第3話 七日間
王太子セルジュが倒れたのは、それから9日後である。
学院の中央棟、午後の講義のあと。廊下で突然膝をつき、口の端から泡を吹いた。運ばれる殿下を、わたしは人垣の後ろから見ている。
その晩のうちに、王宮から医師団が来た。翌朝には、宰相子息エミール・ヴァレーによる鑑定書が学院長のもとへ届く。
殿下が飲んだ茶から、銀鈴草の根の成分が検出された。
学院は封鎖される。
二日目、温室の記録が調べられた。
三日目の朝、ミレイユ・ドラクロワが連行される。
わたしは、その場にいた。
朝の廊下に衛兵が入ってきて、ミレイユの腕を取る。ミレイユは最初、何が起きたのか分かっていなかった。分かってからも、抵抗しない。
「待って、待ってください」
わたしは衛兵の前に立った。
「この人は違います。この人は、危ないから処分しただけで」
「どいてください、アシュフォード嬢」
「持ち出し帳を見たなら分かるでしょう。処分のために抜いたと書いてあるはずです」
「書いてあります」
衛兵は、感情のない声で言う。
「毒草を、処分という名目で、自分の名前で持ち出したと書いてあります」
言葉が、喉で詰まった。
その通りである。
あの記録は、どちらにも読める。危険物を処分した記録にも、毒を入手した記録にも。そして、王太子が倒れたあとで読めば、後者にしか読めない。
その日のうちに、証拠が三つそろった。
ひとつ。薬草持ち出し帳のミレイユの署名。株数は一株。日付は事件の9日前。
ふたつ。ミレイユの寮の部屋から、乾かした銀鈴草の根が出てきた。机の引き出しの奥、布に包まれて。
みっつ。目撃証言。事件当日の午後、ミレイユが中央棟の給湯室に入っていくのを見た者がいる。殿下の茶が用意された部屋である。証言したのは、ヴァレンシュタイン公爵家の侍女だった。
根については、ミレイユは「抜いた株は管理人に渡した、部屋のものは知らない」と言う。管理人は「確かに受け取ったが、その日の夜に焼却した」と証言した。つまり、彼女の手元に残っているはずがないものが、部屋にある。
給湯室については、「通っただけ」と言った。中央棟の給湯室は、東棟へ抜ける近道になっている。毎日何十人も通る道である。
どれも説明はつく。説明はつくが、三つそろうと、説明のほうが苦しく聞こえる。
わたしは、エミールの鑑定書を見せてもらった。学院長室の前で二時間粘って、彼が出てきたところをつかまえる。
「アシュフォード嬢。私は関係者に内容を話せません」
「ひとつだけ教えてください」
わたしは食い下がった。
「毒の量は、どのくらいでしたか」
エミールは眼鏡を押し上げ、少し黙る。
「……なぜ、それを聞くのですか」
「答えてください。お願いします」
「多くはありません」
彼は、言葉を選んで言った。
「成人男性を死に至らしめる量には、達していませんでした。半分にも。倒れて、数日苦しんで、それで済む量です」
わたしは、その意味を考える。
殺す気がなかった。
殺す気がなくて、倒れさえすればよかった。
――倒れさえすれば、犯人を出せるから。
「その点は、報告書に書きましたが」
エミールは、ため息をついた。
「王宮は、未遂であることを重く見ていません。むしろ、量の調整ができなかった素人の犯行、という読み方をしています」
彼は、それだけ言って行ってしまう。
わたしは廊下に残された。
頭の中で、組み立てが完成していく。
オクタヴィアは、わたしが原作の毒殺イベントを思い出すことを知っていた。思い出したわたしが、身近な誰かを守ろうとすることも。
そして、わたしが守ろうとする相手は、ゲームに書かれていない人間になる。書かれていない人間は、書かれている人間より、ずっと簡単に消せる。
だから彼女は待っていた。わたしが誰と親しくなるかを、半年かけて見ていたのだ。
ミレイユを選んだのは、わたし。
「近づくな」と言ったのも、わたし。
◇
その夜、わたしはオクタヴィアの部屋の扉を叩いた。
彼女は寝間着の上にガウンを羽織って、すぐに出てくる。まるで、わたしが来るのを知っていたように。
「いらっしゃると思っておりましたわ」
「明日、王宮の調査官に会います」
わたしは、前置きなしで言った。
「銀鈴草のことをミレイユに教えたのはわたしだと、証言します」
「どうぞ」
オクタヴィアは、あっさりとうなずく。
「それで、こう聞かれますわね。『なぜあなたは、9日も前から、そこに毒があると知っていたのですか』」
わたしは黙った。
「『なぜ、王太子殿下が毒で倒れると予期していたのですか』」
彼女は指を折っていく。
「『なぜ、事件の前にわざわざ友人を温室に近づけないようにしたのですか』」
