放送はありませんでした
鳴代市役所の危機管理課は、来庁者用の窓口を持たない。
一階の受付で用件を伝え、内線で担当者を呼び出してもらう。遼が紗季の弟だと名乗ると、十分ほどして総務課の職員が降りてきた。
紗季は前日、通常どおり出勤している。退庁時刻は確認中。個人の勤務記録については、警察へ回答する。
職員はそれだけを繰り返した。
「昨夜、姉から仕事の録音が送られてきました」
職員の顔がわずかに動いた。
「どういった録音でしょうか」
「防災無線です」
「でしたら、危機管理課へ確認します」
「午後六時のチャイムのあと、人の声が入っています」
職員は答えず、受付から少し離れた。携帯電話で内線をかけ、小声で話した。
今度は、作業服を着た男が降りてきた。
紗季の録音に入っていた声を、遼は知らない。だが、鞄の留め具が机へ当たった音なら覚えていた。
男が持つ灰色の鞄には、鳴代防災設備のロゴがあった。
「保守の久世です」
「水城です。相原紗季の弟です」
久世は一瞬、遼の顔ではなく、その手にある携帯電話を見た。
「録音をお持ちだと聞きました」
「姉が録ったものです」
「こちらで確認させていただけますか」
「その前に、昨日の六時に何を放送したか教えてください」
「定時チャイムです」
「そのあとに音声は?」
「ありません」
「三件、苦情が来ていますね」
久世は総務課職員を見た。
「誰から聞きました?」
「姉のメッセージに受付番号がありました」
遼は画面を見せた。番号だけで、録音は再生しない。
久世は三つの番号を目で追い、最後の一つで止まった。
「この番号、昨日のうちにはなかったはずです」
「どういう意味ですか」
「連番が飛んでます。いや、受付経路が違えばあとで採ることはあります」
「旧N-03という設備から聞こえたと書いてあります」
久世は黙った。
「旧N-03は、どこです」
「鳴沢の採石場口です。ただし撤去済みです」
「スピーカーがない?」
「柱とホーンは残っています。回線と商用電源を撤去しているので、放送設備としては使えません」
「なのに、そこから聞こえたという申告があった」
「申告者が設備番号を正しく認識しているとは限りません」
「姉はそれを調べていた?」
「相原さんは受付をしていました」
「質問に答えてください」
「私が答えられるのは設備の状態です」
久世の声には、怒りより疲れがあった。
「昨日の十八時、中央操作卓から送信されたのは定時チャイムだけです。開始と終了は正常。臨時送信の履歴はない。旧N-03に回線はない。ですから、市の設備から、あなたの言う音声は放送されていません」
「録音には入っている」
「録音に入っていることと、市が送ったことは別です」
遼は言い返そうとして、やめた。
久世の言葉は責任逃れに聞こえた。だが、内容は正しかった。
「操作卓を見せてもらえますか」
「一般の方には」
「なら、記者として取材を申し込みます」
野辺が隣で息を吐いた。
遼は鞄から記者証を出した。
家族として答えを得られなかったからではない、と自分へ言い訳した。設備の説明が市民へ開示されるべき情報だからだ。
総務課職員は上司へ確認すると言って席を外した。
野辺は遼の腕を掴み、柱の陰へ引いた。
「置いていけと言った」
「状況が変わった」
「変えたのはお前だ」
「姉が消えてるんですよ」
「だから家族として捜せ。取材対象にするな」
「記事にするとは言ってない」
「記者証を出すってのは、相手へ記事になるかもしれないと告げることだ」
遼は腕を振りほどいた。
「脅してません」
「お前がそう思ってなくても、向こうはそう聞く」
その言い方が、録音の声を思い出させた。
同じ音でも、聞く側によって違う。
遼は記者証を鞄へ戻した。
操作卓を出たところで、紗季の隣席だった職員が遼を呼び止めた。
胸札には、河野とある。三十代の女性で、昨日、苦情電話を受けていた職員だった。
「ご家族へお話ししていいか、分からないんですけど」
