5人の聴取
五人へ同じ録音を聞かせるという案は、遼が出した。
野辺は実験と呼ぶなと言った。
「条件を管理できない。被験者を集めた時点で、お前が何を期待しているか伝わる」
「個別に聞かせます」
「同じ建物へ呼ぶんだろう」
「待機場所を分ける」
「誰が何を聞いたか、顔を見れば訊く」
その指摘どおりになった。
支局の会議室、編集室、仮眠室へ一人ずつ待たせた。最初は美緒。二人目は遼自身。三人目は市職員。四人目は事件概要を知らない音響会社の補助者。紗季の自己記録を五人目として並べる予定だった。
聴取前、遼は全員へ口外しないよう頼んだ。
用紙には、聞こえた言葉のほか、話者の性別、距離、方向、確信度、事前に知っていた情報を書く欄を作った。
野辺は用紙を見て、質問の順番を変えた。
「最初に自由記述だ。話者は女か、距離は、と先に訊けば、その枠で聞かせることになる」
「最低限の比較項目は要る」
「比較のために答えを作るな。自由記述のあとで分類しろ」
遼は様式を二枚に分けた。
一枚目は白紙に近く、聞こえたものをそのまま書く。
二枚目で属性を回答する。
形式を変えただけで影響を消せるわけではない。それでも、どこから影響が入るかを記録することはできた。
最初に自分が聞いた。
姉から名前を呼ばれたと知らされている。掲示板の「三つ目」を見ている。美緒の「食器」も知っている。事前知識欄には、すべて書いた。
イヤホンを着ける。
再生する前から、次に来る言葉を待っていた。
りょう。
聞こえてるね。
沢道を三つ目まで。
そこで返事をして。
以前より鮮明に聞こえた。
音源が変化したのではない。
遼が文を覚えたから、曖昧な部分を待ち構えられるようになった。
確信度を五段階の四と書き、迷って三へ直した。
野辺が用紙を裏返した。
「自分の実験で、自分の答えを採用するな」
「参考にはなる」
「お前は音源も仮説も知りすぎてる。参考になるのは、知識がある人間にはこう聞こえた、ということだけだ」
二人目は美緒だった。
喫茶店で二度、帰宅後にも聞いている。独立聴取ではないが、同じ人物の記録変化として残す。
美緒は再生を断ろうとした。
「もう聞かない方がいいと言われたので」
「俺が言いました」
「今は、聞いてほしい?」
遼は言葉に詰まった。
「比較のために必要です。ただ、無理にとは」
「お姉さんを捜すため?」
「それもあります」
美緒はイヤホンを受け取った。
「その言い方をされると、断ったら悪い気がします」
遼はイヤホンを戻してもらおうとした。
「聞きます」
美緒は再生ボタンを押した。
終了後、用紙へ書いた文は喫茶店の二枚目とほぼ同じだった。
ただし冒頭の「おかえり」が消え、空欄になっている。
「聞こえなかった?」
「何か言ってます。でも、書いたら決まる気がして」
「決まる?」
「母か、私の名前か。今はまだ、どちらにも聞こえる」
記録を正確にするための空欄が、二つの可能性を残していた。
遼はそこを埋めさせなかった。
市職員が廊下で美緒とすれ違ったのは、一度だけだった。
「三つ目って、どこのことだと思います?」
美緒がそう訊いた。
遼は会議室の扉を閉めるのが遅れた。
市職員は録音を一度聞き、用紙へ書いた。
〈[聞取不能]聞こえてる。沢道を見なせ。まだ返事をして[聞取不能]〉
「見なせ、ですか」
「そう聞こえました」
「三つ目ではなく?」
職員は遼を見た。
「三つ目と聞くものなんですか」
質問した時点で、二度目の聴取は使えなくなった。
遼は用紙の「見なせ」へ印を付けた。職員はそれを見て、消しゴムで文字を消した。
「なぜ消すんです」
「自信がなくなったので」
消し跡へ斜めから光が当たり、紙の凹みだけが残った。
ミナセ。
漢字ではなく片仮名で書いたようにも見えた。
補助者は事件の説明を聞かず、一度だけ再生した。
〈……きこ……まだ……ないで〉
名前は聞き取れないと答えた。
独立聴取のつもりだったものは、始める前から独立していなかった。
同じイヤホンを使った。遼が再生位置を合わせた。待機者は同じ支局の音を聞いた。美緒の一言が市職員へ漏れ、遼の表情が答えを教えたかもしれない。
それでも、書かれた文章は似ていた。
聞こえてる。
そこで。
返事をして。
音の中に共通する言葉があったから似たのか。
先に一つの文型を知ったから、曖昧な音をそこへ収めたのか。
遼には分からなかった。
翌朝、音響会社の補助者から、個人名義の短い所見が届いた。
会社としての鑑定ではないこと。受け取ったファイルが原本である保証はないこと。聴感による文字起こしは行わず、波形とスペクトログラムだけを確認したこと。
三つの但し書きのあとに、結論があった。
〈人声と断定できる連続した基音は確認できない。ただし、防災無線のチャイム、環境音、圧縮雑音が重なった帯域に、音声らしい変化が含まれる可能性は排除できない〉
遼は電話をかけた。
「つまり、声は入っていない?」
「そうは書いてません」
「入っているとも言えない」
「だから、その通り書きました。あと、水城さんが再生した時の機械を見せてください。昨日のノートパソコンだけじゃなく、最初に聞いた端末も」
最初に聞いたのは紗季の携帯電話だった。
だが、端末は姉と一緒に消えている。
「ファイルの作成日時は残っています」
「コピーした日時でしょう。録音した日時とは限らない。編集ソフトを通しても変わるし、クラウドから落としても変わる」
「加工の痕跡は?」
「痕跡がないことと、加工されていないことは同じじゃありません」
野辺と同じ言い方だった。
遼は苛立ち、礼を言う前に通話を切りかけた。
「もう一つ」
補助者が止めた。
「昨日、僕には『まだ、ないで』と聞こえました。でも帰りの電車で、用紙にあったほかの人の文を思い出したら、『まだ返事をしないで』にも聞こえる気がしてきた。もう音源は聞いてません。記憶の方が変わったんです」
遼はその発言を、電話取材記録として書き起こした。
時刻を入れ、本人確認済みと付ける。
最後に、〈二度目の聴取なし〉と太字にした。
音だけでなく、聞いたという記憶まで、後から渡された文章へ近づく。
ならば五枚の用紙は、音源の違いを測った記録ではなかった。
同じ曖昧なものへ、人がどの順番で意味を足したか。その汚染経路を、途中から記録し始めたにすぎない。
遼は表へ新しい列を作った。
〈聴取前に接触した人物〉
自分の行には、紗季、美緒、御厨、野辺。
美緒の行には、遼、御厨。
市職員の行には、遼、美緒。
補助者の行には、遼、野辺。それから聴取後に、全員分の用紙。
紗季の行だけが空欄だった。
空欄は、誰とも接触していないという意味ではない。遼が知らないという意味だった。