三本目の指が折られた。
「答えられますの?」
「……教本で読んだと言います。毒草だと知っていたから、友人に注意しただけだと」
「まあ。では、あなたは毒草の知識をお持ちなのですわね。薬学の成績が学年で真ん中より下のあなたが」
オクタヴィアは、心底楽しそうである。
「そしてこう続きますわ。『では、あなたも容疑者です』と。ヒロインさまは殿下と親しくていらっしゃる。恋のもつれ、動機として十分でしょう? 二人で共謀した、という形でもよろしいわ。そうなれば、ミレイユさまの罪はひとつ増えますわね。単独犯より、共謀のほうが重いですもの」
わたしは、両手を握りしめた。
「……なら、正直に言う。わたしは未来を知っていた、と」
オクタヴィアの笑みが、深くなる。
「どうぞ、ぜひ」
彼女は、扉に寄りかかった。
「別の世界で、この国の出来事を書いた物語を読みました。だから毒が盛られると知っておりました。……調査官さまは、どんなお顔をなさるかしら」
言葉が出なかった。
「証明できますの? 一つでも」
できない。
この先に起きることを言い当ててみせる、という手はある。でも、それをやったところで、返ってくるのは「この娘は本当に知っていたのだ」ではない。
「わたくしなら、こう申し上げますわ」
オクタヴィアが言った。
「お気の毒に。あの方、お友達が捕まってから、おかしなことばかりおっしゃるようになりましたの、と」
彼女は、指を一本立てる。
「そうしましたら、ミレイユさまのために口をきく人間が、この国から一人減りますわね。もともと、一人しかおりませんのに」
わたしは、その場に膝をつきそうになった。
どの道も、塞がっている。
黙っていれば、ミレイユは毒殺未遂の犯人として死ぬ。名乗り出れば、わたしが共犯にされてミレイユの罪が重くなる。本当のことを言えば、わたしの言葉は誰にも聞かれなくなり、ミレイユは一人になる。
「ひとつ、褒めてさしあげますわ」
オクタヴィアは、優しい声で言った。
「あなた、わたくしの思っていたより、ずっとよく動いてくださいましたの。ミレイユさまを選んだのも、警告なさったのも、全部あなたの判断ですわ。わたくしは、あなたが動くのを待って、その後ろに立っていただけ」
彼女はかがんで、わたしの耳元に口を寄せる。
「ねえ、リディアさま。この半年、あの方があなたにパンを買ってきたのを、わたくし何度も見ましたのよ」
息が、耳にかかった。
「あの方、あなたと出会わなければ、死にませんでしたわね」
わたしは、その夜のことをよく覚えていない。
覚えているのは、自分の部屋に戻ってから、朝まで一度も座らなかったことだけである。
◇
それから7日のあいだ、わたしは走り回った。
最初に、セルジュ殿下に面会を求める。三度断られ、四度目に通された。
殿下は寝台に起き上がれるまで回復している。頬がこけて、唇の色が悪い。わたしは立ったまま、持っているものを全部並べた。持ち出し帳の記述は処分の記録とも読めること。ミレイユが薬学の授業を取っていないこと。管理人が焼却したと証言した根が、なぜか部屋にあったこと。
殿下は、最後まで黙って聞いてくださる。
それから、静かにおっしゃった。
「リディア嬢。私は、そなたの言葉を疑ってはいない」
「では」
「だが、私が『信じる』と言えば、それで人一人の首がつながる国であってはならない」
殿下は、疲れた目でわたしを見る。
「そなたが今言ったことは、すべて『そうも読める』という話だ。向こうには『こうとしか読めない』が三つある。私が立場でそれを覆せば、次に私が誰かを死なせたいときも、立場で死なせられることになる」
「……人が、死にます」
「わかっている」
殿下の手が、寝具を握った。
「証拠を持ってきてくれ。持ってきてくれれば、私は王の前でそれを読む。何度でも読む」
正しい。腹が立つほど正しかった。
この方は、わたしが泣きつけば折れてくださる方ではない。原作でヒロインが好きになるのは、たぶんそういうところである。
二日目、エミール・ヴァレーを訪ねた。
毒の量について、もう一度きちんと書面にしてほしいと頼む。致死量の半分以下という調整は、薬学を学んでいない人間にはできないはずだと。
彼は書いてくれた。丁寧な、隙のない書面だった。
三日目、王宮からの返答が来る。
――被疑者は加減を知らず、結果として量が不足したものと解される。
それだけ。同じ事実が、彼女を救う側にも、沈める側にも読める。読み方を決めるのは、いつも先に決めている人間のほうである。
四日目、温室の管理人に会いに行った。
彼は前日に学院を辞めている。故郷の母が倒れたのだという。事務室に残された書類には、北の村の名前が書いてあった。
