点検坑
北側坑口へ着いたのは、午後四時を過ぎてからだった。
保守図の縮尺では、入口から旧機械室まで六百二十メートル。その先で坑道は二つに分かれ、南坑口と排水槽へ続く。
消防は酸素濃度と可燃性ガスを測り、隊員へ位置標識を持たせた。図面が古いため、崩落と冠水を前提に進む。
遼には、図面が見つかればすぐ入れると思えていた。
実際には、扉を開けるまでにも安全確認の時間が必要だった。
救助を急ぐことと、救助者を危険へ入れないことは、同じ方向へ進みながら速度が違った。
警察と消防の先行隊が草を刈り、金属扉の前を開いていた。南京錠は錆びていたが、柏木の鍵で回った。
錠の内部だけ、外側ほど錆びていなかった。
最近開けられたのか、扉の庇で雨を避けていたのか。警察は錠と鍵を回収前に撮影した。
扉の下には、細い擦れ跡が二本あった。
紗季が開けた跡か、美緒が近づいた跡か、過去の保守作業かは判定できない。
扉を引くと、湿った空気が押し出された。
坑内に電源はない。救助隊の照明がコンクリートの壁を白く切り取る。足元には細い排水溝があり、水が一定の方向へ流れていた。
遼は入口で止められた。
「家族です」
「危険です」
「図面を見つけたのは俺です」
「それと入坑許可は別です」
正しい言葉だった。
遼は従った。
以前なら、家族であることを理由に押し通したかもしれない。
今は入口の時刻、入坑人数、無線の報告を記録した。
自分が中へ入らないことも、救出へ参加しないことではなかった。
入口の外で、無線を聞く。
第一分岐、異常なし。
報告のあと、無線に同じ語が小さく重なった。
異常なし。
隊員の復唱か、坑道内の無線が別端末へ回り込んだのか。指揮隊は周波数を変更した。
重なりは消えた。
排水路、通行可能。
旧機械室、椅子あり。
遼は顔を上げた。
「椅子?」
無線が一拍遅れて繰り返した。
〈椅子あり〉
折り畳み椅子が一脚、坑内の壁へ向けて置かれていた。古い備品だと報告された。
椅子の脚には新しい擦り傷があった。
床の粉塵には、引きずった半円形の跡。誰かが最近動かした可能性がある。
後の確認で、旧第二集合所の備品台帳に同型椅子が一脚不足していた。いつ坑内へ移されたかは不明だった。
椅子音は実物の椅子で説明できるようになった。
その音が録音や投稿へ入った経路までは、説明できなかった。
その先で、人の衣服を確認。
呼びかけに反応あり。
相原紗季を発見。
生存。
無線の声が震えた。
遼は時刻を書こうとして数字を一つ間違えた。線で消し、書き直した。
十六時四十三分。
救出の瞬間も、記録にすれば訂正跡を持つ。
遼は扉へ一歩近づいた。警察官が腕を伸ばしたが、今度は止めなかった。
担架が出てくるまで、十分ほどかかった。
紗季は痩せ、顔色を失っていた。右手に擦過傷、唇は乾き、目を閉じている。監禁に使われた拘束具や、第三者の生活痕はなかった。
衣服には泥と石灰粉が付着し、鞄には空の飲料容器、栄養補助食品の包み、携帯電話、印刷した保守図の一部が入っていた。
図面は共有フォルダに保存された画像を印刷したものだった。
紗季は点検坑の存在を知り、自分で準備して入った。
誰かに連れ込まれた証拠はなかった。
携帯電話は電池を使い切っていた。
解析では、七月二十四日四時十九分に圏外表示、四時二十七分に録音アプリ起動、四時二十九分に異常終了。その後、断続的に画面を点灯した記録があり、二十六日夜に電源が落ちていた。
四時二十七分の音声ファイルは破損し、通常の再生はできない。
復旧を試みれば断片が得られる可能性はあると説明された。
遼は家族として同意を求められ、すぐには答えなかった。
救出に必要な解析は終わっている。
残る目的は、姉が何を聞いたか知ることだった。
遼は紗季が判断できるまで復旧を保留した。
聞ける資料を、聞かないまま残す選択だった。
「姉さん」
遼が呼ぶと、紗季の目が開いた。
焦点が合うまで時間がかかった。
「遼だよ」
紗季の唇が動いた。
声は小さかった。
「みなせ」
「何?」
「……水、飲ませて」
救急隊員の記録には、最初の発話が〈水〉とだけ書かれた。
遼の記憶には「みなせ」が残った。
同じ場にいた警察官は、「水を」と聞いたと後に答えた。柏木は離れた位置にいて聞き取れなかった。
複数人がいたからといって、一つの発話が一つの形で残るわけではなかった。
救急隊員が遼を下がらせた。
みなせ、と言ったのか。
水、飲ませて、の最初がそう聞こえただけか。
遼は聞き返さなかった。
担架が救急車へ運ばれる。
坑口の無線で、隊員同士の応答が一拍ずつ遅れていた。
岩壁の反響だった。
それで説明できた。
それでも遼には、声が返る前の空白が、姉の録音と同じ長さに感じられた。
測ってはいない。録音もない。
十一秒だったと書けば、あとから誰も検証できない数字になる。
遼はノートへ、〈長く感じた。計測なし〉とだけ書いた。
携帯電話の録音ボタンへ指を置いた。
押さなかった。




