何も聞こえない
午後七時まで、市へ異常放送の申告は一件も入らなかった。
野辺から、夜間窓口の受付画面を写した写真が届いた。
設備障害、騒音、放送内容不明。該当欄はいずれもゼロ。
ただし祭礼本部には、「声を聞いた気がする」という相談が三件あった。子供の父親の呼び声、台車の擦過音、誰が呼んだか不明の一件。
市の受付に入らなければ、異常申告ゼロには含まれない。
保存会は設備故障ではないと判断し、市へ回していなかった。
ゼロは、何も起きなかった数ではない。
どの窓口へ、どの分類で届いたかの数だった。
危機管理課から保存会へ、その事実だけが伝えられた。
柏木は成功したとは言わなかった。
「鳴らしている間は、来ない」
「何が」
「申告がだ」
彼は現実の言葉へ戻して答えた。
「本部には三件あります」
遼が言うと、柏木の表情が固まった。
「二件は説明がついた」
「一件は」
「酔っていた人だ」
「聞き取りは」
「係員がした」
「記録を見せてください」
柏木は本部へ電話した。用紙には、〈女性らしい声。内容不明。返答なし〉とだけあった。
氏名欄は空白。
相談者はもう会場を離れている。
成功と呼ぶには、一件が多かった。
失敗と呼ぶには、内容が足りなかった。
祭礼の列は湖畔広場へ着いた。送り鐘が鳴り、参加者は黙祷した。子供が提灯を畳み、消防団員が規制灯を片づける。
遼、御厨、野辺の時刻記録が揃った。
N-07は、遼が十八時六分四秒、御厨が六分六秒。野辺のいる市役所では聞こえず、窓口へ届いた参加者の連絡が六分四十一秒。
N-05は十二分三秒と十二分四秒。
N-04は十八分五秒と十八分五秒。
旧N-03は、遼が二十四分二秒。御厨は二十四分九秒だった。
七秒の差は、地点間の音の到達時間としては長すぎる。
「時計を見た時刻を書いたかもしれません」
御厨は自分の記録へ注記した。
「聞こえ始めじゃなくて、旧N-03だと気づいた時刻です」
人間が時刻を記録するまでの遅れは、音速より不規則だった。
内容の記録も一致しない。
遼は拍子木二、鉦一、太鼓三。御厨は、旧N-03だけ拍子木三と書いていた。録音を確認すると、最初の小さな衝撃音を拍子木へ数えたか、車の扉音と除いたかの違いだった。
数えるな、と日記にある。
その一文を知らなければ、単なる転記差だった。
知っているために、差が意味を持ち始める。
何も起こらなかった。
正確には、その場で異常と確認されたことがなかった。
遼は言い換えをノートへ残した。
遼は、その時間を長いと感じた。
異常が起こるのを待っている自分に気づき、嫌悪した。
携帯電話へ美緒からメッセージが届いた。
〈今日は、何も聞こえない〉
送信時刻は午後六時五十九分。
写真の撮影時刻は六時五十七分。位置情報は削除されていたが、湖畔広場の照明塔と献灯台が写っている。
画面の右端に、白い案内矢印が半分だけ入っていた。
祭礼順路の矢印ではない。立入禁止区域を迂回させるため、市が置いた仮設標識だった。
矢印は広場から東へ向けられていた。
続いて、湖畔広場を遠くから写した写真。
〈来てよかったかもしれません〉
遼は電話をかけた。
「どこにいます」
「広場の外です。人が多いから」
「一人ですか」
「はい。でも大丈夫。何も聞こえない」
人が多いという声の後ろに、話し声はほとんどなかった。
風と、遠い鐘だけ。
遼はその違和感を感じたが、場所を問い直さなかった。
写真が広場を写していたから、美緒もそこにいると思った。
写真が示すのは、撮影時に携帯電話がそこにあったことだけだった。
美緒の声は、数日前より明るかった。
「録音も聞いてない?」
「消しました」
「祭りが終わったら、まっすぐ帰ってください」
「水城さんも、今日は取材をやめたらどうですか」
「これが終わったら」
「ずっとそう言ってません?」
美緒は笑った。
通話の後ろで送り鐘が鳴った。
遼のいる広場でも同じ鐘が鳴っている。
電話越しの音は、現地の音よりわずかに先に聞こえた。
通信の遅延なら、遅れるはずだった。
遼は通話録音をしていなかった。
取材ではなく私的な電話だと思ったからだ。
何秒先だったかは、記憶にしか残らない。
同じ鐘ではなく、別の場所の録音だった可能性もある。山の反響を、先に聞こえたと感じただけかもしれない。
遼は通話時刻だけをメモし、先後関係には疑問符を付けた。
「今の鐘、どこで」
遼が訊いたとき、通話は切れた。
すぐにメッセージが来た。
〈電波が悪いみたい。帰ります〉
遼は〈分かりました〉と返した。
既読が付いた。
午後七時十二分。
それが美緒の最後の端末操作になった。
遼が〈分かりました〉と返した時刻は七時十三分。
既読表示の取得時刻は、サービス側に残っていなかった。画面で見た時刻を、遼が一分単位で記憶していただけだった。
七時十二分という時刻も、後から作られた一覧の中では秒まで確かな事実のように並ぶ。
遼は一覧へ、〈本人操作と推定〉と付け加えた。




