別紙三の綴じ穴
鳴代市郷土資料館の書庫には、雨の匂いが残っていた。
建物が雨漏りしているのではない。古い紙が湿気を吸い、晴れた日にも少しずつ放しているのだと、司書は説明した。
「旧鳴沢町から移された文書は、全部ここに?」
遼が訊くと、司書は手袋を嵌めながら首を振った。
「全部という言い方はできません。合併時の目録に載ったものは、原則として」
「載らなかったものもある」
「何が載らなかったかは、目録からは分かりません」
野辺なら、その答えを禅問答だと言っただろう。
遼には、よくできた逃げ道に聞こえた。
閲覧机へ、灰色の簿冊が置かれた。
背には、平成元年度災害関係と墨書されている。紐を解くと、鳴沢地区豪雨災害に係る避難事故報告書が現れた。
作成は八月二十八日。訂正は九月十四日。
事故は八月十三日。
時間雨量七十二ミリ。沢道橋北詰、法面崩落。十八時七分、第一避難指示。十八時十九分、第二避難指示。
旧第二集合所方面へ移動、二十三名。
所在確認、十五名。
死亡、五名。
行方不明、二名。
遼は数字をノートへ写した。
二十三から十五を引けば、八になる。
死亡と行方不明は七名だった。
「一人、合いません」
司書は報告書を覗き込まなかった。
「どの人数を同じ母集団として数えたか、本文を確認してください」
「旧第二集合所へ移動した二十三人のうち、十五人の所在を確認した。残りは八人でしょう」
「所在確認が、移動者だけを対象にした数字とは限りません」
「事故報告ですよ」
「だからこそ、書き手が自明だと思った定義は省かれます」
遼は被害者名簿を見た。
末尾に二つの名がある。
長尾隆。三十五歳。行方不明。
水瀬澄一。年齢不詳。行方不明。
水瀬の横に訂正印があり、鉛筆で水無瀬澄と書かれていた。
「これは同じ人ですか」
「報告書上は」
「戸籍は」
「照合不能とあります」
「実在しない?」
司書が初めて遼を見た。
「戸籍と照合できないことと、実在しないことは同じではありません」
言葉が、一つずつ遼の先回りを止めた。
添付目録には五つの別紙があった。
降雨・河川水位一覧。道路閉鎖図。世帯別点呼表。有線放送操作記録。関係者聴取要旨。
簿冊に綴じられているのは、別紙一、二、四、五。
別紙三の位置には、二つの穴だけが残っていた。
「点呼表は?」
「所在不明です」
「いつから」
「移管時の照合では確認されていません」
「誰かが抜いた」
「綴じ直し、別保管、貸出後の戻し忘れ、作成時から未添付。可能性はいくつもあります」
「でも、人数が合わない資料だけがない」
「そう読めます」
司書は否定しなかった。
「ただし、そう読めることと、そういう意図で抜かれたことは別です」
遼は綴じ穴を撮影した。
紙がない場所を、証拠として写した。
写真には、穴の向こうにある閲覧机の木目が映った。
欠けた資料の中身ではなく、欠けているという形だけが残った。
司書は別紙四の有線放送操作記録を、透明な押さえ板の下へ広げた。
十八時七分の第一避難指示には、原稿番号、送出者、確認者の印がある。十八時十九分の第二避難指示は、原稿番号の欄だけが二重線で消され、送出者欄へ同じ姓の印が二つ重なっていた。
「同じ人が二回押した?」
「印影だけでは分かりません。同じ姓の職員が二人いました」
「確認者の印を、送出者欄へ押した可能性は」
「あります。あとから帳尻を合わせた可能性も」
操作内容の欄には、〈原稿差替〉とある。
差替前の原稿は保存されていない。
関係者聴取要旨では、役場職員が「消防詰所から変更の電話があった」と話し、消防団員は「役場から集合所変更の指示を受けた」と話していた。
双方が、相手から受けたと記録されている。
嘘をついているなら、どちらかが嘘をついた。
混乱していたなら、どちらもそう記憶した可能性がある。
あるいは、電話をした者と受けた者が別にいた。
遼は聴取要旨にある六人の氏名を控えた。三人は死亡。二人は市外へ転居。一人は柏木姓だった。
「原本の閲覧履歴は残っていますか」
司書は移管台帳を出した。
合併後の履歴しかない。瀬戸真弓、鳴代市観光振興課、地域史編纂室、相原紗季の所属する危機管理室。
紗季本人の閲覧申請はなくても、所属課には複写が渡っていた。
遼は姉が別紙三を抜いた可能性を一瞬考えた。
考えたことを、推測欄へ書いた。
その横へ、〈移管前から欠落〉と司書の説明を併記した。
姉を探しているからといって、姉を疑わずに済むわけではなかった。
移管台帳に残る個人名は、瀬戸真弓だけだった。
遼は資料館を出る前に、その番号へ電話をかけた。




