みなせ
美緒は同じ病院の別棟に、一晩だけ入院した。
足裏の傷を処置され、眠ったあと、翌朝には会話ができた。遼が病室へ入ると、ベッド脇の台に食事の食器が重ねてあった。
「取材ですか」
美緒が訊いた。
「違います」
遼は鞄から録音機もノートも出さなかった。
「記事を公開したことを、謝りに来ました。あなたが話した言葉を、確かめる前に読める状態へ置いた。消しても、読んだ人までは戻せません」
美緒はすぐには答えなかった。
「あの記事を読んだから、私が歩いたと思いますか」
「影響した可能性はあります」
「それを原因にしないでください」
美緒は窓の方を見た。
「記事を読んだことも、声を聞いたことも、私が確かめようと思ったことも、全部ありました。一つだけのせいにされたら、ほかがなかったことになる」
「分かりました」
「まだ分からない、でしょう」
遼は言い直した。
「分からないまま書きます」
「私が聞いた名前は、書かないでください」
「はい」
「聞かなかったことにも、しないで」
遼は頷いた。
記事には、佐伯美緒が個人名らしい音を聞いたと証言したことだけを残し、名前の候補と完全文字起こしを載せなかった。
病室を出てから、遼は時刻と訪問目的だけをノートへ記した。
会話の内容は書かなかった。
書かないと決めたことまで消えないよう、〈本人の希望により非記録〉と付けた。
紗季は脱水と低栄養、軽い低体温で入院した。
点検坑内の古い非常用貯水と、持っていた栄養補助食品で生き延びたとみられた。なぜ坑へ入ったのか、本人の記憶は断片的だった。
医師は、長時間の脱水と睡眠不足が記憶の順序へ影響する可能性を説明した。
「思い出させようとして質問を重ねないでください。本人が答えられないところを、質問の語で埋めてしまうことがあります」
遼は録音機を持ってきていた。
電源を入れず、鞄へ戻した。
「道を歩いたのは覚えてる」
病室で、紗季は言った。
「誰かに呼ばれた?」
遼は訊き、すぐに後悔した。
「呼ばれたと思った」
「誰に」
「それが分からない。自分の名前だったのかも、違う名前だったのかも」
「録音を送ったのは、助けを求めたから?」
紗季は窓の外を見た。
「一人で聞いていたくなかった」
「共有リンクを作ったあと、誰かに送りましたか」
「あなたと、直子に送ろうとした。送ったかは覚えてない」
「掲示板は見た?」
「見たと思う。でも、録音の前かあとか分からない」
「投稿した?」
紗季は長く考えた。
「してない、と思う」
否定ではなく、現在の確信の強さだった。
投稿六十七番を紗季が書いた可能性は消えなかった。
同時に、本人へ画像を見せて思い出させることも、今はできなかった。
「俺にも聞かせようとした?」
「聞けば、違うものになると思った」
「俺なら違う名前に聞こえると?」
「違う名前か、ただの音に。二人で違えば、私が聞いたものが決まりじゃなくなる」
「実際、俺には自分の名前に聞こえた」
「そう」
紗季は安堵も恐怖も示さなかった。
「じゃあ、違った」
同じ録音から違う名前を聞いたことは、怪異の性質を示すようにも、一人ずつの期待を示すようにも読める。
姉にとっては、自分だけの声ではなかったという事実で十分だった。
「違うものにして、消したかった?」
「分からない」
紗季は目を閉じた。
「ごめん。今は、何を思って送ったのかと、あとでそうだったと思ったことが分けられない」
遼は質問用紙の残りを伏せた。
そこには、三つ目、返事、ミナセ、八人目という語が並んでいる。
答えを得るための質問が、答えの候補を先に渡す形になっていた。
「思い出したことがあれば、自分の言葉で書いて。急がなくていい」
紗季は頷いた。
遼は用紙を渡さなかった。
白紙のノートだけを置いた。
記憶は資料ではなかった。
資料も、記憶から独立してはいなかった。
遼はそれ以上訊かなかった。
病室を出ると、直子が廊下にいた。
「私、隠してたことがある」
七月二十三日の夕方、紗季との電話中に食器の音がした。直子は自宅にいて、紗季は市役所にいた。
紗季は電話の向こうへ、「お母さん、そこにいるの」と言った。
「私に言ったんじゃなかったの?」
「違う。電話から顔を離して、部屋の中へ言ったみたいだった」
「どうして警察に言わなかった」
「疲れてるだけだと思った。家庭のことでおかしくなったって扱われるのが嫌だった」
直子は両手を握った。
「私が言っていれば、早く見つかった?」
「分からない」
遼は答えた。
「でも、いま警察へ話してください。いつ聞いたかと、いま思い出したことを分けて」
直子は頷いた。
「食器の音は、その時から覚えてた。紗季の言葉は、あなたに録音を聞かされてから思い出したかもしれない」
遼はその区別を記録した。
遅れて出た証言は、価値がないのではない。
遅れて出たという条件ごと残す必要があった。
分からないことを、責任逃れではなくそのまま口にするのは、思っていたより難しかった。




