第1話 同類
入学式の翌日、わたしは空き教室に呼び出された。
呼び出したのはオクタヴィア・ヴァレンシュタイン公爵令嬢。銀の髪に紫の目、この学院で最も家格が高く、最も美しく、そして『銀薔薇の檻』という乙女ゲームで最後に断罪される悪役令嬢である。
来たか、と思う。
わたしが前世を思い出したのは12歳の冬だ。熱を出して三日寝込み、目を覚ましたときには、27歳まで日本で会社員をしていた記憶が全部そろっていた。残業と、コンビニの肉まんと、休みの日に一本だけやっていた乙女ゲームの記憶が。
そのゲームが、この世界。
わたし、リディア・アシュフォードは、そのゲームのヒロインである。男爵令嬢で、平民上がりの家柄で、学院では見下される。そこに王太子殿下が手を差し伸べて――という筋書き。そして悪役令嬢オクタヴィアが嫉妬し、いじめ、失敗し、卒業パーティーで断罪されて修道院へ送られる。
5年かけて、わたしは覚悟を決めてきた。いじめられるのは怖い。でも彼女の結末を知っている以上、破滅だけは避けさせてやりたい。そんなことを考えていた。我ながら善良な話である。
空き教室の窓辺に、オクタヴィアが立っていた。
彼女はわたしを見て、それから、こう言う。
「――おつかれさまです」
日本語だった。
完璧な、なまりのない日本語。
「おつかれさまです」
わたしは反射で返している。
5年分の覚悟が、その二秒で吹き飛んだ。
オクタヴィアが笑う。きれいな顔が、ぐにゃりと崩れるように笑う。
「やっぱり。返しましたわね、今」
「……あなた」
「ええ、同じ。12歳の冬でしたか? わたくしは11歳の秋でした。少しだけ先輩ですわね」
彼女は窓枠に腰かけ、足を組んだ。公爵令嬢がしてはいけない座り方。
「ずっと待っていましたのよ。ヒロインさまが入学してくるのを。この5年、退屈で退屈で」
わたしは声を出すのに苦労する。
「知っていたの。わたしが転生者だって」
「知りませんでしたわ。今、確かめました」
しまった、と思ったときには遅い。
「でも、疑ってはおりましたの。だって、リディア・アシュフォードは12歳のときに大病をしたはずなのに、記録では三日で治っている。原作では一か月寝込むのに」
彼女は指を一本立てる。
「筋書きがずれているところには、必ず誰かが立っておりますわ」
この人は、原作を覚えている。それも、わたしよりずっと細かく。
「……あなたも、転生者なら」
わたしは、かろうじて言葉をつないだ。
「知っているのよね。原作でのあなたの結末を」
「断罪されて、修道院送り。ええ、存じておりますわ」
「なら」
「なら、いい子にして回避しましょう、と?」
オクタヴィアは、心底おかしそうに首をかしげる。
「なぜ?」
「……なぜって」
「わたくし、前世では小売店の店長に怒鳴られる側でしたの。バックヤードで、三十分立たされて。名札を曲げられて。そういう五年間でしたわ」
彼女が自分の胸元の、公爵家の紋章に触れる。
「それが今は、公爵令嬢ですのよ。この国で、王家の次に偉い家の娘。わたくしが眉をひそめれば人が消える。おかしいでしょう。あんなに欲しかったものが、生まれた瞬間から全部そろっていましたの」
紫の目が、まっすぐわたしを見た。
「使わないなんて、もったいないじゃありませんか」
背筋が冷える。
いじめっ子の悪役令嬢は、こういう目をしていない。原作のオクタヴィアは、嫉妬深くて、見栄っ張りで、だから失敗する女だった。目の前の女は失敗しそうにない。
「……断罪されるわよ」
「されませんわ。だって、断罪する人たちを先に全部潰しますもの」
オクタヴィアが窓枠から降りる。
「原作でわたくしを裁いた方々、覚えていらっしゃる? 王太子殿下、騎士団長のご子息、宰相のご子息。それから証言した令嬢が四人」
覚えている。卒業パーティーの断罪シーンだ。
