第3章 第90話 雨に耐える壁
第3章 第90話 雨に耐える壁
雨は、夜明け前から降り始めた。
最初は屋根をなでるような音だった。
眠りの浅いところで、ソーマはその音を聞いた。夢の中の水音かと思ったが、やがて軒先から落ちる雫が規則を持ち、宿の壁を伝う風が湿った匂いを運んできた。
秋の雨だった。
夏の夕立のように地面を叩くのではなく、冷たく、長く、土の中へ染み込む雨。
ソーマは寝台の中で、一度だけ目を閉じた。
裏口の壁。
昨日、オルグと決めた四つの観察場所が頭に浮かぶ。
軒下の白い粉。
雨の当たる灰色部分。
地面際の泥跳ね。
端が浮いて見える場所。
見に行きたい。
だが、夜明け前の雨の中へ一人で出るのは躊躇した。
壁が崩れそうな場所へ近づかない。
足元が見える明るさになるまで待つ。
それも、村へ来る前に決めたことだった。
ソーマは外套を握りかけてから、立ち止まった。
朝の火が入り、グレッグが起き、足元を確かめられるようになってから見る。
待つあいだ、雨は窓を細かく叩き続けた。
食堂に降りると、まだ客はいない。厨房ではグレッグが火を入れ、リナが濡れた薪を避けて乾いたものを選んでいた。
「雨だね」
リナが言った。
「うん」
「壁、見に行く?」
「明るくなってから。グレッグさんと一緒に」
リナは、少しだけほっとした顔をした。
「触らない?」
「触らない。見るだけ」
「じゃあ、私も行く。昨日の表を持っていくね」
ソーマはうなずいた。
雨が降れば、すぐ答えが出るわけではない。
それでも、昨日まで乾いて見えた場所が、雨のあとにどう変わるかを見ることができる。
朝食の準備が一段落したころ、グレッグが裏口の戸を少し開け、外を確かめた。
空はまだ暗いが、足元は見える。
雷の音はない。
風は強くない。
屋根から落ちる水は、裏口の端へ集まっている。
「行くなら、ここを歩け」
グレッグが、屋根の落水線から離れた石の道を指した。
「溝のふたの上は踏むな。濡れると滑るぞ」
「はい」
リナは観察表を油紙の間へ挟んだ。ソーマは鉛筆を一本だけ持つ。記録帳を雨の中で広げる必要はない。表へ短く印を付け、細かなことは戻ってから書けばよい。
三人は、裏口へ出た。
雨は、しとしと降っていた。
点検板の縁には水滴が並び、浅鉢へ向かう溝には細い水の線ができている。枝の柵には落ち葉が二枚引っかかり、その周りで水が小さく回っていた。
グレッグが、柵へは触れずに言った。
「昨日まで、ここに葉はなかった」
「雨で流れてきたんですね」
「たぶん。まだ取り除かない。水がどう回るかを見てからだ」
ソーマは、リナの観察表へ小さな印を付けた。
雨。
枝の柵に落ち葉二枚。
水は浅鉢へ流れている。
原因を書く欄はない。
今見えていることだけを残す。
次に、壁の一番を見た。
軒下の白い粉が残っていた場所。
雨が直接当たりにくい場所なので、昨日と似た白さがまだ見える。けれど壁の下の方には、薄い灰色が混じって見えた。
ソーマは表へ記す。
一番。軒下。白い粉が見える。下部は湿って灰色に見える。
「粉は流れてない?」
リナが小声で聞いた。
「今のところ、壁から白い筋が下へ伸びているように見えない」
「じゃあ、残ってる?」
「残って見える。でも、それがいいことかはまだ分からない」
軒下は、雨を受けにくい。
雨に耐えたのではなく、雨に当たっていないだけかもしれない。
ソーマは、心の中でその言葉を繰り返した。
二番は、雨の当たる灰色の部分だった。
屋根の端から離れた壁面に、雨粒が細かく当たっている。昨日は灰色に見えた場所が、今日は全体に濃くなっていた。
色の違いは分かる。
けれど、濡れたから濃く見えるのか。元から違う材料なのか。表面の汚れが水で浮いたのか。そこまでは分からない。
リナが、二番の欄へ灰色の印を付けた。
「昨日より濃い、でいい?」
「うん。昨日より濃く見える」
雨に当たる壁の下には、白い筋のようなものが少し見えた。
ソーマは、反射なのか、粉が水に混じって流れた跡なのか、迷った。
だから「白い筋」とだけ書く。
流出、と書かない。
三番の地面際は、泥跳ねが増えていた。
