母ではなく私の声
帰りの車内で、美緒から電話が来た。
「母じゃなくなりました」
挨拶もなく言った。
「何がです」
「声です。今は、私の声に聞こえる」
「聞かないでと言ったでしょう」
「聞いてません。頭の中で思い出しただけです」
美緒は、聞こえ方が変わった順番を紙に書いていた。
一回目、母。二回目、母に似た女。三回目、自分かもしれない。現在、自分。
各行の横に日付があり、三回目と現在の間へ、矢印で〈記事〉と書かれていた。
「記事を読む前から、自分の声かもしれないと思ったんですか」
「分かりません。紙にはそう書いてあります」
「いつ書いた紙です」
美緒は黙った。
「今日です。順番を思い出して」
同時記録ではなかった。現在の記憶で、過去の変化を並べ直したものだった。
喫茶店で書いた最初の二枚は、遼の資料箱にある。一枚目には母と明記され、二枚目は冒頭が空欄だった。
現在の記憶より、当時の紙の方が当時の判断には近い。
だが当時の紙も、遼の質問を受けたあとに書かれている。
汚染されていない記録は、最初から存在しなかった。
遼は路肩へ車を停めた。
「自分の声で、何と」
「おかえり。聞こえてるね。食器を片づけて」
美緒はそこで止まった。
「その先は?」
「言いたくありません」
「記録しないから」
「水城さんは、そう言ってから書く人でしょう」
否定できなかった。
美緒の指摘を、遼は取材メモへ書かなかった。書かないという約束を守ったつもりだった。
だが、書かなければ、自分が取材相手から不信を向けられた事実が原稿から消える。
遼は通話後、内容ではなく経緯だけを記した。
〈佐伯美緒、追加聴取。本人の希望により発話内容は非記録。記者による記録利用への懸念を表明〉
何も残さないことと、すべて残すことの間に、ようやく一行分の場所があった。
「私、水城さんの記事を読みました」
「記事は出ていません」
「昨日、検索で出ました。途中まで」
遼は車内の時計を見た。
未発表稿は、野辺が掲載停止にした。だが情報提供フォームを確認するため、遼は個人のテストページへ一度転送していた。
「何時に」
「夜の二時前。すぐ消えました」
遼は通話を切らず、支局の管理画面を開いた。
公開開始、午前一時四十九分。
非公開、二時三十二分。
四十三分間。
アクセス百十二件。
百十二は閲覧人数ではなく、ページ要求数だった。同じ端末からの再読、検索サービスの取得、遼と野辺の確認も含まれる。
異なる接続元は七十四。検索サービスと社内接続を除けば、外部から少なくとも六十一。正確な読者数は分からない。
野辺は事故報告へ、〈外部公開あり。到達人数未確定〉と書いた。
自分で公開した記憶がなかった。
管理画面の操作履歴では、公開者はr.mizuki。
午前一時四十七分、プレビュー生成。一時四十九分、公開状態へ変更。二時三十分、野辺のアカウントから閲覧。二時三十二分、非公開。
遼は一時四十分ごろまで支局にいた。自宅へ戻り、パソコンを開いた記憶もある。テストページへ転送し、表示崩れを確認した。
公開ボタンを押したかだけが曖昧だった。
管理担当は、操作元が遼の自宅回線だと確認した。誰かが外部からアカウントを使った可能性は下がった。
残ったのは、遼自身の誤操作だった。
遼は「記憶がない」を、「操作していない」の証拠として使おうとしていた。姉の共有フォルダでは、同じ理屈を否定したばかりだった。
野辺へ電話すると、最初に訊かれた。
「酒は」
「飲んでません」
「寝てたか」
「二日で三時間くらい」
「それを先に言え」
疲労による誤操作は、怪異より平凡だった。平凡だから、責任が軽くなるわけではない。
下書き保存と公開ボタンを押し違えたのか。テストページの設定が変わっていたのか。自分のアカウントを誰かが使ったのか。
「記事を読んでから、声が変わった?」
「分かりません」
美緒が言った。
「でも、記事に私が聞いた文がありました。読んだあと、最初からそうだった気がしてきた」
記録が記憶を変えた。
あるいは、変化していた記憶へ記事が形を与えた。
あるいは、声そのものが変わった。
「記事は消します」
「もう消えてます」
「保存したものも削除を頼む」
「百人に?」
美緒は静かに訊いた。
遼は答えられなかった。
通話の最後、美緒は記事の見出しを口にした。
「名前を聞いた者が消える、って書いてありましたね」
「仮見出しです。事実ではない」
「でも、読んだ時は見出しでした」
仮であることは作成者の側にしか表示されない。公開された瞬間、読者にとっては記事の言葉になる。




