第4話 処刑
処刑は、王都の北広場で行われた。
王太子殿下の毒殺未遂は国事犯である。公開が原則だった。秋の終わりの、よく晴れた日。
人はたくさん来ている。パンを売る屋台が出ていた。子どもが親の肩に乗っている。刑の見物は、この街では娯楽の一つである。
わたしは、人垣の三列目にいた。ポケットの中で、ハンカチを握って。
ミレイユが引き出されてきたとき、最初、わたしは誰だか分からなかった。
白い服を着せられた人が、二人の衛兵に両脇を抱えられている。足が、地面についていない。つま先が石畳をこすっていた。
歩けていなかった。
膝から下が言うことを聞かないらしく、立たせても、すぐに折れる。衛兵が二度、三度と立たせ直した。そのたびに体が縦に揺れて、短い髪が跳ねる。
顔は白いというより、灰色。
目が、開きすぎている。まばたきをしない。何かを見ているのではなく、見開いたまま固まっているのだった。
顎が、細かく鳴っている。歯の音だ。三列目まで聞こえた。
罪状が読み上げられた。長かった。
その間じゅう、彼女は震えている。肩が、腕が、腰から下が、ばらばらの速さで震えていた。寒さの震えではない。生き物が、自分の意思と関係なく止められなくなっているのだった。
人垣の前のほうで、誰かが笑う。
小さな笑いだった。それが二人になり、三人になる。
「見ろよ、おっかないのか」
「毒を盛るときは平気だったくせにな」
父親の肩に乗った子どもが、指をさした。
「ねえ、なんであのお姉さん、あんなに震えてるの」
父親は笑って、子どもの頭を撫でる。
わたしは、その父親を殺したいと思った。
本気で、そう思った。
罪状の読み上げが終わり、係の男が事務的に聞く。
「最後に、何か申し述べることはあるか」
ミレイユは、顔を上げた。
口が、開く。
何も出てこない。
息だけが、短く、速く出入りしていた。喉が動く。もう一度、口が開いた。舌が、言葉の形をつくろうとして、途中でほどける。
彼女は、人垣を見ようとした。誰かを探そうとしたのだと思う。
でも、目の焦点が合っていない。顔が右に動いて、左に動いて、また右に戻る。何も見えていない目だった。
わたしは、手を挙げようとした。
挙げれば、彼女が見つけるかもしれない。
挙げれば、わたしが誰なのか、この広場の全員に知られる。
――一秒。
わたしの腕は、上がらなかった。
その一秒のあいだに、係の男が「よし」と言う。何も述べなかった、という意味だった。書記が紙に何かを書く。
衛兵が、ミレイユの肩を押した。
押されて、彼女は前に倒れる。膝が台に当たる音がした。立て直せない。衛兵が二人がかりで、体の位置を直した。人形を置き直すような手つきで。
最後に、小さな音が聞こえる。
言葉ではなかった。喉の奥から出た、ひゅう、という、息の音。
刃が落ちた。
群衆が、どっと沸く。
拍手をしている人がいた。歓声のような音も混じっている。屋台の男が「パンはいかが」と呼びかける声が、そのすぐあとに続いた。
人垣の左のほうで、男の声が上がる。
「ミレイユ!」
ジュリアンだった。近衛の同僚に二人がかりで押さえられている。妹の名前を三度叫んで、それから膝から崩れて、声にならない声で泣いた。大きな体が、子どものように震えている。
その震え方が、さっきの妹と同じだった。
わたしは、泣かなかった。
自分でも不思議なくらい、一滴も出ない。
代わりに、口の中に血の味がした。いつの間にか唇を噛み切っている。ポケットの中では、爪が手のひらに食い込んで、ハンカチに血がついていた。ミレイユが三枚失敗して四枚目に刺した、あの曲がった名前の上に。
わたしは、あの子の最後の七日間を思う。
毎晩、あの狭い牢で、天井を見ていたはずだ。痛いんでしょうか、と聞いた口で。わたしの前では落ち着いた声を出して、指だけ震えさせていた人が。
あれは、我慢していたのだ。
わたしの前で、最後まで。
頭の奥で、何かが動きはじめる。
冷たくて、速くて、静かなもの。
――量を調整できる人間が、この件には必要だった。銀鈴草の根から毒を抽出して、致死量の半分以下に調整できる人間が。ミレイユにはできない。あの子は薬学の授業を取っていない。それを誰も問題にしなかった。
――公爵家の侍女が目撃証言をした。あの侍女の名前は記録に残る。
――管理人は消えた。消えた人間は、生きていれば見つかる。
――そして、あの人は、これで終わりにするつもりがない。
原作には、まだ先がある。卒業パーティーの断罪まで、二年半。そのあいだに起きることを、あの人は全部知っている。
知っていて、必ず先に動く人だ。
動く人には、動く癖がある。癖には、形がある。
わたしは、その形を思い出そうとしていた。
まだ何も見えていない。ただ、頭の奥の冷たいものが、そちらを向いて動きはじめた。
隣に、人の気配がする。
振り向かなくても分かった。銀色の髪が、視界の端で揺れている。
オクタヴィアは、処刑台を見上げたまま、小さな声で言った。
「――おつかれさまです」
日本語だった。
わたしは、今度は反射で返さない。
ゆっくりと息を吸って、吐いて、それから彼女のほうを向いた。
自分がどんな顔をしているのか、わからない。ただ、オクタヴィアの笑みが、ほんの少しだけ動いたのは見えた。
「あら」
彼女は、面白そうに目を細める。
「いいお顔になりましたわね」
「……オクタヴィアさま」
「なあに」
「ひとつ、教えてください」
わたしは、処刑台に向き直った。
白い服が、赤いものを吸って重くなっている。
「あなた、この6年で、損をしたことはありますか」