「四人のうち二人は、もうこの学院におりませんわ」
「……何をしたの」
「ひとりは修道院。ひとりは実家ごと」
なんでもないことのように、彼女は言う。
「残りは順番に。三年ありますもの、急ぎませんわ」
わたしは息を吸った。吐いた。もう一度吸う。
「わたしは。原作では、あなたを断罪する側の筆頭よ」
「そうですわね」
「わたしから潰さないの」
オクタヴィアが、また笑う。
今度は、ゆっくりと。
「二つ理由がございますの。ひとつ目は、あなたには殿下がついていること。ヒロインには、あの方々の目がありますわ。わたくしがあなたに手を出せば、真っ先に疑われるのはわたくしですもの。あなただけは、正面から潰せませんの」
それは、知っている。この世界はゲームで、わたしには主人公の位置がある。
「ふたつ目は」
彼女が、わたしの頬に手を伸ばす。氷みたいに冷たい指。
「あなただけが、わたくしのしていることの意味をわかりますもの」
指が、ゆっくりと頬を撫でる。
「この世界の方々は、わたくしが何をしても『気位の高い公爵令嬢だこと』としか思いませんわ。誰も、わたくしが何を壊しているのか知らない。つまらないでしょう」
「……だから」
「だから、あなたには最後まで見ていていただきたいの。全部わかったうえで、何もできずに」
冷たい指が離れた。
「絶望していただいてから、壊しますわ。そのほうが、ずっとおいしゅうございますもの」
教室を出ていくとき、彼女はもう一度振り返る。
「ああ、リディアさま。ひとつご忠告を」
紫の目が細まった。
「この世界で、証拠のない話をなさる方が、どうなるかご存じ?」
わたしは、答えられない。
「狂人ですわ。北の施療院に、蔵のような部屋がございますの。窓が高いところに一つきり。前の生の話をなさる方が、何人か入っておられますわ。わたくし、見に行きましたのよ」
彼女が、扉に手をかける。
「わたくしたち、何を知っていても、それを誰にも説明できませんの。お互いに、ね」
扉が閉まった。
わたしは、しばらくその場から動けなかった。
この人は、原作の悪役令嬢より、はるかに悪い。
そして、それを止められるのは、たぶんこの世界でわたしだけである。
◇
最初の一か月で、わたしは彼女のやり口を理解する。
オクタヴィアは、自分では何もしない。
アンリエッタ・ブランシェ侯爵令嬢の件がそうだった。原作でオクタヴィアの取り巻きをやっていた令嬢で、卒業パーティーではわたしへのいじめを証言する側に回る人物である。
春の終わり、彼女が平民の楽師と密通しているという噂が立つ。証拠の手紙が三通出た。筆跡は本人のもので、内容は読むに堪えないもの。ブランシェ侯爵家は一週間で娘を北の修道院へ送っている。
手紙を「偶然見つけて」侯爵家に届けたのは、アンリエッタの侍女だ。その侍女の弟がヴァレンシュタイン公爵家の口利きで王宮の下働きに採用されたのは、その一か月前である。
誰もつながりに気づかない。わたしは気づいた。気づいたところで、何もできない。
ベアトリス・キールの件は、もっと露骨だった。
キール商会は、学院に食材を納めていた大きな商家である。娘のベアトリスは特待生として学院に通っていた。原作では、ヒロインに最初に話しかけてくれる友人枠の一人。
夏の初め、キール商会の納品に腐った肉が混じる。生徒が20人ほど腹を下した。学院は契約を切り、噂は王都中に広がり、商会は取引先を三つ失う。三か月で潰れた。
秋、ベアトリスはヴァレンシュタイン公爵家に引き取られる。表向きは慈善。実際には、公爵家の当主――オクタヴィアの父親の、三人目の愛人になった。
学院を辞める前の日、わたしは彼女とすれ違っている。目が合った。彼女はわたしに向かって、きれいにお辞儀をした。何も言わずに。
その夜、わたしは吐いた。
そしてクラリス・ヴァレンシュタイン。
