第2話 温室
ミレイユ・ドラクロワは、雨の日の図書館で声をかけてきた。
「あの、それ、上の棚のでしょう。わたし、背が高いので」
振り向くと、栗色の髪をひとつに結んだ子が立っている。子爵令嬢の制服。わたしより頭半分ぶん背が高い。
彼女はひょいと手を伸ばして、わたしが取れずにいた植物図鑑を引き抜いた。
「はい」
「……ありがとうございます」
「ミレイユ・ドラクロワです。同じ学年ですよ。今まで話したことなかったですね」
彼女は、わたしの名前を知っていた。知っていて、平然と話しかけてくる。
この学院で、わたしに自分から話しかけてくる人は、もう半年ほどいない。
「……わたしと話すと、面倒なことになりますよ」
わたしは正直に言った。ベアトリスのことがある。アンリエッタのことがある。
ミレイユは、きょとんとした。
「なりますか?」
「なります」
「うーん」
彼女は少し考えて、それから図鑑を抱えたまま、わたしの隣の椅子を引く。
「でも、なるかもしれないからって話しかけないでいたら、一生誰とも話せませんよ」
そう言って、勝手に座った。
それが始まりである。
ミレイユは、行動が早い人だった。
わたしが授業で分からない箇所を口にすると、次の日には自分のノートを持ってくる。わたしが昼に食堂へ行けないでいると(行けば料理に何か入っている可能性があった)、パンを二つ買ってきて中庭で分ける。わたしが図書館で長居していると、外套を持ってくる。
「考える前に体が動くって、お兄さまによく怒られます」
ミレイユは笑った。
「お兄さん、いるんですね」
「ジュリアンっていいます。近衛の見習いです。ものすごく真面目で、ものすごく融通がきかなくて。わたしが何かやらかすたびに、三日くらい説教してきます」
彼女は兄の話をするとき、いつも少し自慢げだった。
そのお兄さんに会ったのは、夏の終わりの夕方である。
学院の正門の外に、背の高い青年が立っていた。近衛見習いの制服のまま、直立不動で、明らかに人を待っている。ミレイユがわたしの腕を引いた。
「あ、お兄さま。ちょっと、来てください」
「いえ、あの」
「大丈夫です、怖くないので」
怖くはなかったが、堅かった。ジュリアン・ドラクロワは、わたしに向かって完璧な角度で礼をする。子爵家の嫡男が、男爵令嬢に。
「妹が、いつもお世話になっております」
「いえ、お世話をされているのはわたしのほうで」
「ミレイユ」
彼は妹のほうを向いた。
「先日、寮の窓から屋根に出たそうだな」
「うっ」
「猫を助けるためだと聞いた。猫は無事で、お前は右の手のひらを切った。縫ったのか」
「……三針」
「屋根に出る前に、人を呼ぶという手順がある。何度言えば覚える」
「だって、猫が落ちそうだったんです」
「落ちそうなものを見ると先に体が出る。それがお前の悪い癖だ。いつか取り返しのつかないことになるぞ」
ミレイユは、口をとがらせてわたしを見る。ほら始まった、という顔。
わたしは笑った。学院に来てから、声を出して笑ったのは久しぶりである。
秋の初め、わたしの誕生日に、ミレイユはハンカチをくれた。
白い麻に、青い糸で名前が刺してある。リディア、と読める。読めるが、字が傾いでいて、iの点の位置がずれている。
「3回失敗しました」
彼女は真顔で言った。
「これが4枚目です。3枚は燃やしました。証拠隠滅です」
「……これも、かなり曲がってますけど」
「4枚目が一番ましだったんです」
わたしはそれを、その日から毎日持ち歩くようになる。
好きになってから、気づいた。
ミレイユ・ドラクロワという人物は、『銀薔薇の檻』に出てこない。
わたしは何度も記憶をさらった。攻略対象、ライバル令嬢、友人枠、モブの取り巻き、教師、侍女。ドラクロワという家名すら出てこない。名前の出ない背景の生徒はいくらでもいるが、彼女はヒロインの隣に座る。ヒロインにパンを買ってくる。そんな人物が一行も描かれないはずがない。
つまり、この世界には、ゲームに書かれていない人がいる。
考えてみれば当たり前だ。ゲームはヒロインの半径数メートルしか描かない。この世界には、名前を持った人間が何百万人もいる。
でも、それは同時に、こういうことでもあった。
わたしには、ミレイユの未来がわからない。
この半年、わたしは原作知識を盾にして生きてきた。何が起きるか知っているから、避けられる。誰が誰を裏切るか知っているから、備えられる。
ミレイユには、それがない。
彼女の身に何が起きても、わたしには一行も予告がない。
そのことに気づいた夜、わたしはなかなか眠れなかった。
オクタヴィアも、同じことに気づいているはずである。
――そして、それは彼女にとって、はるかに都合のいい話だった。
◇
思い出したのは、秋の初めである。
図書館で植物図鑑をめくっていて、そのページで手が止まった。
銀鈴草。白い釣鐘の形の花。根に強い毒を持つ。
