序章 記号番号なし
午後六時のチャイムは、毎日、少しだけ遅れて聞こえる。
市役所四階の危機管理課では、窓を閉め切っているせいだと説明されていた。屋上の受信設備を経由した確認音と、通りの向こうに立つ屋外拡声子局の音が、厚いガラスを挟んで重なる。先に操作卓の小さなスピーカーが鳴り、半拍ほど置いて、街から同じ旋律が戻ってくる。
相原紗季は、そのずれを正常と呼ぶ仕事をしていた。
七月二十三日、木曜日。
退庁時刻を過ぎた室内には、紗季のほかに二人残っていた。係長は会議室で電話をしている。窓際の久世は、保守会社のロゴが入った灰色の鞄を閉じるところだった。
「定時、流します」
紗季が言うと、久世は腕時計を見た。
「どうぞ。今日はこれで上がります」
操作卓の表示が、待機中の青から送信中の橙へ変わった。
午後六時。
最初の一音が、机の上のスピーカーから鳴った。続いて窓の外から、輪郭のぼやけた同じ音が届く。
ミ、ソ、ラ。
夕刻を知らせるだけの、短い旋律だった。紗季は送信表示と時計を交互に見ながら、机の端へ置いた携帯電話を裏返した。録音画面の赤い数字が増えている。
録音は試験ではなかった。
三日前から、定時チャイムのあとに人の声が混じるという苦情が二件入っていた。どちらも再現せず、操作履歴にも異常はない。設備障害としては、現地で同じ症状が出なければ調べようがなかった。
だから紗季は、自分の電話で録っていた。
正式な記録にするつもりはなかった。何もなければ消す。それだけのことだった。
旋律が終わる。
操作卓の橙色が青へ戻った。
いつもなら、ここで街の音が残る。
国道を渡る車。庁舎裏の室外機。植え込みで鳴く虫。窓の気密を抜けてくる、輪郭のない低い響き。
その日、それらはひとつずつ消えたのではなかった。
紗季が気づいたときには、初めから存在しなかったように聞こえなくなっていた。
係長の電話の声もない。
久世が鞄の留め具を押す音もない。
自分の呼吸だけが、耳の内側に近すぎた。
紗季は操作卓を見た。
送信中を示す表示は消えている。回線異常の警告もない。卓上の時計だけが、何事もなかったように秒を送っていた。
十八時〇〇分〇四秒。
五秒。
六秒。
久世が何か言ったように見えた。
唇が動いた。だが、声は届かなかった。
七秒。
八秒。
紗季は携帯電話へ手を伸ばした。録音を止めるのか、画面へ時刻を残すのか、自分でも分からなかった。
九秒。
十秒。
十一秒。
音が戻った。
室外機が唸り、国道を大型車が通り、係長の笑い声が会議室の扉を抜けた。久世の鞄が机の角に触れて、硬い音を立てた。
あまりに一度に戻ったので、紗季は肩を震わせた。
「今、止まりませんでした?」
久世が言った。
「何がですか」
「いや」
彼は操作卓を見た。さっきまで帰ろうとしていた顔ではなかった。
「何でもないです。送信履歴、見せてもらえますか」
履歴には、十八時の定時送信が一件だけ残っていた。開始、正常。終了、正常。継続時間も設定値どおりだった。
紗季は携帯電話の録音を止めた。
波形の表示には、チャイムのあとにも細かな凹凸が続いていた。十一秒の空白はない。車も室外機も、係長の声も、ずっとそこに録られているように見えた。
そして、波形の中央に、ひときわ濃い帯があった。
紗季は再生ボタンを押しかけ、指を離した。
「それ、今のですか」
久世が訊いた。
「個人用です。苦情の確認に」
「市の端末じゃない?」
「あとで正式に移します」
久世は返事をしなかった。
会議室の扉が開き、係長が電話を片手に出てきた。
「相原さん、湖東台から。チャイムが終わっても何か喋ってるって」
電話を受け取る前に、代表番号の着信灯がもう一つ点いた。
紗季は時刻を記録した。
十八時一分十七秒。
最初の申告者は、言葉のようだが内容は分からないと言った。二人目は、家族の声に似ていたと市のフォームへ書いた。三人目は夜間窓口へ来たが、聞こえた内容を記録することを拒んだ。
紗季は三件を、それぞれ別の障害として入力した。
同じものを聞いたと判断する根拠がなかった。
入力を終えたのは、午後八時を回ってからだった。
久世は一度会社へ戻ると言って帰り、係長は警察からの照会に追われていた。課内にはまた、紗季一人になっていた。
携帯電話の録音は、まだ机の上にある。
紗季はイヤホンを差した。
チャイムが鳴る。
操作卓の確認音。窓の外から遅れてくる音。室外機。車。係長の電話。久世の鞄。
何ひとつ消えていない。
録音の中では、あの十一秒にも街が続いていた。
紗季は波形の濃い帯まで再生位置を動かした。
そこから先を一度聞いた。
聞き終えると、イヤホンを外した。
何を聞いたのか、書こうとした。
障害受付票の余白へ、最初の一文字だけを書く。すぐに二重線で消す。複写紙の下まで筆圧が残った気がして、用紙を持ち上げた。
下の紙には何も写っていなかった。
紗季は携帯電話を開き、弟とのメッセージ画面を表示した。
最後のやり取りは二週間前だった。遼が送ってきた記事の誤字を一つ指摘し、既読のあとに、句点だけの返事が来ている。
録音ファイルを添付する。
続けて、今日の受付番号を三つ入力した。瀬戸真弓から届いていた古い事故報告の複写と、祭礼調査ノートの画像も選ぶ。
選択したファイルが多すぎるという警告が出た。
紗季は事故報告の添付を外し、共有フォルダへのリンクへ替えた。
送信前に、短い文章を打った。
〈変なものを送ってごめん。もし同じように聞こえても、聞こえた名前をまだ書かないで〉
読み返す。
自分で書いた文章なのに、何を禁じているのか分からなかった。
名前を書かなければ安全なのか。
聞き取れなかったことにできるのか。
それとも、文字にした瞬間に、誰のための声だったかが決まってしまうのか。
紗季は最後の一文を消した。
〈聞こえているなら、まだ返事をしないで〉
送信する。
画面に時刻が表示された。
二十時十四分。
その直後、添付した録音の作成日時が目に入った。
十八時〇〇分。
今日の日付ではなかった。
紗季は詳細表示を閉じ、もう一度開いた。
日付は今日へ戻っていた。
端末時計の一時的な誤認か、同期の遅れだろう。そう考えれば、確認すべき項目が増えるだけだった。故障なら故障として記録できる。
紗季は共有フォルダへ録音を保存した。
ファイル名を入力する。
`1800_窓際.m4a`
文書番号の欄は空白にした。
番号を付ければ、それが市の記録になる。
番号を付けなければ、なかったことにできる。
保存ボタンを押したとき、背後で椅子を引く音がした。
会議室の方だった。
紗季は振り向かなかった。
誰も残っていないことを、確かめる前から知っていた。
机の上の携帯電話が震えた。
遼が録音を受信した合図だった。




