姉から届いた音声
水城遼が姉からのメッセージに気づいたのは、送信から十一時間後だった。
七月二十四日、午前七時十二分。
北嶺日報支局の仮眠室で目を覚まし、枕元の携帯電話を裏返した。充電残量は九パーセント。着信が三件、編集部の連絡が六件、その下に相原紗季の名前があった。
変なものを送ってごめん。
文面はそれだけで始まっていた。
遼は上体を起こした。姉が謝罪から文章を始めることは珍しい。たいていは用件だけを書き、必要なら最後に「悪いけど」と付ける。先に謝るときは、自分でも説明できない頼み事をする場合だった。
時刻を曖昧にすることもなかった。遅れるなら「少し」ではなく何分、帰れないなら「今夜」ではなく日付を書く。家族の連絡にまで業務日誌のような正確さを持ち込む人だった。
その姉が、何を聞いたかではなく、聞こえているなら、と書いていた。
添付ファイルが一つ。共有フォルダへのリンク。受付番号らしい英数字が三行。
最後に、もう一文あった。
〈聞こえているなら、まだ返事をしないで〉
遼は一度、画面を閉じた。
仮眠室の外で、輪転機ではない小型プリンターが動いていた。朝刊の時間はとっくに終わっている。デスクの誰かが資料をまとめているのだろう。
姉の文章は、夜中に読むと怖い種類の冗談に見えた。朝の光の中では、仕事で疲れた人間の言葉に見える。
遼は録音ファイルを開いた。
再生時間は一分二十三秒。ファイル名は、`1800_窓際.m4a`。
最初に椅子の軋む音があり、何かが机へ置かれた。すぐに、夕刻のチャイムが鳴った。
遼も知っている旋律だった。鳴代市へ来るたび、午後六時に聞く。姉の家で夕食を待っていたときにも、取材帰りの車内でも聞いた。音程がわずかに外れ、最後の一音だけ風に流される。
録音のチャイムは二重だった。
近くで鳴る硬い電子音を、窓の外のぼやけた音が追いかけている。
旋律が終わる。
遠くで車が走っていた。空調設備の低い唸り。紙をめくる音。誰かが短く笑う。
十一秒ほどして、女の声が入った。
遼は再生を止めた。
仮眠室の戸が開いた。
「起きてたか」
野辺だった。片手に紙コップを二つ持っている。白髪交じりの髪を濡れた手で撫でつけた跡があり、シャツの襟は片方だけジャケットへ潜っていた。
「今、何か言ったか」
「言ってない」
「そうか」
野辺は紙コップを一つ、遼の前へ置いた。
「七時半に出る。湖東台の団地で漏水。市営住宅だから写真が要る」
「今日は休みのはずです」
「昨日のうちに原稿を上げていればな」
遼はコーヒーへ口をつけた。薄く、焦げた味がした。
野辺が出ていくのを待ち、録音を最初から再生した。
今度は止めなかった。
女の声は、音量が小さいわけではなかった。遠いのでも近いのでもない。イヤホンの左右どちらから聞こえるか定まらず、言葉だけが頭の中央へ置かれる。
りょう。
聞こえてるね。
沢道を、三つ目まで。
そこで返事をして。
遼はイヤホンを外した。
プリンターの音が続いていた。
自分の名前だった。
そう聞こえた、というだけだ。姉から「名前を呼ばれた」と知らされた直後に音声を聞いた。脳が曖昧な音を知っている語へ寄せたとしても不思議ではない。
遼はもう一度再生した。
やはり、りょう、と聞こえた。
四度目を再生しかけたところで、紗季へ電話をかけた。
呼出音は鳴らず、電源が入っていないという案内へ切り替わった。
固定電話にも出ない。
相原直子へ電話をすると、二度目の呼出音で繋がった。
「遼くん?」
「姉さん、そっちにいる?」
返事の前に、短い沈黙があった。
「いない。昨日から」
直子の声は、既に何度も同じ説明をした人の声だった。
「警察には?」
「朝、届けた。市役所からも連絡が来てる。ねえ、紗季から何か聞いてない?」
遼は携帯電話の画面を見た。
〈聞こえているなら、まだ返事をしないで〉
「仕事のファイルが来てた。昨日の八時過ぎ」
「そのあと、電話は?」
「してない」
言ってから、責められても仕方がないと思った。だが直子は責めなかった。
「来られる?」
「今から行く」
通話を切ると、野辺が戸口に立っていた。
「湖東台なら、車に乗せていく」
「聞いてたんですか」
「聞こえた。聞こうとしたわけじゃない」
野辺は遼の顔を見た。
「家族として行け。記者証は置いていけ」




