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第3章 第91話 ラウゼンへの持ち帰り

第3章 第91話 ラウゼンへの持ち帰り


 村から持ち帰るものは、思っていたより少なかった。


 父の試料箱には、落ちていた白い小石が一つ。


 オルグが立ち会い、壁を削らずに受け取った剥離片が一つ。


 そして、鷹のくちばし亭の裏口で作った壁の図と、雨の後に書き込んだ観察表が入っている。


 村で新しいものを試さないと決めたのだから、持ち帰る物も、次の人が管理できる範囲に限る。


 オルグは、剥離片を紙へ包む前に言った。


「持って帰るなら、この端だけだ」


 壁のしっかりしている場所は削らない。


 端で、すでに外れかけていた小さな片だけを、木匙で受けた。


 札には、採取した場所と状態を書いた。


 鷹のくちばし亭裏口。

 雨当たりの下部。

 端の浮き。

 オルグ確認のもと、自然に外れかけた小片一つ。

 採取日。

 未処理。


 それ以上は書かない。


 壁の中身が何でできているか。

 なぜ灰色に見えるのか。

 雨にどれほど耐えるのか。


 まだ分からないことまで、札の中へ記録しない。


 リナが、試料箱の蓋を持ってくれていた。


「ラウゼンに戻ったら、同じものを作るの?」


「すぐには作らない」


 ソーマが言うと、リナは少し首をかしげた。


「作り方を探してたんじゃないの?」


「探してる。でも、村で見た壁と、工房で作る小片を、同じものだと思ってはいけない」


 ソーマは、壁の図を見せた。


「村では、雨の後に四か所の見え方が違った。軒下は白く見えて、雨の当たるところは濃い灰色に見えた。地面際には泥が跳ねていた」


「うん」


「それは、材料が違うからかもしれない。雨の当たり方や、壁の古さ、地面の水はけのせいかもしれない。今の僕には分けられない」


 リナは、少し考えてから言った。


「料理も、同じ分量で作っても、鍋が違うと少し変わる」


「たぶん、それに近い」


「じゃあ、ラウゼンへ持っていくのは、壁の答えじゃないんだね」


「うん。次に何を比較するかを決めるための記録」


 リナは嬉しそうに、けれど少し寂しそうに笑った。


「ここのこと、忘れないでね」


「忘れない。札も、図も、工房で残す」


 村を出る朝、リナは宿の前で手を振った。


 泣いてはいない。


 泣かないように、唇を結んでいるのが分かった。


 ソーマも手を振り返した。何か言えば、また二人とも言葉を失いそうだったので、言葉は使わなかった。


 荷馬車の隣で、ユーリが試料箱の紐を確かめる。


「ずいぶん軽いな」


「軽い方がいい」


「いつも石を増やしたいって顔をしてるのに?」


「増やしたいからこそ、増やさない」


 ユーリは少し笑った。


「ラウゼンで覚えたやつか」


「うん」


 街道へ出ると、村の赤土は黄褐色へ変わり、ラウゼンに近づくほど黒っぽい土が増えた。


 来る時にも見た景色だ。


 土の色が違う。

 雨の流れ方が違う。

 人が歩く道の硬さが違う。


 ソーマは馬車の揺れの中で、旅の記録を開いた。


 村の既存壁。雨後の観察。

 軒下、雨当たり、地面際、浮き端。

 自然落下石一つ。剥離片一つ。

 材料の由来、内部、耐久性は未確認。


 それから、次の紙へ「比較案」と書く。


 工房で確認すること。


 村の壁の図と、工房の養生記録を並べて比較する。

 村の剥離片は保管する。

 村の白石は、由来を記録して保管。

 ラウゼンの通常材料だけで、現在の基準片をもう一度作る。

 変えるものは一つずつにする。


 工房街の匂いが濃くなったころ、ソーマは試料箱を抱え直した。


 灰。

 焼けた粘土。

 金属。

 油。


 故郷の雨上がりの土とは違う匂い。


 それでも、半年を過ごした工房の匂いは、今では少し懐かしかった。


 フェルド工房の戸を開けると、セラが最初に気づいた。


「お帰りなさい」


「ただいま」


「村はどうでしたか」


「雨の後の壁を見てきた。答えは持ち帰ってない」


 セラは、少しだけ目を細めた。


「では、記録を持ち帰ったのですね」


「うん」


 フェルド老師が作業台の前から顔を上げた。


「何を持ち帰った」


 ソーマは、箱を床へ置いた。


「自然に落ちた白石が一つ。オルグさんの立ち会いで採った剥離片が一つ。壁の図と、雨後の観察表です」


「粉は」


「ありません」


「よい」


 その一言で、ソーマは少しだけ肩の力を抜けた。


 セラは記録板を用意した。


 ナーシャは水瓶を棚の下へ移す。村の品を開ける場所と、水を使う場所を近づけないためだ。


 メイナは、試料棚の端に空いた区画を指した。


「まず、ここへ置く?」


「お願いします」


 父の試料箱を開ける前に、ソーマたちは札を確認した。


 自然落下石。

 村の赤土崖下。

 採取日。

 未処理。


 剥離片。

 宿屋裏口の壁。

 雨当たりの下部。

 端の浮き。

 採取日。

 未処理。開封・破砕しない。


 セラは、二つの札を写した。


 工房での受け入れ日。

 受け入れた者。

 元の札の内容。

 保管場所。


「開けないんですね」


 ナーシャが、小さな紙包みを見た。


「開けない。今の僕たちには、まだ開ける理由も手順も足りない」


「石の子も、まだ寝てるの」


「そうだね。まず、どこから来たかを記録する」


 ナーシャは、慎重にうなずいた。


 村の紙包みは、隔離棚の端へ置かれた。


 工房の通常材料と、分けて保管する。


 それだけで、村の時間が少し離れた場所に置かれたように見えた。


