紗季の文字起こし
紗季の自己記録は、共有フォルダの奥にあった。
音声ファイルと同じ階層ではなく、「照合前」の中の「私用」というフォルダに、写真として保存されていた。
罫線のない紙へ、姉の字で書かれている。
〈さき。聞こえてるね。沢道を、三つ目まで。そこで返事をして。〉
記録時刻は七月二十三日十八時十七分。
遼が初めて再生するより十三時間前だった。
同じ音の冒頭を、姉は「さき」、弟は「りょう」と聞いた。
遼は写真を野辺へ見せた。
「姉さんが加工した可能性は」
「ある」
野辺は簡単に答えた。
「お前が自分の名前を当てたのかもしれない。二人が同じ曖昧音へ別の名を置いたのか、最初から別の音だったのかも分からない」
「全部あるで済ませたら、何も調べられない」
「だから、一つずつ消すんだ。好きなものを最初に選ぶんじゃない」
遼は五人分の記録を表へした。
時間位置、話者、確信度、事前知識。句読点も原文のまま残した。
美緒の最初の記録では「聞こえてる、ね」と読点が入る。紗季と遼は「聞こえてるね」。市職員は「聞こえてる」で切った。
句読点は音にはない。
聞いた人間が置いたものだ。
それでも一度置かれると、文章の呼吸を決めた。
御厨からメッセージが届いた。
〈さっきの文言、照合のため掲示板復元協力者へ送っていいですか〉
遼は拒否しようとした。
同時に、投稿031の書き手を見つけるには必要だと思った。
〈固有名を除く。音声は送らない。三つ目までの一行だけ〉
そう返信した。
野辺が画面を覗いた。
「何を送った」
「照合用の一文だけです」
「誰に」
「御厨です」
「取り消せ」
「投稿者が見つかるかもしれない」
「見つかる前に、その文を知ってる人間が増える」
「文字を見ただけで何か起きるって言うんですか」
「俺が言ってるのは取材の話だ。証言を集める前に模範解答を配るな」
遼が送信取消を押したときには、御厨の既読が付いていた。
十分後、御厨からスクリーンショットが届いた。
復元協力者へ転送する直前の画面だという。宛先は伏せられていた。本文には、遼が許可した一行のほかに、御厨自身の注釈が付いている。
〈「三つ目」は沢道の分岐、または地蔵・祠等の数を示す可能性〉
「転送したんですか」
「取り消しました」
「既読は」
「付く前です」
「確認できますか」
返答が止まった。
十五分後、御厨は送信履歴の動画を送ってきた。画面録画を開始した時点より前の操作は映っていない。
証拠にならなかった。
遼はそう伝えた。
〈では、水城さんが私へ送った時点から汚染ですよね〉
言い返せなかった。
御厨だけを疑うには、遼自身が多くの人間へ録音を聞かせすぎていた。
紗季が残した複製を、弟が記事の材料にし、記事の材料を得るためにさらに複製する。複製のたびに音質が落ち、説明が足され、聞き手が増えた。
それでも原本へ近いものを持っているのは自分だ、と遼は考えていた。
その考えを表の「確認済み」へ入れかけて、やめた。
姉の携帯電話がない以上、遼が持つファイルも原本ではない。
共有フォルダから取得した、出所不明の一つの複製だった。




