に落ち度はございません」
「では、なぜ避ける」
「殿下のお名前を、これ以上わたしのために使いたくないのです」
嘘ではない。ただ、本当でもなかった。
オクタヴィアがわたしに手を出せないのは、殿下と攻略対象の方々の目があるからだ。彼らの寵愛は、わたしの盾である。
でも、その盾は同時に首輪でもあった。
わたしが殿下のそばにいるかぎり、この物語は原作の形に戻ろうとする。ヒロインと王太子。嫉妬する公爵令嬢。卒業パーティーの断罪。オクタヴィアはその筋書きを隅から隅まで知っていて、いつでもそこへ引き戻せる。
それに、殿下のそばは、この学院でいちばん人目のある場所だった。これから先わたしがすることは、人目のある場所ではできない。
「ミレイユ・ドラクロワのことか」
殿下が、静かにおっしゃる。
「あの件で、私がそなたの望むとおりにしなかったからか」
「殿下は、正しいことをなさいました」
わたしは言った。心からそう思っている。腹も立っている。両方本当だった。
「正しくして、人が一人死にました。それだけです」
殿下は、しばらく黙っておられた。
冬の中庭は寒い。噴水が半分凍っていた。
「そなた、顔つきが変わった」
「そうでしょうか」
「夏まではもっと、何かを怖がっている顔をしていた。今は怖がっていない」
殿下は、そこで少し間を置かれる。
「怖がっていない者は、たいてい何か決めている」
この方は、鈍い方ではない。ただ、証拠がなければ動けない方なのだ。
「殿下」
「なんだ」
「いつかわたしが、お願いを一つだけ申し上げたら」
わたしは顔を上げる。
「聞いてくださいますか。証拠を持ってこいとおっしゃらずに、一度だけ」
殿下は、意外そうな顔をなさった。
「……内容による」
「今は申し上げません。たぶん、ずっと先のことです」
「覚えておこう」
それだけだった。
わたしは礼をして、その場を離れる。背中に視線を感じたが、振り返らなかった。
ライナル・フェルゼンは、冬のあいだに二度、わたしに話しかけてきた。
一度目は訓練場の前。二度目は食堂で、彼はわざわざ向かいの席に座った。
「アシュフォード嬢。最近、痩せたんじゃないか」
「そうでしょうか」
「顔色が悪い。飯は食ってるのか」
わたしは、匙を置いた。
「フェルゼンさま。わたしと話していると、面倒なことになりますよ」
彼は、きょとんとした顔をする。
ミレイユが最初にわたしに話しかけてきたとき、同じ顔をしていた。
「本当です。もう、二人います」
ライナルは、何か言おうとして、言えなかった。
単純な男である。単純な男は、こういうときに嘘を疑わない。疑わないから、信じる。
三日後から、彼は訓練場ですれ違っても会釈をしなくなった。
それでいい。この人は、誰かに何かを聞かれれば、そのまま話してしまう人だから。
エミール・ヴァレーとは、鑑定書の件で一度だけ手紙をやり取りして、それきりにする。
最後の手紙に、彼はこう書いてよこした。
――あなたが何をなさるおつもりかは存じません。ただ、あの写しは捨てずにお持ちください。
わたしは、その一行に返事を書かなかった。書かないことが、この人への礼儀だと思ったのである。
年が明けるころには、わたしの周りには誰もいなくなっていた。
食堂で一人で食べ、図書室で一人で座り、寮の部屋で一人で眠る。かつてミレイユが座っていた席には、誰も座らなかった。
そのころ、オクタヴィアが廊下ですれ違いざまに言う。
「殿下と、何かございましたの?」
わたしは足を止めない。
「別に」
「そう。……不用心ですこと」
彼女は、少し面白そうな声をしていた。
「盾を捨てた兎は、狩る側にとっては、ただの兎ですわよ」
その通りである。
わたしは今、この学院でいちばん簡単に殺せる人間になった。
そう見えているうちは、それでいい。
◇
ジュリアン・ドラクロワに会ったのは、雪の日である。
王都の外れ、近衛の宿舎の裏。彼は薪を割っていた。妹の死後も、彼は近衛見習いを続けている。辞めなかったのは意地だと思う。周りの目は冷たいはずだった。
わたしを見ると、彼は斧を置く。
「アシュフォード嬢」
「お話があります。屋根のあるところで」
彼は宿舎の倉庫へわたしを通した。麦の袋と馬具の匂いがする。
わたしは、前置きを省いた。
「ミレイユさんの無実を証明することは、できません」
ジュリアンの顔がこわばる。
「証拠は全部消えています。管理人は消えました。証言した侍女は公爵家の人間です。今から何をしても、あの判決は覆りません」