壁の表面は茶色い点で汚れ、細かな砂が水の流れに沿って集まっている。壁そのものが変わったのか、地面から跳ねた泥が付いただけなのかを、今は分からない。
「壁が悪くなったんじゃないの?」
リナが聞く。
「壁に何かが起きたとは、まだ言えない。地面から跳ねた泥が、見え方を変えているかもしれない」
グレッグが、地面を見て言った。
「裏口は、壁だけ見てもだめだ。水が落ちるところと、泥が跳ねるところがある」
その言葉に、ソーマはうなずいた。
材料だけを見て、壁を語れない。
壁のそばにある地面。
屋根から落ちる水。
人が歩く道。
それらも、壁の状態を変える。
四番は、端が浮いて見える場所だった。
昨日から、少しだけ空いたように見える端。
雨に濡れた今日は、輪郭が分かりにくい。触れて確かめれば、もっと分かるかもしれない。
だが、ソーマは手を出さなかった。
雨の中で触れれば、表面を傷めるかもしれない。水を含んだ場所へ力をかければ、変化を自分で作ってしまう。
オルグが乾いたあとに打診する、と言っていた。
今は、見える線だけを残す。
四番。端に線が見える。雨天のため、昨日との差は判断しにくい。触れず。
四つの場所を見終えたころ、オルグが雨具を着て裏口へ現れた。
「見たか」
「見ました。触っていません」
ソーマが答えると、オルグは短くうなずいた。
「紙を見せろ」
リナが観察表を差し出す。
オルグは、番号と短い言葉を読んだ。
「余計なことは書いていないな」
「まだ分からないことが多いので」
「それでいい。雨の中で分かるのは、雨の中で見えることまでだ」
オルグも壁から少し離れた位置から四か所を見た。
「一番は、軒下だ。白いままでも、雨に強いとは言わん」
「はい」
「二番は、濡れて色が変わっている。乾いたあとにどう戻るかを見る」
「はい」
「三番は、泥が跳ねる。水の落ち方と跳ね方を考える」
「はい」
「四番は、乾くまで触るな」
ソーマは、オルグの言葉をそのまま覚えた。
打診をするなら、壁と道が乾いてから。
そのときも、音が違うということだけを記録する。中がどうなっているかを、音だけで決めない。
土魔術も使わない。
今日の観察は、目で見たことおおだけでよい。
観察を終えて宿へ戻る途中、ソーマは何度も後ろを振り返りそうになった。
壁は、そこに残っている。
雨にぬれた壁が、次の瞬間に何かを教えてくれるわけではない。だが、目を離した間に白い筋が増えるかもしれない。端の線が広がるかもしれない。
そう考えると、また見に行きたくなる。
「次に見るのは、いつ?」
リナが、石の道を歩きながら聞いた。
「オルグさんが言った通り、雨が止んで落ち着いてから」
「お昼にも見ないの?」
「見たくなっても、朝と同じことを何度も見るだけかもしれない」
「同じなら、書かない?」
「書くかどうかは、次に決める。でも、観察する時刻を変えるなら、表に書かないといけない」
リナは少し考え、観察表の端を押さえた。
「じゃあ、今日は朝だけ。明日は雨の翌日。そう決めた方がいいね」
「うん」
決めた時刻以外に見ないことは、知らないふりをすることではない。
見たい気持ちがあると知ったうえで、比較できる記録を残すために待つことだった。
食堂へ戻ると、グレッグが濡れた靴を見て言った。
「壁の方はどうだ」
「雨で見え方が変わりました。でも、まだ何とも言えません」
「あふれそうか」
「壁は、今すぐ落ちそうには見えません。点検板の方は、落ち葉が二枚引っかかっています」
グレッグは、裏口の方を見た。
「俺が掃除するべきか」
ソーマは少し迷った。
落ち葉を取れば、水の流れは変わる。だが、宿の排水があふれて困るなら、観察のために放置してよいわけではない。
「水があふれそうなら、掃除を優先してください。今は、流れが浅鉢へ行っているのが見えました」
「なら、次の仕込みの前にもう一度見る。あふれそうなら、取る」
「取ったら、取ったことを札に書きます」
グレッグは、すぐにうなずいた。
「壁の記録と、宿の仕事は別だな」
「はい。観察のために宿を困らせません」
その言葉を口にして、ソーマは少し安心した。
研究を続けるには、守るべき場所を壊さないことが先にある。
