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第3章 第92話 建築組合の壁

第3章 第92話


建築組合の壁


 建築組合へ行く朝、ソーマの足は少し重かった。


 持っている箱は軽い。


 中に入っているのは、村で描いた壁の図、雨の後の観察表、工房で作った養生記録の写し、そして村から持ち帰った試料を隔離棚へ収めたという受け入れ帳の写しだった。


 軽いからこそ、心が重い。


 材料を持って行ければ、話は早かったのかもしれない。目の前で触ってもらい、叩いてもらい、面白いと言ってもらえれば、次へ進める気がする。


 けれど村の観察結果を、工房の成功とは呼ばない。


 村から持ち帰ったものを、答えとしては扱わない。


 今日は現場で何を観察すればよいのかを教わりにきたのだった。


 ラウゼン建築組合の建物は、工房街の西端にあった。石積みの一階と木組みの二階、厚い壁、広い荷下ろし場。門の横には、割れた煉瓦、古い漆喰片、石材見本、木材の切れ端が並べられている。どれも職人が触り、叩き、比べるためのものだった。


 ソーマは、その見本棚の前で足を止めた。


 石の色が違う。

 目地の太さが違う。

 同じ白い壁材でも、古いものは黄ばみ、新しいものは粉っぽく、雨の当たった端は黒ずんでいる。


 壁は、一枚の平らな面ではなかった。


 作った人、直した人、雨、風、土、荷車の振動、暮らす人の手。そういうものが時間の中で重なった結果だった。


「来たか」


 低い声がした。


 広い作業場の奥に、がっしりした体格の男が立っていた。髪は短く刈られ、額には古い傷がある。腕は太く、指先には白い壁材の粉と土の色が染みついていた。


 マルド・ケッセル。


 ラウゼン建築組合の親方で、土属性の魔術師でもある。建築現場では、基礎の締まり、壁の沈み、石積みのずれを読むことで知られていると聞いていた。


「ソーマ・アルディスです」


「フェルドから話は聞いている。白い壁材を水に強くしたいそうだな」


「はい。ただ、まだ材料として持ち込める段階ではありません」


 ソーマはすぐにそう言った。


 マルドの目が、少しだけ細くなる。


「では、何をしに来た」


「現場で壁を見る時、何を記録すべきかを教わりに来ました」


 ソーマは記録箱を机に置いた。


「村で既存の壁を雨の後に観察しました。けれど、材料も、作った時期も、下地も分かりません。工房の試験片と比べるには、分からないことが多すぎます」


 マルドは、箱ではなくソーマの顔を見た。


 その隣で、細身の男が鼻を鳴らした。


「材料を売り込みに来た小僧じゃないのか」


 ヴァレリオだった。


 保守派の左官職人。土属性を持ち、壁土と白灰壁を長く扱ってきた職人だと聞いている。年はマルドより少し若いが、目つきは鋭く、こてを腰に差した姿は隙がない。


 ソーマは喉の奥が固くなるのを感じた。


 疑われる怖さ。


 それは、フェルド老師に叱られる怖さとは違った。ここにいる人たちは、日々の仕事で壁を塗り、家を直し、橋や倉庫を支えている。使えない材料を持ち込まれれば、迷惑では済まない。誰かの仕事を増やし、誰かの信用を傷つける。


「売れるものはありません」


 ソーマは答えた。


「僕が持っているのは、分からないことが詰まった表です」


「ずいぶん景気の悪い土産だな」


 ヴァレリオが言った。


「はい」


 ソーマが真面目に頷いたので、作業場の端にいた若い職人が小さく笑った。ヴァレリオは笑わなかったが、怒りもしなかった。


 セラが用意してくれた写しを広げる。


 村の既存壁。

 工房の基準片。


 材料の由来。

 作った時期。

 水の由来。

 下地。

 厚み。

 雨の当たり方。

 風向き。

 地面の跳ね返り。

 補修の有無。

 分からないこと。


 表の中には、空白が多かった。


 ソーマは、その空白を恥ずかしいと思った。けれど、消さずに残した。適当な値で空白を埋めたふりをすれば、あとで壁が壊れた時、どこを間違えたのか分からなくなる。


 マルドは、最初に村の図を見た。


「軒下が白い。雨の当たる下部が濃い。地面際に泥跳ね。端に浮き」


「はい」


「材料が違うと見てもよいし、雨の当たり方が違うと見てもよい。壁の古さもある。下地もある」


「そこを分けられませんでした」


「分けられないと書いてあるなら、まだましだ」


 フェルド老師と同じような言い方だった。


 ソーマは少しだけ息を吐いた。


 ヴァレリオは、工房の基準片の記録写しを指で叩いた。


「型に入れた小片と、壁は違う」


「はい」


「型は逃げねえ。壁は逃げる。水も逃げる。下地は吸う。端が浮く。上手い奴が塗れば残るものも、下手な奴が塗れば落ちる」


「施工者差ですね」


「そんなきれいな言葉で済ませるな。腕の差だ」


 言葉は厳しい。


 けれど、必要だった。


 ソーマは記録帳へ書いた。


 施工者差ではなく、腕の差。こての角度、押し込み、待ち時間、厚みの癖。


 ヴァレリオは、壁際に立てかけてあった古い練習板を持ってこさせた。組合の見習いが練習に使う、古い白灰壁と土壁の板だった。


「ここを見ろ」


 彼は、こての角で古い壁の表面をなぞった。


「同じ白い壁でも、表だけ直してある場所がある。ここは音が軽い。下が浮いてる。ここは雨を吸って黒くなった。こっちは油が飛んで、表面だけ汚れてる。材料を疑う前に、壁の暮らしを見ろ」


