名前を聞いた者が消える
原稿は、書き始めてしまえば速かった。
市の記録にない声。
録音後に消えた市職員。
三十七年前の事故と七人分の名簿。
八つ目に見える過去帳の欄。
同じ録音から自分の名を聞いた弟。
一つずつは、確認した事実だった。
並べる順番を決めるだけで、それらは結論のように見えた。
遼は原稿を三種類保存した。
時系列順。
資料の信頼度順。
読者が最も強く引き込まれる順。
三つ目では、姉の録音を冒頭へ置き、事故報告、過去帳、掲示板を続けた。現在から過去へ遡るだけなのに、古い事故が現在の原因だったように読める。
時系列順では、祭礼の再編集が先にあり、現在の聞き手がその文型を知り得たことが見えやすい。
資料の信頼度順では、障害受付票と中央ログが最初に並び、声の内容は後半まで出てこない。
事実は同じだった。
物語だけが違った。
遼は三つ目を採用した。
遼は冒頭へ書いた。
〈三人が聞いた内容は異なる。しかし、いずれも「返事」を求める声だった。〉
共有画面の右端に、野辺のコメントが付いた。
〈「いずれも」は言えない。受付票の一人は内容を記載していない。〉
遼は「いずれも」を「複数が」へ直した。
次の段落。
〈同じ音が、聞く者の名前へ変わる。そして返事をした者が消える。〉
〈最後の一文は仮説。しかも「返事をした」証拠がない。〉
遼はコメントを解決済みにし、本文を残した。
野辺はコメントを再度開いた。
〈解決していない。反証例を本文へ入れること。返事をしたと証言し、失踪していない男性がいる。美緒は返事をしていない。〉
遼は男性の証言を末尾の注へ入れた。
野辺は段落ごと、声の規則を説明する箇所の直後へ移した。
「注にも入っています」
「読者が結論を作る前に読ませろ」
「流れが切れます」
「切れるべき因果だから切ってる」
遼は段落を戻さなかった。
代わりに見出しを〈返事と失踪――一致しない証言〉へ変えた。
原稿の勢いは落ちた。
記事としての精度は上がった。
事故の節では、八人目が記録から消えた可能性を書いた。
〈事故報告、夜回り規則、聞き取りを一続きにする根拠は? 作成目的も年代も違う。〉
野辺は、原稿を止めるためにコメントしているのではない。掲載できる形へ近づけようとしている。
遼には分かっていた。
それでもコメントが増えるたび、姉の捜索から遠ざけられているように感じた。
音声比較の表を作った。
相原、三秒、さき。
水城、三秒、りょう。
佐伯、三秒、おかえり。
市職員、十九秒、ミナセ。
野辺のコメントがすぐに付いた。
〈目盛りが端末表示時刻のまま。補正前データを同じ秒数に並べるな。〉
続けて、もう一つ。
〈この「ミナセ」はどの資料から取った? 職員の清書は「見なせ」だ。〉
遼は変更履歴を開いた。
自分が最初に入力した文字は「見なせ」だった。
次に「ミナセ」へ変えている。
直した記憶はあった。斜光で見た筆圧痕を反映したのだ。
その次の履歴では、「水無瀬」になっていた。
変更者は、r.mizuki。
自分のアカウントだった。
遼は「水無瀬」を削除し、「見なせ」へ戻した。
なぜ一度、事故報告の姓へ変えたのか思い出せなかった。
原稿末尾へ情報提供フォームを置いた。
〈聞こえた言葉は、可能な限りそのまま書いてください。名前を伏せる必要はありません。〉
野辺の赤字が、画面の幅いっぱいに表示された。
〈掲載停止。検証のために同じ文を何人に読ませるつもりだ。姉を捜す記事と、怪談の実験を一緒にするな。〉
遼は椅子から立った。
背後で脚が床を擦り、姉の録音と似た音がした。
振り返っても、自分が動かした椅子しかなかった。
遼は椅子を同じ距離だけ引き、携帯電話で録音した。
波形を姉の録音へ重ねる。
一見すると似ている。
開始の鋭い山、そのあとに続く低い摩擦音。
だが再生速度を合わせると、支局の椅子は〇・六秒、姉の録音は〇・九秒。床材もマイクの距離も分からない。似ているという以上の比較はできなかった。
それでも遼はファイル名を〈椅子音比較〉とした。
〈類似音候補〉へ変更したのは、保存してからだった。
名称は、ファイルを開く前に結論を教える。




