おかえり
佐伯美緒は、電話では話せないと言った。
その言葉の直後にも、受話口の向こうで食器の音がした。
「今の音は?」
遼が訊くと、美緒は少し間を置いた。
「片づけてるだけです」
「こんな時間に?」
「眠れないので」
午前零時十八分。遼は支局の壁掛け時計を見た。
「明日、会えますか」
「録音は持ってるんですか」
「あります」
「聞かせてもらえますか」
質問へ答える前に、通話が切れた。
翌日、美緒は湖東台の古い喫茶店を指定した。
二十九歳。市内の介護用品店で事務をしている。肩へ届く髪を一つに束ね、真夏なのに薄いカーディガンを着ていた。
彼女は席へ着くなり、遼の携帯電話を見た。
「それに入ってるんですか」
「先に、佐伯さんが聞いたことを教えてください」
美緒は紙ナプキンの角を折った。
「チャイムが終わって、静かになって。それから母が、おかえりって」
「お母さんは同居を?」
「十年前に亡くなりました」
遼はペンを止めなかった。
「ほかには」
「食器を片づけて、って。昔、よく言われたので」
「返事はしましたか」
美緒が顔を上げた。
「どうしてそれを訊くんですか」
「名前を呼ばれて、返事をした人がいなくなるという話が出ています」
口にした瞬間、その話が既に事実の形を帯びた。
美緒は首を振った。
「返事はしてません。できなかった」
「怖かったから?」
「母じゃないって、分かってたからです」
彼女は窓の外を見た。
「声は母でした。でも、母なら、おかえりとは言わない。私が帰ったら、先に手を洗えって言う人だったから」
声が似ていることと、その人であることは別だった。
遼は姉の録音を再生する前に、美緒の携帯電話を机へ置いて録音させた。あとで比較するためだった。イヤホンは自分のものを渡した。
「一回だけ聞いてください。聞こえた言葉を、相談せず書いてもらいます」
美緒は頷いた。
再生が始まる。
チャイムの間、美緒は動かなかった。終わったあと、左手がテーブルの下へ降りた。何かを握るように指が曲がった。
二十七秒の区間が過ぎる。
美緒はイヤホンを外した。
「同じでした」
「書いてください」
彼女は遼のノートへ顔を寄せた。
おかえり。聞こえてる、ね。食器を片づけて。そこで返事をして。
「最後は前にも?」
「そこまでは、覚えてません」
「今は聞こえた?」
「はい」
「もう一度、聞きますか」
美緒はすぐに頷き、それから迷った。
「聞けば、はっきりするんですよね」
「普通は」
遼は答えた。
普通は、という言葉が逃げ道に聞こえた。
二度目の再生を終えると、美緒は同じ紙へ別の文を書いた。
おかえり。聞こえてるね。三つ目まで片づけて。そこで返事をして。
「三つ目?」
「今、そう言いましたよね」
遼は答えなかった。
自分の文字起こしは見せていない。だが昨夜の電話か、既にあるネット上の文章から、美緒が同じ語を知った可能性は残る。
「最初は食器だったんです」
美緒は一枚目と二枚目を見比べた。
「今も、食器って聞こえました。でも三つ目とも聞こえた」
「どちらが正しいと思いますか」
「分かりません」
彼女はイヤホンを遼へ返した。
「水城さんには、何て聞こえるんですか」
「まだ言えません」
「言ったら、私にもそう聞こえるから?」
遼はノートを閉じた。
美緒は、わずかに笑った。
「もう、遅い気がしますけど」
喫茶店を出たあと、美緒は自宅の録音環境も見てほしいと言った。
湖東台の戸建て住宅は、同じ外壁、同じ角度の屋根が並んでいた。造成から二十年ほど経ち、庭木の育ち方だけが家ごとの差を作っている。
美緒の家は、玄関脇に小さな柚子の木があった。
「母が植えました。実がなる前に亡くなったんですけど」
居間には仏壇がなく、棚の上に女性の写真が一枚置かれていた。写真の横に、青い縁の茶碗がある。
「昨夜、電話で食器の音がしていました」
「これを洗ってました」
美緒は茶碗を持ち上げた。
「使ってるんですか」
「たまに。変ですか」
「いいえ」
遼は答えた。記事なら、亡母の茶碗を今も使う、という一文は読者の注意を引くだろう。声を母親だと思った理由にも見える。
だが、それを説明として書けば、美緒の悲嘆が怪異の原因へ使われる。
「お母さんの声は、普段から思い出しますか」
「顔より声の方が忘れますね」
美緒は茶碗を戻した。
「亡くなって二、三年は、夢の中でもはっきり話してました。今は内容だけ分かって、音は思い出せない。だから昨日の声が母に似てたっていうのも、本当かどうか」
「それでも母親だと思った」
「言い方です。『食器を片づけて』って、私に言う人は母しかいなかったから」
声色ではなく、文の内容が人を決めた。
「放送を聞く前、何をしていました」
「夕食のあと。食器を流しへ運んで、テレビを見てた」
「テレビの音声が混じった可能性は」
「あります。録画したドラマでした。残ってます」
美緒は再生履歴から番組を開いた。
該当時刻の場面では、食堂にいる家族が会話をしていた。母親役の女優が娘へ、小皿を片づけて、と言う。
遼は画面を止めた。
「これですか」
「違います」
美緒はすぐに答えた。
「でも、言ってることは同じです」
「声が違う」
「放送の声は、母だった?」
「分かりません」
彼女は苛立ったように髪を耳へ掛けた。
「似てたと思ったんです。でも今、この人の声を聞いたら、この人だった気もする」
テレビ音声が窓の外のチャイムへ重なり、反響や圧縮で別の声に聞こえた。
十分にあり得る説明だった。
遼は番組名と時間を記録した。
「これで、私の聞いたことは勘違いになりますか」
「可能性が一つ増えます」
「便利な言い方ですね」
美緒は録画を止めた。
遼は謝ろうとしたが、何に対して謝るのか決められなかった。
玄関へ向かう途中、廊下の壁に子供のころの写真が並んでいた。美緒と母親が湖畔で写っている。背景に、現在のものとは違う細いスピーカー塔があった。
「昔の防災無線ですか」
「たぶん。ここへ越してきた年だから、二十年くらい前」
「写真を借りても?」
「母の顔を記事に出さないなら」
「今は記事にしません」
美緒は「今は」という部分を聞き逃さなかった。
「水城さんは、お姉さんの録音を記事に出すんですか」
「分かりません」
「私の文字起こしは?」
「許可なく出しません」
「許可を取れば出す?」
「捜索に必要なら」
遼の答えは、また目的を盾にしていた。
美緒は写真を壁から外さなかった。
「見つかってほしいとは思います。でも、知らない人に母の声を読まれるのは嫌です」
音声ではなく文字でも、声を読まれる。
遼はその言い方をノートへ書かなかった。
書けば、もう美緒だけの言葉ではなくなる気がした。