河野は廊下の端へ遼を連れていった。野辺が少し離れて立ち、会話へ入らない位置を選んだ。
「相原さん、昨日、帰る前に書庫へ行ってます」
「何時ですか」
「七時半くらい。古い設備台帳を探すって」
「旧N-03の?」
「それだけじゃなくて、合併前の有線放送。私、そんなものまで設備係にあるのかって訊いたから覚えてます」
「戻ってきた?」
「一度。コピーを持ってました。そのあと、また席を外して」
「退庁した時刻は」
「分かりません。私は八時前に帰ったので」
「コピーはどこに」
河野は紗季の空席を振り返った。
「机にはありません。警察が持っていったのかもしれない」
「何の資料だったか見ました?」
「地図みたいなものと、名前の一覧。上に『別紙三』って」
遼は聞き返した。
「別紙三?」
「はい。でも自信はないです。紙を重ねて持っていたから」
河野は声を落とした。
「それから、変なことを訊かれました」
「何を」
「市役所の放送って、名前を読み上げることがあるかって」
「何と答えたんです」
「行方不明者や避難対象者なら、原稿に名前が入ることはある。でも定時放送ではないって」
「姉は何か言いました?」
「『原稿にない名前は?』って」
河野はそこで、自分の腕を抱いた。
「冗談だと思いました。だから、操作する人が勝手に言わなければ入らないって答えた」
「操作する人が、勝手に」
「でも昨日、操作卓のマイクは使ってません。私もいました」
「録音音声を混ぜることは?」
「久世さんが説明したでしょう」
「あなたが見たことを訊いています」
河野の顔が硬くなった。
遼はまた、家族の声から記者の声へ変わっていた。
「すみません」
先に謝ると、河野の肩が少し下がった。
「昨日の定時放送は普通でした。相原さんが送出ボタンを押して、チャイムが終わって、表示も戻った。久世さんが履歴を確認した。それだけです」
「そのあと、姉は録音を聞いた」
「イヤホンで。一度聞いて、すぐ外しました」
「様子は」
「怖がっているようには見えなかった」
河野は考え直すように間を置いた。
「怖がる前に、仕事にしようとしていた。時刻を書いて、受付票を並べて、同じ障害か確認してた。相原さん、そういう人だから」
それは遼の知る姉でもあった。
不可解なものを不可解なまま誰かへ話す前に、時刻と番号を付ける。自分の感情より、再現できる手順を先にする。
「録音の中で、何と聞こえたか話しましたか」
「いいえ」
「誰にも?」
「たぶん」
河野は胸札の端へ触れた。
「ただ、紙に何か書いて消してました。私が見たら、上の複写を外したんです」
「何を書いたかは」
「分かりません」
分からないことが、また一つ増えた。
遼は河野の連絡先を訊かなかった。市の職員として話した内容を、本人の許可なく記事へ使わないと約束した。
約束した瞬間から、使える情報と使えない情報が分かれた。
捜索には使える。記事には使えない。
野辺が言っていた違いが、ようやく具体的な形を持った。
階段を下りる途中、遼は警察へ河野の話を伝えた。別紙三らしい複写、古い設備台帳、七時半以降の紗季の行動。
電話の相手は既に河野から事情を聴いていると答えた。
「コピーは押収しましたか」
「捜査上のことは回答できません」
「書庫の防犯カメラは」
「確認しています」
「姉が庁舎を出た映像は」
「確認中です」
遼は通話を切った。
「警察は遅い」と言いかけた。
野辺が先に言った。
「答えないことと、やってないことを一緒にするな」
「分かってます」
「今日、何回目だ」
「何がです」
「分かってる、と言った回数だ」
市役所の自動扉が開いた。外の熱気が、冷えた庁舎へ流れ込んだ。
遼は振り返った。
四階の窓は日光を反射し、どれが危機管理課か見分けられなかった。
あの窓際で姉は声を聞き、時刻と番号を付け、誰にも内容を言わず、弟へ送った。
助けを求めたのか。
自分の聞こえ方を、別の人間で試したのか。
その二つを、まだ分けることができなかった。




