音を止めればいいわけではない
柏木修司は、寺から出る遼を門前で待っていた。
消防団の紺色の作業着を着て、軽トラックへ寄りかかっている。五十代の半ば。日に焼けた顔には、寝不足の影があった。
「史郎に何を見せてもらった」
「寺へ訊いてください」
「記者がそう言うか」
「今は家族です」
柏木は鼻で笑った。
「都合がいいな」
その言葉は野辺にも言われた気がした。
「姉を知っていますね」
「市役所の相原さんなら知ってる」
「事故報告と祭礼を調べていた」
「観光協会の説明が気に入らなかったらしいな」
「あなたは保存会の役員です」
「だから何だ」
「旧N-03から放送が聞こえたという申告があった」
柏木の視線が、遼の顔から寺の屋根へ外れた。
「あれは使えない」
「久世さんと同じ答えですね」
「事実だからだ」
「姉も現地へ行った?」
「知らん」
「事故の点呼表はどこです」
柏木は軽トラックの荷台へ手を置いた。
「何でも一つに繋げるな。事故の紙がなくなったことと、今の放送は別だ」
「別だという根拠は?」
「同じだという根拠がない」
遼は携帯電話を出した。
「録音します」
「好きにしろ」
「一九八九年の第二避難指示を変更したのは誰です」
「知らん」
「あなたの祖父は消防団にいた」
「いた人間は大勢いる」
「事故後、今の祭礼を作った」
「作ったのは町だ。瀬戸先生も、寺も、市も関わった」
「呼名に応ぜず、という決まりは」
「決まりじゃない」
柏木は初めて即答した。
「じゃあ、何です」
「夜に外から名前を呼ばれても、戸を開けるな。昔の家ならどこにでもある話だ」
「なぜ」
「夜だからだ。酔っ払いかもしれん。山で声が回っただけかもしれん。人さらいの話を子供に聞かせたのかもしれん」
「ほかの理由は」
柏木は黙った。
「音を鳴らすのは、呼び声を消すためですか」
「違う」
「なら、何のために」
「居場所を知らせるためだ」
「誰に」
柏木は軽トラックの扉を開けた。
「音を止めればいいわけじゃない」
「何がです」
「何でもだ」
車が出たあと、寺の石段の下に砂埃が残った。
遼は録音を止めた。
柏木は何かを知っている。
そうノートへ書きかけ、やめた。
柏木は何かを恐れている。
それも推測だった。
確実なのは、旧N-03の話で視線を外したことと、「音を止めればいいわけではない」と言ったことだけだった。
夕方、柏木から電話があった。
「さっきの録音、まだ記事にするな」
「訂正がありますか」
「話してないことを勝手に繋げるなと言ってる」
「なら、話してください」
長い息が聞こえた。車の方向指示器が規則正しく鳴っている。
「祖父は、第二避難指示を出した人間じゃない」
「なぜ分かるんです」
「死ぬまでそう言ってた」
「それだけですか」
「変更を止められなかった、とも言ってた」
遼は録音開始の確認をした。柏木は構わないと答えた。
「電話を受けたんですか」
「そこから先は、何度訊いても言わなかった。役場へ行った時には放送が始まっていた、とだけ」
「事故後に祭礼へ関わったのは、償いのためですか」
「お前らはすぐ、そういう言葉にする」
方向指示器が止まった。
「償い。鎮魂。封印。見出しにしやすいからな。残った家が、毎年同じ日に集まれる理由が要った。それだけかもしれん」
「音で居場所を知らせる、と言いました」
「祭りの順路を外から来た人間にも分かるようにする。山へ入った子供を呼び戻す。年寄りが家にいるか確かめる。理由はいくらでもある」
「名前を呼ばずに?」
「昔は家の屋号を呼んだ。鉦を一つ鳴らして、隣が二つ返すこともあった。名前を呼ぶなという話と、音を返す習慣は、最初から矛盾してる」
「瀬戸先生は、それを一つの祭りにした」
「俺たちが頼んだ」
柏木はそこで、はっきり言った。
「先生一人の責任にするな」
遼は、柏木が守ろうとしているものを少しだけ理解した。
古い伝統ではないと明かされても、祭礼に集まった人々の時間まで偽物になるわけではない。
だが、理解したことと、信用することは別だった。
「旧N-03へ最近行きましたか」
再び沈黙があった。
「行ってない」
「誰かが行ったことは知っていますか」
「知らん」
二つ目の否定は、一つ目より速かった。
通話後、遼は録音を聞き返した。
声の調子だけで嘘を判定できると思うな、と野辺に言われている。
それでも、二つの否定の間隔を秒単位で記録した。
一・八秒。
〇・四秒。
数字にしたことで、疑いが事実になったように見えた。
遼はその行にも、〈解釈不可〉と付けた。