この名前を知っている、と思った瞬間、記憶が開く。
『銀薔薇の檻』の三年目、秋。王太子セルジュが毒に倒れるイベントがある。
毒は銀鈴草。学院の温室で栽培されていたものだ。そしてこの毒殺未遂は、オクタヴィアの犯行として扱われる。彼女が王太子の心変わりに逆上してやったことだ、という筋書きで、翌春の断罪パーティーへの前振りになる。
原作では、証拠が不十分で沙汰やみになる。オクタヴィアは疑われたまま、罰は受けない。それが積み重なって、最後の断罪につながっていく。
そして、本当は誰が盛ったのか、原作は最後まで書かない。疑いだけが残って、話は先へ進んでいく。
わたしは図鑑を閉じた。
一瞬、こう考える。
――それなら、原作どおりに進めばいい。
彼女が疑われる側になるなら、放っておけばいい。今年がその秋だ。あと一か月ほどで、王太子が倒れる。彼女に疑いがかかる。わたしは何もしなくていい。
その考えが、三秒くらい続いた。
それから、背中が冷たくなる。
あの人が、原作どおりに疑われる側で終わるわけがない。
彼女は原作を知っている。この秋に王太子が倒れることも、自分が疑われることも、全部知っている。知っていて、何もしないはずがない。
筋書きを外すなら、どう外すか。
いちばん確実なのは、犯人を用意することだ。
自分以外の、誰かを。
わたしはその日のうちに、ミレイユをつかまえた。
中庭の隅、人のいないベンチ。
「ミレイユさん。お願いがあります」
「どうしました? 顔が真っ青ですよ」
「温室に、銀鈴草という草があります」
わたしは、慎重に言葉を選ぶ。
「白い、釣鐘みたいな花です。奥のほうの棚にあります。それに絶対に近づかないでください。触らないで、見ないで、話題にもしないでください」
ミレイユは眉を寄せた。
「それ、毒があるやつですか」
「あります。根が強い毒です」
「どうして急に」
「聞かないでください。お願いします」
わたしは、それ以上言えなかった。
言えるわけがない。「わたしは未来を知っている」と言えば、彼女は正直な人だから、いつかどこかでそれを口にする。そうなれば、蔵のような部屋に入れられるのは、たぶん二人だ。
ミレイユは、しばらくわたしの顔を見ていた。
それから、うなずく。
「わかりました。近づきません」
わたしは、心の底から安心した。
安心してしまったのである。
三日後の夕方、ミレイユは温室にいた。
「――何をしているんですか」
わたしが飛び込んだとき、彼女は麻袋を抱えて棚の前に立っていた。土のついた手袋をして、袋の中には白い釣鐘の花がひと株。根ごと抜かれている。
「リディアさん。あのですね」
ミレイユは、少し得意げに言った。
「管理人さんに聞いたんです。そうしたら、あれ、もう誰も授業で使ってないんですって。10年前に薬学の教本が変わって、今は必要ないのに、ずっと植わったままだったらしくて」
「それで」
「危ないじゃないですか。誰でも入れる温室に、毒のある草が置きっぱなしなんて。管理人さんもそう言って、じゃあ処分しましょうって」
彼女は、自分の手を見せる。
「手続きもちゃんとしましたよ。薬草の持ち出し帳に、日付と名前と、株数を書いて。管理人さんの立会いでサインもしました。わたし、こういうのは真面目にやるので」
目の前が、暗くなった。
「……名前を、書いたんですか」
「はい。ミレイユ・ドラクロワって。何かまずかったですか?」
まずいも何もない。
薬草の持ち出し帳。管理人の立会い。本人の署名。日付。株数。
これ以上ないほど完璧な、証拠である。
「リディアさん?」
「――どうして」
わたしの声は、自分でも情けないほど震えていた。
「近づかないでって、言いましたよね」
ミレイユは、きょとんとした顔をして、それから、すごく申し訳なさそうに眉を下げる。
「すみません。でも、リディアさんが怖がってたので。なくしてしまえば、もう怖くないかなと思って」
ああ、と思う。
この人は、そういう人だった。
落ちそうなものを見ると、先に体が出る人。危ないものがあると聞けば、避けるのではなく、取り除きにいく人。兄が三日かけて説教しても直らなかった癖である。
わたしはそれを知っていた。知っていて、「近づくな」とだけ言った。
彼女に「近づくな」と言えば、逆に動く。
それを見越していた人間が、この学院に一人いる。
わたしは、温室の入り口を振り返った。
ガラス越しの夕日の中に、銀色の髪。
オクタヴィアが、こちらを見ている。
彼女は、わたしと目が合うと、小さく手を振った。
そして、口の形だけで、言う。
――ありがとう、と。
お読みいただき、ありがとうございました!
皆様にお願いです
ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】に
応援していただけますと励みになります! よろしくお願いいたします(^^♪




