旧N-03
旧N-03へ続く道は、地図より先に草で消えていた。
沢道橋を渡り、旧第二集合所跡の標柱を過ぎ、採石場方面立入禁止の看板で県道を外れる。そこから先は、舗装の割れ目から伸びた草が車体の底を擦った。
遼は途中で車を置き、徒歩で進んだ。
警察へ位置を共有し、十八時半までに戻らなければ連絡するよう野辺へメッセージを送った。
野辺からはすぐ電話が来た。
「一人で行くな」
「道の確認だけです」
「確認する人間が行方不明になったら、確認にならない」
「警察は写真だけでは動けないと言った」
「だからお前が動くのか」
遼は返事をせず、現在地の共有だけを続けた。
姉も同じように、誰かへ位置を送っただろうか。
共有フォルダには、現地調査予定とだけあった。日時も同行者もない。記録を残す姉が、そこだけ残していない。
残せなかったのか、意図して残さなかったのか。
道の左手には、古い距離標が草に埋もれていた。二、と読める。さらに進むと、頭の欠けた石仏。三つ目の曲がりを数えようとしている自分に気づき、遼は数えるのをやめた。
午後六時が近かった。
山の陰は既に暗く、雨を含んだ土の匂いがした。採石場の岩壁が木々の向こうに白く見える。
子局は道の脇に立っていた。
灰色の鋼管柱。上部に四つのホーン。根元の制御箱は錆び、扉の下に茶色い筋が伸びている。
撤去済みという言葉から、遼は柱だけを想像していた。
形が残っていれば、鳴りそうに見えた。
制御箱へ近づく。
南京錠は古い。だが、箱の下から出る管へ巻かれた防水テープだけが黒く、艶を残していた。
周囲の草も一箇所だけ倒れている。
遼は箱へ触れず、四方向から撮影した。テープの幅、巻き数、管との境目。足跡のそばへ自分の靴を置かず、携帯電話の定規表示を写し込む。
踏み跡は一人分には見えなかった。
大きな長靴の跡。その上へ、細い靴底の斜線が重なっている。いつ付いたものかは分からない。雨の前後すら、遼には判定できなかった。
制御箱の背面では、地面から上がった管が途中で切断されていた。切断面は赤錆に覆われている。電源撤去済みという市の説明とは矛盾しない。
新しいテープは、切断された電源管ではなく、もう一本の細い管に巻かれていた。
遼は久世へ写真を送った。
〈これは何の管ですか〉
返信はなかった。
電話は呼び出し音のあと、留守番電話へ切り替わった。
知らないから答えないのか、知っているから答えないのかは分からない。
遼は写真を撮った。
久世へ送ろうとして、やめた。先に記録を保全したかった。誰かが来てテープを剥がせば、写真だけが残る。
十八時になった。
遠くで定時チャイムが始まった。
山に遮られ、旋律は途切れ途切れに届いた。最後の一音が聞こえない。
旧N-03のホーンは沈黙していた。
チャイムが終わる。
虫が鳴いている。
葉から水滴が落ちる。
遼は携帯電話で録音を始めた。
十一秒を数えた。
何も消えなかった。
十二秒目、制御箱の中で何かが動いた。
金属片が一度だけ震える、短い音だった。
遼は箱へ耳を近づけた。
「姉さん」
自分から呼んでいた。
返事はない。
代わりに、山の上から遅れて同じ声が戻った。
姉さん。
普通の山彦だった。
遼は録音を止め、再生した。
虫。水滴。自分の声。山彦。
制御箱の音だけが入っていなかった。
何度聞いても、その位置には水滴の音が一つあるだけだった。
遼はもう一度、制御箱から三メートル離れて録音した。
今度は何も鳴らなかった。
箱へ耳を近づける。内部から、雨水が落ちるような微かな音がする。最初の一音も水滴だったのかもしれない。
そう考えた直後、ホーンの一つが夕方の冷えで縮むように、低く軋んだ。
携帯電話の波形は動いた。
再生すると、軋みは入っていた。
最初の音だけがない。
遼は二つの記録を分けた。
〈一回目・本人聴取、録音上確認不能〉
〈二回目・本人聴取、録音上確認〉
同じ場所で聞いた機械音でも、証拠としての強さは同じではなかった。
帰路につく前、遼は箱の前へ細い枝を一本置いた。誰かが扉へ近づけば折れる位置だった。
置いてから、それが調査ではなく罠に近いと気づいた。
写真を撮り、野辺へ位置と一緒に送った。
翌日、枝は折れていた。
警察官が現地確認のために踏んだものだった。
遼が作った痕跡は、自分で意味を与える前に、別の人間の行動を巻き込んでいた。
現地確認をした生活安全課の警察官は、写真を二十七枚撮った。
扉は施錠されたまま。南京錠に破壊痕なし。制御箱の外側から、事件に結びつく指紋は採れない。防水テープの新旧についても、製造年や施工日までは判断できない。
「新しく見える、では足りませんか」
「あなたの写真からも、新しく見えます」
「なら」
「新しく見えることは記録できます。誰が、いつ、何のために巻いたかは別です」
警察官は、箱の背後に残った細い管も撮った。
「これは電源ではないそうです」
「誰に確認したんです」
「市の設備担当です。旧式の有線系統か、点検用の予備配管だろうと」
「久世さんですか」
警察官は担当者名を答えなかった。
その日の夜、久世からようやく返信が来た。
〈写真の細管は旧信号線用です。現行設備との接続はありません〉
〈テープは?〉
〈保守上、露出部を処理することはあります〉
〈最近、処理しましたか〉
既読は付かなかった。
翌朝、市の広報を通じて正式回答が届いた。
〈旧N-03は電源・信号線とも撤去済みであり、現行の親局設備から起動することはできない〉
遼が訊いたのは、久世が最近テープを巻いたかどうかだった。
回答は、中央設備から起動できないという説明へ戻っている。
嘘ではないかもしれない。
質問への答えでもなかった。
野辺は正式回答を記事用フォルダへ保存し、久世の私信とは分けた。
「なぜ分けるんです」
「責任を負う主体が違う。市の回答と、担当者個人の説明を混ぜるな」
「内容はほとんど同じです」
「同じに見える時ほど分けろ。あとで片方だけ訂正される」
遼は二つの文書へ別々の番号を振った。
旧N-03が鳴らないという説明は増えた。
鳴らないはずの設備へ、誰かが近づいた痕跡も消えなかった。