壁についても、排水についても、それは同じだった。
リナは厨房へ戻る前に、木札の雨の印へ今日の日付を書いた。隣の鍋の印は空欄のままだ。
「雨のあとに見た日。これでいい?」
「いいと思う」
「揚げ物が多い日は、別に書く。雨と同じ日にあったら、両方?」
「両方の印を付けよう。後で、どっちの影響か分からないなら、分からないまま残せる」
リナは、二つの印を並べてみた。
紙の上に、雲と鍋が並ぶ。
「ちょっと変だけど、分かるね」
「分かる方が大事」
宿の札は、工房の台帳のように細かくはない。
けれど、次の人が雨のあとに板を開け、前の日の印と比べるためには十分かもしれない。
午後の食堂では、客が雨宿りに入ってきた。
濡れた外套を掛け、温かい煮込みを頼む人たち。誰も、裏口の壁に付けた番号のことは知らない。
ソーマは、その当たり前のことを見ていた。
壁は、観察されるためにあるのではない。
人が雨をしのぎ、食事をし、眠るためにある。
だから、壁の状態を記録することも、いつかは暮らしを邪魔しない形にならなければならない。
オルグが言った「壁は皿ではない」という言葉を、ソーマはもう一度思い出した。
小片を壊して答えを探すことと、実際の壁を使いながら守ることは違う。
夕方、グレッグは裏口を一度だけ見に行った。
落ち葉はまだ二枚。水は浅鉢へ流れ、あふれてはいない。
彼は何も取り除かず、雨の札の横に小さな線を一本足した。
夕方も流れあり。
ソーマは、その線を見てうれしくなった。
自分だけが記録しているのではない。
宿で暮らす人が、必要な範囲で続ける記録になり始めている。
雨は昼まで続いた。
ソーマたちは朝の観察を終えたら宿へ戻り、仕事をする。
リナは鍋の印の札を、点検板の近くへ掛け直した。雨の印の横へ、今日の日付を記す。
グレッグは客のための仕込みを続ける。雨で水があふれないか、時々戸口から見る。
ソーマは食堂の端で、油紙から観察表を取り出した。
文字を整え、図の四つの番号へ矢印を引く。
昨日は白く見えた。
今日は濡れて灰色に見える。
地面際には泥が付いた。
端の線は、雨天では確かめにくい。
材料の答えは、何も出ていない。
それでも、雨のあとに何を見るべきかは、前より少し分かった。
午後、雨は弱くなった。
空の雲はまだ重い。地面には水たまりが残り、屋根から最後の雫が落ちている。
オルグは、壁へ近づかずに言った。
「明日は、雨が止んで壁が落ち着いてから、もう一度見る。叩くならその時だ」
「今日の紙と比べます」
「比べるのは見え方だ。良くなった、悪くなったを急いで決める必要はない」
「はい」
リナは観察表の余白へ、明日の欄を作った。
雨の翌日。
乾いたかどうか。
見た人。
同じ四か所。
「何も変わってなかったら?」
彼女が聞く。
「何も変わっていなかった、と書く」
「それも大事?」
「大事だと思う」
変わらない時間があるから、変わった時に気づける。
リナは、丸い印を一つ書いた。
変化なし。
宿で使う札と同じように、短くて分かる言葉だった。
夕方、ソーマは私的な余白へ書いた。
雨が降ると、すぐ壁を守りたくなる。触りたくなる。だが、今日は見て、書いた。
その下の観察台帳には、別のことを書く。
秋雨。朝から昼。安全な時間に、グレッグ、リナ、オルグと観察。
既存壁四か所を図と照合。
一番、軒下。白い粉が見える。
二番、雨当たり。昨日より濃い灰色に見える。白い筋あり。
三番、地面際。泥跳ね増加。
四番、端の線。雨天では判断しにくい。
内部・耐久性は未確認。雨後に再確認する。
雨の後の状態を記録すれば、次に何を確かめるべきかを教えてくれる。
今日の表は、明日の表と並べるためにある。
ソーマは、その余白を残したままにした。
窓の外で、雨上がりの雫が静かに落ちた。
ソーマは、明日の欄を空けたまま、記録帳を閉じた。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。
感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。
また次話でお会いしましょう!