オクタヴィアは、少し首をかしげた。
それから、誇らしげに答える。
「ございませんわ。一度も」
「知っていて、何もしなかったことは」
「ございませんわね。もったいないじゃありませんの」
「そうですか」
わたしは言った。
「よかった」
群衆が散りはじめている。屋台の男は、まだパンを売っていた。
わたしは、ポケットの中のハンカチを握り直す。
覚えていることにした。
ミレイユに頼まれたとおり、あの人のことを。
◇
喪が明けるころ、わたしは一度だけ、正面から行こうとした。
ミレイユの無実を証明する、というやり方である。
三日で終わった。
管理人はいない。北の村は地図になかった。学院の事務室には、退職の日付と、故郷の村の名前と、本人の署名が残っている。
事務室では、若い書記がわたしの相手をした。
「退職の届けを見せていただけませんか」
「どなたの」
「温室の管理人だった方です」
書記は面倒そうな顔をしながらも、綴じを出してくれた。学院の記録は、生徒が見たいと言えば見せる決まりになっている。誰も見ないから、決まりだけが残っているのだ。
届けの署名と、勤務の綴じに並んだ署名を、机の上に並べてみる。
「ル」の字が違った。勤務のほうは、最後をはねていない。届けのほうは、はねている。
「これ、違いませんか」
「違いますか?」
書記は、二枚を交互に見た。
「……お年寄りですからね。手が震えることもあるでしょう」
彼は、そう言って綴じを閉じる。
それで終わりである。
筆跡が違うと言うには、誰かがそれを疑っていなければならない。疑うには、その人が死んだかもしれないと思っていなければならない。誰も思っていない。あの人は、故郷で母親の世話をしていることになっている。
あとは、押されるだけだった。目撃証言をした侍女は公爵家の人間で、公爵家の人間は外では口をきかない。持ち出し帳は王宮に押収されたまま返ってこない。乾いた根は処分された。
手元に残ったのは、エミール・ヴァレーの鑑定書の写し一枚である。致死量の半分にも達していなかった、と書いてある。この一枚では何も起きない。量が少なかったことは、犯人が素人だった証拠として読まれる。
読み方を決めるのは、いつも先に決めている人間のほうだ。
帰りに、温室へ寄った。
奥の棚は、空になっている。銀鈴草だけではない。毒のあるものは全部抜かれて、土が平らにならしてあった。新しい管理人は、まだ若い男である。わたしが棚の前に立っていると、遠くから声をかけてきた。
「そこ、何もありませんよ」
「知っています」
「前は何かあったんですか」
「……いえ」
あの子が、土のついた手袋をして立っていた場所である。麻袋を抱えて、少し得意げな顔をして。
わたしは、しばらくそこにいた。それから、礼を言って出た。
◇
ミレイユの部屋が空けられたのは、その週の終わりである。
学院の寮は、退寮者が出れば次の学期までに片づける決まりになっている。家の者が引き取りに来られない場合は、寮監が荷をまとめて送る。ドラクロワ家は、もう王都にいない。
わたしは、立ち会わせてほしいと申し出た。
寮監は、いい顔をしなかった。それでも断らなかったのは、たぶん、断る理由を考えるのが面倒だったからだと思う。
部屋は、狭かった。わたしの部屋と同じ広さのはずなのに、狭く見える。物が少ないからである。
寝台。机。椅子。窓辺に、枯れた鉢が一つ。
寮監が荷袋を広げ、わたしが棚から本を出した。教本が七冊。薬学はない。あの子は薬学を取っていなかった。そのことを、あの七日間、わたしは何度も人に言った。誰も、重く受け取らなかった。
机の引き出しに、束ねた紙が入っている。
ノートだった。あの子の字である。
開くと、数学の証明が書き写してあった。わたしが分からないと言った箇所だ。二日前に、食堂で言った。あとで自分のを持ってきますね、と言われて、そのままになっていた。
最後の頁の隅に、日付がある。
連行された日の、前の日だった。
わたしは、それを畳んで懐に入れた。寮監は何も言わない。見ていなかったのかもしれない。
部屋を出るとき、窓辺の鉢を持って帰るかどうか迷って、置いてきた。枯れているものを持ち帰る理由が、思いつかなかったからである。
◇
学院で、あの子の名前を口にする人は、すぐにいなくなった。
半月もかからなかったと思う。
食堂の、いつも二人で座っていた席には、そのうち別の三年生が座るようになる。誰も悪くない。席は席で、名前が書いてあるわけではない。
ただ、わたしはその席の前を通らない道を覚えた。遠回りになるので、朝は少し早く出る。
そういうことが、一つずつ増えていった。
その夜、寮の窓から外を見ていて、ふと思ったことがある。
あの人は、この一年、わたしに一度も手を出していない。手を出す必要がないからだ。周りから人がいなくなれば、わたしは何もできない。実際、何もできていない。
でも、それは裏を返せば、あの人がわたしを見ているということでもある。見ていなければ、周りの人を選べない。
六年間、彼女は人を見てきた。誰が誰と親しいか。誰が何を欲しがっているか。誰なら動かせるか。
人を落とすのに使ってきたのは、それである。原作の知識ではない。知識は、いつ何が起きるかを教えてくれるだけだ。その日に誰を立たせるかは、自分の目で選ばなければならない。
わたしは、そのことを、この時点ではまだ半分しか理解していなかった。
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