旧第二集合所
札のない鍵は、点検坑ではなく旧第二集合所の倉庫を開けた。
中には折り畳み椅子、古い担架、消防団のヘルメットが積まれていた。壁際の書類棚に、採石場の保守図が丸めて差してある。
図面の日付は一九八六年。
右下の改訂欄には、一九八八年に排水路延長、一九九〇年に南坑口閉鎖とある。
北側出入口の閉鎖記録はない。
現在の市の施設台帳では、点検坑そのものが〈採石場閉鎖に伴い廃止〉の一行へまとめられていた。
廃止と封鎖は、同じ意味ではない。
設備として使わないことと、人が入れないことも違う。
紗季は、その違いを図面から見つけた可能性があった。
旧N-03から西へ管理道が伸び、採石場の下を通る点検坑へ続いている。坑口は二つ。表側は崩落後にコンクリートで封鎖。北側の換気口兼用出入口は、金属扉と南京錠。
「鍵はこっちだ」
柏木が担架の下から小さな鍵箱を出した。
点検坑の札が付いていた。
「最初から出してください」
「使えると思わなかった。三十年以上開けていない」
「姉が図面を見た可能性は」
「祭りの資料と一緒に、市へ複写を出した」
「いつです」
「復元調査の時だから、一九九八年だ」
「市のどこへ」
「観光課だったと思う」
合併後、観光課の旧資料は郷土資料館と危機管理課へ分かれて移管された。一部は目録に載らず、旧第二集合所の倉庫へ戻された。
点検坑図は、誰かが秘密にしていたのではない。
誰の現用資料でもなくなり、探す場所が消えていた。
遼は市へ、紗季が共有フォルダへ保存した図面画像の取得履歴を照会した。
七月二十三日十九時二十六分、紗季のアカウントが開いている。
二十時十四分、共有リンク対象へ追加。
図面は録音より前から、紗季の調査対象だった。
声を聞いたから点検坑を知ったのではない。
点検坑を調べていたときに声を聞き、その二つを結びつけた可能性がある。
因果の向きが反対なら、怪異に導かれたという説明は弱くなる。
それでも、なぜ一人で夜の坑へ向かったかは残った。
遼は図面を撮影し、警察へ送った。
そのとき、捜索隊から無線が入った。
旧第二集合所跡の裏、雨水路の中で佐伯美緒を発見。
生存。
発見地点はN-04から南西へ約四百メートル。基地局範囲の中で、祭礼順路からは見えない低地だった。
雨水路へ下りる斜面には、裸足のものらしい薄い血痕が点々と残っていた。
湖畔の靴から続く足跡ではない。
途中の舗装路では痕跡が切れ、どの道を通ったかは分からなかった。
遼は外へ走った。
美緒はコンクリートの水路へ座り、消防団員から毛布を掛けられていた。裸足だった。足裏に細かな切り傷があるが、大きな外傷はない。
「佐伯さん」
遼が近づくと、美緒は顔を上げた。
「靴、なくしました」
「湖畔にありました」
「そうですか」
彼女は驚かなかった。
「脱いだことを覚えていない?」
「湖のそばで足が重くなって。脱げば歩きやすいと思った気がします」
「揃えて置きましたか」
「分かりません」
美緒は、思い出そうとするたび眉を寄せた。
「母は、靴を脱いだら揃えなさいって言う人でした」
記憶にない動作へ、母の習慣が説明として入ってきた。
説明できることと、思い出したことは同じではない。
「どうしてここへ」
警察官が遼を止めようとしたが、美緒は答えた。
「帰ろうとしたんです。鐘が鳴って、母の声がして」
「返事をしましたか」
「してません」
美緒は毛布の中で両手を握った。
「母じゃなかった。私の声でした。先の方から、私が私を呼んでた」
「何と言っていた」
「聞こえてるね。三つ目まで」
「それで歩いた?」
「違います」
美緒は強く首を振った。
「歩いたら確かめられると思ったのは、私です。声に動かされたわけじゃない」
怪異のせいにすれば、彼女の選択は消える。
本人はそれを拒んでいた。
「音が鳴っているあいだは、声が消えました」
美緒は続けた。
「静かになると、少し先から聞こえた。だから、次に音が鳴る方へ行けば追いつけると思った」
「何に」
「私の声に」
子局の音列が美緒を導いた、と書くことはできる。
だが美緒は、音列を手掛かりに自分で歩いたと話している。
設備の不正が捜索経路を作ったことと、設備が意思を操ったことは別だった。
「N-04の近くで、椅子の音がしました。もっと先から。誰かが待ってると思った」
「誰が」
「分かりません。でも、私じゃない人の名前を呼びました」
「何という名前です」
美緒は唇を動かしたが、声にならなかった。
「女の人の名前です。でも、聞いたことがない名前じゃなかった」
「どこで」
「記事か、紙か。水城さんから聞いたのかもしれない」
遼が一度でも「紗季」という名を美緒の前で口にしたか、すぐには確かめられなかった。
取材記録を遡れば分かるかもしれない。
今ここで候補を示せば、確かめる前に答えを作る。
遼は質問を止めた。
「書けますか」
訊いた瞬間、遼は野辺の赤字を思い出した。
検証のために同じ文を何人に読ませるつもりだ。
「すみません。今はいいです」
遼は取材ノートを閉じた。
美緒は運ばれる直前、点検坑の図面を指した。
「椅子の音は、そっちです」
「見たんですか」
「見てません。音が、曲がり角の向こうへ移っていった」
「移った?」
「そう聞こえました」
美緒は断定を自分で言い直した。
音源が移動したのか、歩くたび反響の方向が変わったのかは分からない。