オクタヴィアの異母妹で、15歳。去年の冬に階段から落ちて、右足を引きずるようになった。学院では誰とも口をきかない。
一度だけ、廊下で彼女に声をかけている。
「クラリスさま。もしよろしければ、教本を――」
彼女はわたしの顔を見ないまま、後ずさりした。壁に背中がぶつかるまで下がって、そこから動かない。
姉が近くを歩いてくると、クラリスは呼吸を止める。息を止めるのだ。姉が通り過ぎるまで。
わたしは二度と声をかけなかった。かければ、クラリスがオクタヴィアに「何を話したの」と聞かれる。それだけで、あの子には拷問である。
三件。半年で三件。
しかも、これはわたしが気づいた分だけだ。
それでいて、オクタヴィアの学院での評判は完璧だった。
理由は、彼女が一度も外さないから。
いや、正確ではない。彼女は、外すようなことを何も言わない。
この半年、わたしは彼女が未来を口にするのを一度も聞いていない。占いめいたことも、忠告めいたことも、当てずっぽうすら言わない。原作を丸ごと覚えているのに、一言も使わない。
使わないのではなかった。言葉では使わないのだ。
夏の増水で、東の橋が流された。死者が出た。王都と東の村を結ぶ道が、半年のあいだなくなる。
その二か月前に、ヴァレンシュタイン公爵家は上流の渡し船の権利を買っている。持ち主は、橋があるのに渡し船など無駄だと言って、喜んで手放したそうである。
橋が流れたあと、東へ渡るにはその船しかない。
秋、南部から疫病が入った。運んだのは南から来た布商人で、それ以来、南の布は王都で売れなくなる。
公爵家が出資している商会は、春のうちに南の布の在庫を全部さばいていた。相場より少し安く、まとめて。番頭が「思い切ったことをなさる」と首をかしげたという話を、わたしは後から聞いている。
王弟殿下の婚約が流れたときもそうだった。流れる前の年に、公爵家はモロー伯爵家と縁を結んでいる。婚約が白紙に戻って、次に名前の挙がったのが、そのモロー家の令嬢。
北部の不作の前の秋には、北の農地を手放して、南に買い替えていた。
誰も、予言だとは思わない。
思うはずがない。彼女は何も言っていないのだから。
人が言うのは、こうだ。
――さすがヴァレンシュタイン家。抜け目のないことだ。
騎士団長の子息ライナル・フェルゼンは、彼女を心から尊敬していた。
「ヴァレンシュタイン嬢は、本当にすごい」
彼は訓練場で、汗を拭きながらわたしに言う。
「人より三手先を読むんだ。俺には見えないものが見えてる。あの人が動くなら、俺は黙ってついていく」
単純な男である。原作でもそうだった。
わたしは曖昧に笑って、その場を離れる。
完璧な仕組みだ。
言葉を残さない。だから、言葉尻を捕まえられない。あとから振り返って「あのときこう言った」と指をさすことができない。残るのは、正しく買って正しく売っただけの記録で、そんなものはこの国に何万件もある。
そして、わたしには同じことができない。
理由は二つ。
ひとつ。わたしは男爵令嬢で、手元にあるのは月々の小遣いだけだ。渡し船の権利も、商会の在庫も、農地も買えない。同じ紙を読んでいても、彼女には駒があり、わたしにはない。
ふたつ。わたしは、なぜ知っているかを説明できない。
オクタヴィアが最初の日にわざわざ教えてくれたのは、親切ではなかった。お前も同じだ、という念押しである。
王太子セルジュ殿下は、原作どおりわたしに目をかけてくださった。図書館で本を取ってくださったり、茶会に誘ってくださったり。
そのたびに、遠くからオクタヴィアが見ている。
彼女は一度も、わたしに手を出さない。
ただ、わたしの周りにいる人が、順番に減っていった。
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