わたしは馬車を雇って、その村へ行く。半日かかった。
そんな村はなかった。地図にも、街道の宿にも、名前を知る者すらいない。
帰りの馬車の中で、わたしはようやく理解した。あの人はもう生きていないかもしれない。生きていたとしても、二度と出てこない。ヴァレンシュタイン公爵家は、人を一人消すのに、こんなに手間をかける家ではない。手間をかけたのは、わたしが探しに行くと分かっていたからだ。
五日目、ドラクロワ子爵家に手紙を書いた。
返事は来ない。
あとで知ったが、子爵家には既に話が行っていた。娘の助命嘆願を出せば、家督相続の審査に影響が出るかもしれない、という形の話が。誰が言ったのかは書いていない。書く必要もない。
六日目の夜、学院の門の外に、ジュリアン・ドラクロワが立っていた。
夏に会ったときと同じ、近衛見習いの制服。ただ、目が落ちくぼんで、頬に無精ひげが浮いている。あれから二か月しか経っていない。
「アシュフォード嬢」
「……ドラクロワさま」
「妹から、手紙が来ていました。逮捕される三日前のものです」
彼は、懐から折りたたんだ紙を出す。
「友達の誕生日に刺繍をした、と書いてありました。三枚失敗して、四枚目を渡したと。渡したら毎日使ってくれている、と」
わたしはポケットの中でそのハンカチを握った。今日も持っている。
「俺は、あいつを叱ってばかりでした」
ジュリアンの声が、かすれた。
「屋根に登るな、先に人を呼べ、考えてから動け。……いつか取り返しのつかないことになるぞと、俺が言ったんです。俺が」
彼は、それきり何も言えなくなる。
大きな体が、門灯の下で丸くなっていた。
わたしは、何か言わなければと思った。あなたのせいではありません、と言おうとして、言えなかった。
それを言えるのは、自分ではない。
やがて彼は姿勢を正し、深く頭を下げる。
「妹を信じてくださって、ありがとうございます。今あいつを信じているのは、俺と、あなただけだ」
殴られたほうが、まだ楽だった。
面会が許されたのは、処刑の前日である。
地下牢は思ったより清潔で、思ったより静かだった。ミレイユは、鉄格子の向こうで膝を抱えて座っている。髪は短く切られていた。
わたしを見ると、彼女は少し笑う。
「リディアさん。来ちゃだめですよ。あなたまで疑われます」
「ミレイユさん」
「わたし、やってないんです」
「知ってます」
「よかった」
彼女は、ほっとしたように息を吐いた。それだけで、彼女の7日間が全部わかる。
「あの、リディアさん」
ミレイユは、鉄格子に額を寄せた。
「ひとつだけ、聞いてもいいですか」
「何でも」
「あの温室の草のこと。あなた、何か知ってたんですよね」
心臓が止まるかと思った。
彼女は、責める顔をしていない。
「あのとき、リディアさん、真っ青でした。ただ毒があるから怖い、って顔じゃなかった」
「……ミレイユさん」
「言わなくていいです」
彼女は、首を振る。
「言えないことなんでしょう。言ったら、あなたも同じところに座ることになるんでしょう」
わたしは、鉄格子を握った。指の関節が白くなる。
「わたしが、あなたを殺したんです」
言ってしまった。
ミレイユは、少しのあいだ黙っている。
それから、鉄格子の隙間から手を伸ばして、わたしの手の甲に触れた。
その指が、震えている。
小刻みに、止まらない震え方。声はあんなに落ち着いているのに、指だけが、別の生き物みたいに震えていた。
「リディアさん」
「……はい」
「わたしは、自分で温室に行きました。自分で管理人さんに話して、自分で名前を書きました。誰にも言われてません」
「でも、わたしが」
「あなたは、わたしに近づくなって言ったんです」
彼女は、まっすぐわたしを見る。
「あなたは悪くない。悪いのは、あの草を毒に使った人です」
わたしは、何か言おうとして、何も言えなかった。
「だから」
ミレイユの指が、わたしの手をとんとん、と叩く。震えたまま。
「代わりに、その人のこと、覚えていてくれませんか。わたし、たぶん明日で終わるので」
覚えていて、と彼女は言った。
恨んで、とは言わない。
わたしは、うなずいた。うなずくことしかできなかった。
牢を出るとき、背中で小さな声がする。
「リディアさん」
振り返った。
ミレイユは、膝を抱えたまま、床を見ている。
「あれ、痛いんでしょうか」
わたしは、答えられなかった。
答えを探しているうちに、看守が扉を閉める。
お読みいただき、ありがとうございました!
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