 壁の暮らし。


 ソーマはその言葉を記録した。


 前世なら、使用環境、曝露条件、メンテナンス履歴、汚染源、と書いたかもしれない。けれど、職人の言葉はもっと近い。壁がどこで、どう過ごしてきたかを見る必要がある。


 マルドは土魔術を薄く通し、練習板の裏を読んだ。


「土魔術で分かることもある。浮き、詰まり、隙間、下地の弱り。だが、材料の名前までは分からん」


「成分までは読めないですか」


「読めた気になる者はいる。ただ、そういう者が一番危ない」


 ソーマは背筋を伸ばした。


 自分にも覚えがある。


 土魔術の手応えが少し変わると、内部の構造が分かったような気になる。けれど、それは感触であって、証明ではない。沈み感、抵抗感、粒の詰まり。そこから仮説を立てることはできるが、断定はできない。


 マルドは、セラの写しの余白に太い字で書いた。


 土魔術欄は、観察とは別に記録するようだ。


「ここだ」


「別の欄に記録ですか」


「目で見たこと。手で触ったこと。叩いて聞いたこと。魔術で感じたこと。これらの結果を一緒に書くな。後で理由が分からなくなる」


 ヴァレリオが横から言った。


「魔術師は、自分の感覚を証拠みたいに平気に出してくるからな」


「耳が痛いです」


 ソーマが素直に言うと、若い職人がまた笑った。


 笑われたのに、不思議と嫌ではなかった。


 少なくとも、話を聞いてもらえている。


 昼前まで、組合の作業場で現場観察表を作った。


 壁の場所。

 方角。

 屋根の出。

 雨の当たり方。

 地面からの跳ね返り。

 排水の逃げ先。

 壁の高さ。

 厚みの見える場所。

 古い補修跡。

 ひびの向き。

 粉吹き。

 白い線。

 黒ずみ。

 叩いた音。

 触ってよいかどうか。

 触った人。

 魔術感覚。

 分からないこと。


 細かい。


 正直、細かい。


 けれど、前に細かすぎて読むのが嫌になると言われたことを、ソーマは思い出していた。だから、セラの助言通り、表は二つに分けた。


 現場ですぐ見ることのできる単純な表。


 工房へ戻って整理する詳しい表。


 職人が雨の中で使う表に、長い説明はいらない。見る場所と、番号と、危ない時の印があればいい。詳しい考察は後で書く。


 単純な表は、手のひらほどの板札に写すことになった。雨で紙が濡れても、番号だけなら残せる。詳しい表には、その番号ごとに後で書き足す。現場の職人が使う道具と、工房で考えるための記録を分ける。


 ソーマは、細かく記録を取ることが悪いのではないのだと気づいた。


 記録する場所に合っていない場合には、細かさが人を疲れさせる。


「この短い表なら、現場で使える」


 マルドが言った。


「長い方は」


 ヴァレリオは紙を見て、少し嫌そうな顔をした。


「俺は読みたくねえ」


「工房用にします」


「そうしろ」


 その返事が、なぜか少し嬉しかった。


 拒絶ではなく、役割分けだったからだ。


 午後、ソーマは持参した受け入れ帳の写しを見せた。


 自然落下石。

 剥離片。

 どちらも隔離棚に保管。

 未処理。

 開封・破砕しない。


 ヴァレリオはそこを見て、初めて少しだけ表情を緩めた。


「村から粉を持ってこなかったのは、正解だったな」


「持ってきたかったです」


「だろうな」


「でも、混ざったら終わりなので」


「その感覚は大事だ」


 短い言葉だった。


 褒められたのかどうかは分からない。けれど、ソーマは胸の中に小さな灯りがともるのを感じた。


 帰り際、マルドは村の図と短い現場表を束ね、組合の印を押した。


「建築組合として、相談は受ける。だが、まだ材料は受け取らん」


「はい」


「次に持ってくるなら、工房の基準片を作り直した時の記録だ。材料は持ち込まなくていい。まずは、どの条件を固定し、どれを変えたのかを見せろ」


「分かりました」


 ヴァレリオが続けた。


「それと、登録局へ行くなら気をつけろ」


「登録局、ですか」


「白い壁材、水に強い壁材。そんな興味を惹くような言葉が噂になれば、これまでの俺たちの仕事までお前の発明にされちまう」


 ソーマは、息を止めた。


 そんなつもりはない。


 けれど、紙に記載して登録されれば誤解されるかもしれない。


「既存技術と、新しい候補技術を分けて書く必要があるんですね」


「そうだ。名前をつける前に、範囲を絞れ」



 ソーマは建築組合へ来る前よりもずっと重いものを持って帰っていた。


 現場観察表。

 魔術感覚を別欄にする決まり。

 触ってよいかを先に確認する注意。

 既存技術を侵さないための登録範囲。


 セラが横で記録箱を抱え直した。


「材料より、持ち帰る内容の方が重くなりましたね」


「うん」


「でも、必要な重さです」


 ソーマは頷いた。


 工房街の夕方の空には、煙が薄く伸びていた。白い粉の匂いはしない。


 そのことに、ソーマは少しだけ安心した。


 白硬材候補は、まだ壁に塗られていない。


 けれど、壁を見るための目を一つ、建築組合から借りることができた。


最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

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