 午後、ソーマはフェルド老師とセラの前で、村の図と工房の記録を並べた。


 片方には、養生箱を使った小片の記録。


 もう片方には、宿屋裏の壁を雨の後に見た図。


 どちらにも、水と壁と白い色がある。


 けれど、比べられる欄は少なかった。


 工房では、材料の由来、成形の形、棚の位置、覆いの有無を記している。


 村の壁では、いつ作られたか、どんな材料が使われたか、何度補修されたかが分からない。雨の当たり方も、地面の泥も、屋根の形も違う。


「似ているところを先に探してはいけませんね」


 ソーマが言う。


「なぜだ」


 フェルド老師が尋ねる。


「似ていると決めると、違いを見落とします」


 フェルド老師は、短くうなずいた。


「なら、何を書く」


「同じかもしれないことではなく、比べられない理由を書きます」


 セラが新しい表を作った。


 村の既存壁。

 工房の基準片。


 材料の由来。

 作った時期。

 水の由来。

 下地。

 厚み。

 置き方。

 雨・風。

 観察者。

 分からないこと。


 村の欄には、空白が多い。


 工房の欄にも、まだ空白はある。


 だが、空白が見えれば、次に何をそろえるかを考えられる。


「土地差という言葉より、ここでは条件の違い、と書こう」


 フェルド老師が言った。


「土地という大きな言葉でまとめれば、何が違うかが分かりにくくなる」


「はい」


 ソーマは表の題を直した。


 村と工房の条件差。


 村の白石が特別だったのか。

 村の雨が特別だったのか。


 まだ分からない。


 分からないものを一つの「土地差」に押し込めない。



 村から戻った翌日、まずは、工房の現在の基準片をもう一度作ることにした。


 熟成済みの材料。

 記録済みの砂。

 水量筒一号の仮目盛り。

 試作型枠。

 養生箱。


 これらが、村へ行く前と同じように使えるかを確かめる。


「それなら、私は何を見ればいいの?」


 ナーシャが聞いた。


「水を足さないこと」


「それだけ?」


「それが一番難しいかもしれない」


 ナーシャは少し笑った。


「水は足すのは簡単なの。戻すのは難しいの」


「うん」


 ソーマは、村の雨を思い出した。


 壁を濡らした雨も、流れたあとには戻せない。


 だから、雨の前と後を記録する。


 工房で水を量る時も同じだ。


 足してしまう前に、どこまで入れたかを残す。


 セラは、翌日の基準片の札を用意した。


 村の材料は使用しない。

 持ち帰り試料は隔離棚に残す。

 材料・砂・型・棚位置を固定。

 水量は仮目盛りの基準線。

 覆いの扱いは、既存の手順どおり。

 内部・耐水性は判断しない。


 札を読むと、ソーマは少し落ち着いた。


 村の壁をそのまま工房へ運ぶことはできない。


 けれど、村で見たことを、工房の手順を壊さない形で問いに変えることはできる。


 メイナは隔離棚の前に、細い赤紐を一本張った。


「ここから先は、開ける時に声をかける場所。そう書いておくよ」


「お願いします」


 セラは受け入れ帳の端に、開封者欄と理由欄を足した。試料を開けるなら、誰が、何のために、どの手順で開けたのかを残す。小さな包み一つでも、そうしなければ、あとで工房の材料と混ざった時に由来を失う。


 ソーマは、その欄を見て頷いた。


 ソーマは、村の観察表にあった四つの番号を、工房の表の端にも小さく写した。


 一番、軒下。

 二番、雨当たり。

 三番、地面際。

 四番、浮き端。


 工房の小片へ同じ番号を付けるわけではない。


 ただ、村でどの違いが気になったのかを、忘れないために書く。


 軒下の白さ。

 雨当たりの色。

 地面際の泥。

 端の線。


 工房では、水の量、覆いの有無、下地の違いを、一つずつ分けたときに、どんな風に見えるのかを実験で確かめていくつもりだ。


 その違いを紙へ書いたことで、村から持ち帰った記録が少しだけ落ち着いて見えた。


 ナーシャは、札を読んで言った。


「村の壁は、そのまま置いておくのね」


「うん。工房で名前を付け替えないよ」


「それなら、村の子も迷子にならないの」


 ソーマは、その言い方が好きだった。


 場所の名前を残すことは、試料を迷子にしないことでもある。


 夕方、フェルド老師は村の観察図を指した。


「建築組合へ行く話は、どうする」


 ソーマは少し考えた。


「材料を売る相談はまだです。村の図を見せて、現場で壁を見る時、何を記録するべきかを教わりたいです」


「失敗も見せるか」


「見せます。工房で基準片が作れたら、その記録も見せます。しかし、今の時点では使えるとは言いません」


 フェルド老師はうなずいた。


「よい。職人は、使えるかどうかを急ぎたがる」


 ソーマは、村の剥離片がある棚を見た。


 答えは、まだ包みの中にない。


 包みの外には場所と日付が書かれている。


 そして、工房で次に何の条件を固定し、何を比べるかはすでに考えている。


 記録帳の最後に、ソーマは書いた。


 村の観察を、工房の成功と呼ばない。

 村と工房の条件差を表に残す。

 持ち帰り試料は隔離し、未処理のまま保管する。

 次は、工房の基準を修正する。


 窓の外で、ラウゼンの夕方の煙がゆっくり流れていた。


 村の雨の匂いは遠い。


 けれど、その雨を見た日の記録は、今、工房の机の上に並んでいる。


最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

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