「……では、何をしに来た」
「やった人間を落としに来ました」
沈黙があった。
彼は、長いことわたしを見ている。それから、低い声で言った。
「誰だ」
「オクタヴィア・ヴァレンシュタイン公爵令嬢です」
「公爵家」
「はい」
「証拠は」
「毒の件では、ありません。一つも」
わたしは正直に答えた。
「別のところから入ります。あの家は、六年間、一度も損をしていません。橋が落ちる前に上流の渡し船を買い、疫病の前に南の布をさばき、王弟殿下の婚約が流れる前にモロー家と縁を結んでいます。全部、事が起きる数か月前です」
ジュリアンは眉を寄せる。
「……相場を読むのがうまい、というだけではないのか」
「六年、一度もですよ」
「それは」
彼は、そこで言葉を探していた。
「それは、悪いことなのか」
いい質問である。わたしも同じところで止まった。
「悪いことではありません。でも、説明のつかないことです」
わたしは言った。
「説明のつかないことをしている人には、どこかに、説明しようとした跡があります。金の出所とか、人の動きとか。それを探します」
ジュリアンは麦の袋に腰を下ろし、両手で顔をこする。
「妹は、毒を盛っていない」
「盛っていません」
「なのに、俺たちはそれを証明せずに、別のところから攻める」
「はい」
「それは、正しいことか」
わたしは答えなかった。
答えなかったことが、答えである。
彼は長いこと黙って、それから立ち上がった。
「やる」
三か月かけて、わたしたちは紙を集めた。
ジュリアンは正攻法の人である。足を使い、人に会い、話を聞き、書き留める。近衛見習いの制服は、話を聞くのに都合がよかった。
渡し船の権利を買った代理人の名前。布の在庫をさばくよう指示した商会の書状。モロー家との縁組を取り持った仲介人。北の農地を扱った代書屋。
どれも、たどれば必ずヴァレンシュタイン公爵家の家令に行き着く。そして家令は、誰に聞いても同じことを言った。
――すべて私の判断でございます。当主の許可はいただいておりますが、目をつけたのは私でございます。
この男は、六年間、天才的な相場師だったことになる。
「嘘だな」
ジュリアンが言った。
「嘘です。でも、嘘だと証明できません」
春先、わたしはもう一つ見つけたものがある。
クラリス・ヴァレンシュタインに会ったときのことだ。
学院の裏の礼拝堂、人のいない時間。わたしは扉の前から動かなかった。近づけば、この子は倒れる。
「クラリスさま。一つだけ聞かせてください。すぐ帰ります」
彼女は壁際まで下がって、いつもの、息を止める顔をしていた。
「去年の冬、階段から落ちられましたね。そのあとのことです」
クラリスの目が揺れる。
「杖を、いつ受け取られましたか」
沈黙が、一分近く続いた。わたしは待つ。
やがて、ほとんど聞こえない声が出た。
「……次の日です」
「落ちた次の日に」
「はい。わたしの背丈に合わせて、削ってある杖でした」
彼女は、右足をかばうように体重を移す。
「職人さんが、間に合ってよかったですねと言いました。注文は十日前だったと」
礼拝堂の窓から、光が落ちていた。
「わたし、そのとき思ったんです」
クラリスの声は、静かだった。
「お姉さまは、わたしが落ちることを知っていたのだと」
わたしは何も言えなかった。
この子は、一年以上、それを一人で抱えている。
「クラリスさま」
ようやく、わたしは言った。
「知っていたのではありません。決めていたんです」
クラリスが、初めてこちらを向いた。
「知っていたなら、止められたはずでしょう。あの方は止めずに、杖を注文なさった。それは、落ちることを知っていた人のすることではなく、落とすと決めた人のすることです」
彼女は、何も答えなかった。
ただ、その日から、わたしとすれ違っても壁まで下がらなくなる。
三月の終わりには、書類の束ができあがっていた。
取引の記録が11件。証言が7件。杖の注文書が1件。
王宮の監察に持ち込む予定は、春の祭りの三日後。
その三日前に、ジュリアンが捕まった。
◇
知らせを持ってきたのは、ノエル・ガルニエという三年の男子生徒である。
学院の賭けの帳面をつけている男で、わたしとは口をきいたこともなかった。寮の窓を叩く音で目を覚ますと、彼が青い顔で立っている。
「アシュフォード嬢。ドラクロワの兄貴が、近衛に連れていかれた」
「なぜ」
「王宮の書庫から、書類を持ち出したって」
窓の外で、彼は早口に続けた。
