十一時間後
鳴代市は、中心市街を抜けると急に空が広くなる。
東側には湖があり、西側には山が迫っている。その間へ新しい住宅地と古い集落が押し込まれ、合併前の町名だけが道路標識やバス停に残っていた。
湖東台へ向かう坂道で、野辺の車のラジオが正午前のニュースを読んでいた。県内の最高気温、河川の水位、昨夜から連絡の取れない市職員。
名前は出なかった。
「もうニュースになってる」
「警察発表じゃない。市役所の職員が来てないって話が回っただけだ」
野辺は前を見たまま言った。
「だから、お前は記事を書くな」
「まだ何も言ってません」
「言う前に言ってる」
紗季の住む集合住宅は、湖東台二丁目の端にあった。白い外壁は雨筋で灰色になり、駐車場には昨夜の雨が浅く残っていた。
玄関前に警察官が一人いた。
直子は台所の椅子へ座り、両手で冷めた湯呑みを包んでいた。遼を見ると立ち上がりかけ、やめた。
「ごめんね。仕事だったでしょう」
「姉さんの部屋、見てもいい?」
直子は警察官へ目を向けた。若い警察官は、荒らさないようにとだけ言った。
部屋に争った跡はなかった。
寝室の布団は畳まれている。財布と健康保険証は机の引き出しにあり、通勤用の鞄がない。紗季が普段履く靴も玄関から消えていた。
計画して出たようにも、仕事へ行くつもりで出たようにも見えた。
居間の窓際に、小さな机と椅子があった。
机の上には市の封筒、祭礼のパンフレット、付箋を貼った事故報告の複写。端に、空のマグカップが二つ並んでいた。
「誰か来てた?」
遼が訊くと、直子は首を振った。
「昨日は私もこっちにいなかった。あの子、同じカップを二つ使うことがあるから」
「一人で?」
「片方にコーヒー、片方にお茶」
あり得る説明だった。
片方のカップの底には、乾いた茶葉が一枚だけ張りついていた。
窓を開けると、湖から湿った風が入った。遠くに防災無線のスピーカーが見える。白い柱の上で、四つのホーンが別々の方角を向いていた。
録音はここで行われたのではない。
ファイル名の窓際は、市役所の窓だ。
それでも遼は携帯電話を取り出し、同じ位置へ置いた。
「何してるの」
「音がどう入るか見てるだけ」
直子は何か言いかけた。
そのとき、台所で陶器の触れ合う音がした。
三人ともそちらを見た。
流し台の水切り籠で、皿が一枚、ゆっくり傾いて止まった。
警察官が窓から入った風だと言った。
台所の窓は閉まっていた。
遼は何も言わず、携帯電話の録音を止めた。
波形には、皿の音が大きく残っていた。
人の声はなかった。
遼は録音を警察官にも聞かせた。
若い警察官はイヤホンを片耳だけに入れ、チャイムのあとで眉を寄せた。
「何か喋っていますね」
「名前は?」
「名前?」
「最初に、何と聞こえました」
警察官はもう一度再生しようとした。
「一回だけで答えてください」
遼が止めると、相手は不審そうにイヤホンを外した。
「分かりません。女の声みたいですが」
「俺には自分の名前に聞こえた」
「水城さんの?」
「姉には、姉の名前に聞こえたらしい」
その説明をしたあと、警察官が録音を聞けば、もう独立した聞き取りにはならない。遼は気づいたが、遅かった。
「ファイルを提供してもらえますか」
「姉の捜索に使うなら」
「用途はこちらで判断します」
遼は転送画面を開き、指を止めた。
録音には市職員の会話が入っている。無断で第三者へ渡してよいのか。姉は遼へ送ったのであって、警察へ提出したわけではない。
だが、姉の意思を確認できないからこそ捜索届を出している。
「コピーを取って、原本は端末に残してください」
野辺が横から言った。
「転送日時と渡した相手を記録する。音声を編集せず、ファイル情報も一緒に」
警察官は頷いた。
遼はファイルを送った。
送信済みの表示が出る。
同じ録音が三つになった。
紗季の共有フォルダ。遼の携帯電話。警察の端末。
内容が同じでも、保存場所が増えるたび、誰が何の目的で聞くかが変わる。
「紗季さんの最近の様子で、変わったことは」
警察官が直子へ訊いた。
「仕事を持ち帰ることが増えていました」
「悩みや人間関係は」
「あの子は、悩んでいても整理してから話すから」
「交際相手は」
「いません」
直子はすぐ答えた。
遼には、その即答が事実を知っているからか、知られたくない話題を閉じたからか分からなかった。
「水城さんとは、よく連絡を?」
今度は遼が訊かれた。
「月に一度くらい」
「最後に会ったのは」
「正月です」
口にすると、半年以上前だった。
姉が自分を頼ったことに、遼は特別な意味を感じていた。だが単に、日常を知らない相手だから送れたのかもしれない。近くの人間へ言えば心配される。遠くの弟なら、資料として扱ってくれる。
記者として選ばれたのか。
家族として選ばれたのか。
あるいは、どちらでもない、聞いてくれる誰かとして選ばれただけか。
警察官は紗季の写真を一枚借り、部屋を出た。
直子が流し台からマグカップを二つ持ってきた。
「これ、片づけてもいいのかしら」
「警察に訊いた方がいい」
「事件じゃないかもしれないのに」
「事件じゃなかったら、戻ってきて怒るだけだよ」
直子は少し笑った。
「そうね。紗季、勝手に机を触ると怒るものね」
遼は、姉が戻ったときの話をする直子を見た。
自分も同じように話すべきだと思った。
だが頭の中では既に、失踪時刻と録音の作成日時を並べていた。