「俺、あの人に頼まれて、調べ物を手伝ってたんだ。そしたら二日前、書庫番の爺さんが、いいものがあるって紙を一枚くれて。公爵家の金の動きが書いてあるやつだ。あの人、飛びついた」
「その書庫番は」
「昨日から来てない。……悪い。俺、全部しゃべった。家があるんだ」
彼は言い終わる前に走っていった。
翌朝、学院の掲示に告示が出る。
近衛見習いジュリアン・ドラクロワ、王宮記録の不正持ち出しならびに職務規律違反の嫌疑により拘束。
持ち出した紙は、本物だった。
本物の、王宮の機密記録である。だから重い。中身は公爵家の金の動きに関するもので、彼が三か月探し続けていたものそのものだった。喉から手が出るほど欲しかったものが、ちょうどいいときに、ちょうどいい人から差し出される。
わたしは、それを聞いたとき、自分の迂闊さに吐き気がした。
公爵家が三か月、何もしなかったはずがない。何もしていないように見えたのは、待っていたからだ。
罠は、たぶんひと月前から置いてあった。彼が食いつくまで、ただ置いてあっただけである。
監察の調べが始まると、集めた書類の束はまとめて押収された。
一週間後、王宮から人が来て、わたしも聴取を受ける。
部屋に通されたのは、灰色の髪の監察官だった。名前は名乗らない。机の上には、わたしたちの三か月が積んである。
「アシュフォード嬢。この書類は、あなたが集めたものですか」
「筆記はドラクロワさまです。集めたのはわたしです」
「目的は」
「ヴァレンシュタイン公爵家の取引に、説明のつかないところがあると考えました」
監察官は、いちばん上の紙を取る。渡し船の権利の記録である。
「説明はつきますよ」
彼は言った。
「買値は相場どおり。売り主は納得ずくで手放している。名義も手続きも正しい。これのどこに、お尋ねするところがありますか」
「四か月後に橋が落ちています」
「橋は落ちるものです」
彼はもう一枚めくる。
「布の在庫。相場より一割安く売った。損な取引です。損な取引をするのは罪ですか」
「疫病が」
「疫病は起きるものです」
彼の口調は、怒ってもいないし、蔑んでもいない。書類を読む人の口調だった。
「アシュフォード嬢。私は、あなたが何を言いたいのかは分かります。この六年、あの家は勝ちすぎている。私もそう思います」
「では」
「思うことと、書けることは違うのです」
彼は、書類の束を脇へ押しやった。
「ここに書けるのは、こうです。ヴァレンシュタイン公爵家は、六年間、正しく買って正しく売った。以上」
わたしは、机の木目を見ている。
「杖の注文書は」
「ご令嬢が階段から落ちる十日前に、妹君の杖を注文した。……なるほど、気味の悪い話です」
監察官は、少しのあいだ黙る。
「しかし、これを何の罪状で立てますか。妹君は落ちた。姉君は杖を用意した。押したという証言は、どこにもない」
「クラリスさまが」
「妹君は、押した者を見ていないとおっしゃっています」
そのとおりだった。あの子は見ていない。見ていないから、あの子は今も生きている。
「一つ、教えていただけますか」
わたしは言った。
「これが公爵家でなければ、どうなりましたか」
監察官が、初めてわたしの顔を見る。
「同じです」
彼は言った。
「これが平民の質屋でも、同じことを申し上げます。……あなたが持ってきたのは、疑いです。疑いは、いくら積んでも証拠にならない。積めば積むほど、積んだ人間の執念のほうが目立つ」
その言葉は、しばらく耳に残っている。
ジュリアンは近衛を除名された。
持ち出しの件は、書庫番が消えているために立証しきれず、故意までは認められない。それでも規律違反は残る。
そして、世俗のほうが動いた。
ドラクロワ子爵家に、王家への不敬に関する調べが入る。嫡男が王宮の機密を持ち出した家である。調べが入る理由としては十分だった。
三か月後、ドラクロワ子爵家は爵位を返上する。
王都の屋敷が人手に渡り、家族は領地の小さな家へ移った。ジュリアンは王都を出ることになる。
出る前の日、彼はわたしに一通の手紙を寄こした。
短いものである。
――妹に続いて、家を潰しました。正しいやり方では勝てないと、あなたは最初から知っていたのだと思います。知っていて、俺に正しいやり方をさせてくれた。あなたなりの誠意だったのでしょう。
――次は、そうしないでください。
わたしは、その手紙を三度読んで、燃やした。
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