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第3章 第89話 父の試料箱、再び

第3章 第89話 父の試料箱、再び


 朝、ソーマは鷹のくちばし亭の裏口を通り過ぎ、父の作業場へ向かった。


 昨日、オルグの作業小屋で見た古い壁の見本は、元の棚へ戻してある。既存壁の次の確認は、雨が降った後だ。


 だから今日は、壁を触る予定ははなかった。


 ラウゼンへ持ち帰る記録と、父が昔作った試料箱を整理する予定である。


 ダリオの作業場へ入ると、乾いた木屑の匂いがした。


 鉋の削り屑。

 古い油。

 よく乾いた板材。


 ラウゼンの工房にある灰や湿った布の匂いとは違う。ソーマが子供のころから知っている、木を削った匂いのする場所だった。


 作業台の上には、古い試料箱が置かれている。


 ソーマがラウゼンへ持っていった箱の原型だ。角は少し丸く、蓋の金具に直した跡がある。内側には小さな仕切りがあり、札を石と分けて置けるようになっていた。


「入れすぎるなよ」


 ダリオが背中を向けたまま言った。


「前にも言われた」


「前から入れすぎていたからな」


 ソーマは少し笑った。


 五歳のころ、箱はすぐ石でいっぱいになった。


 白い小石。

 赤土。

 川砂。

 何の石か分からない黒い欠片。


 札の字は曲がり、採った場所も曖昧だった。今の自分なら、試料と呼べないものばかりだ。


 それでも、あの箱がなければ、最初の白い石に気づかなかったかもしれない。


 父が箱を作ってくれた日のことを、ソーマはぼんやり覚えている。


 雨が続いたあとだった。ソーマは泥のついた手で、白い石と赤い土を一緒の布へ包み、宿の棚へ置こうとしていた。


 ダリオは、その布を見てソーマに作ることを決めた。


 そして翌日、余った板で小さな箱を作った。


 ふたを開けると、仕切りがある。


「石はここ。紙はここ」


 父はそれだけ言った。


 当時のソーマには、仕切りの意味がよく分からなかった。石が入るなら、一つの大きな箱でもよいと思った。


 それでも、父が作った箱へ石を置くと、拾ったものがただの拾い物ではなくなった気がした。


 ソーマは、作業台の端へ三つの札を置いた。


 由来が確認できるもの。

 由来が分からず、開けないもの。

 記録だけ残すもの。


「今日は、箱を開けないのか」


 ダリオが尋ねる。


「開けないよ。古い包みの中には、粉になっているものがあるかもしれないし、今ここで確かめると、札も中身も混ざるかも」


 箱の中には、古い紙包みがいくつか残っていた。


 外側に書かれた文字は薄れている。


 白い石、川のそば。

 泥のかたまり。

 何かが熱くなったあと。


 今なら、最後の包みが何を指すのか気になる。けれど、気になるからといって開けてよいわけではない。


 ソーマは、傷んだ紙包みの外へ新しい紙を重ね、開封しない札を添えた。


 由来不明。内容物未確認。家では開封しない。工房で判断する。


「家には置いておかないのか」


 父が言う。


「置かないよ。粉かもしれないから、工房へ戻すまで箱に入れたまま運んで、戻ってからはっbだんするよ」


「この箱は使わないのか?」


「ありがとう。安全な石と、札と、に使う」


 ダリオはうなずいた。


 ソーマは、古い箱の中身を三つへ分けた。


 場所が読める小石は、父の箱へ残す。古い札も、読みにくいが一緒に置いた。


 中身が分からない包みは、開けずに外袋と札を付け、ラウゼンの工房へ戻す準備をする。


 紙にしか残っていない失敗の記録は、記録帳へ写す。


 五歳のころの泥団子についての札が見つかった。


 文字はにじみ、日付もない。けれど、端に小さく「雨のあと、われた」と書いてある。


 ソーマは、その紙を捨てなかった。


 今の自分なら、条件が足りないと言うと思う。


 水の量も、乾く場所も、形も書かれていない。なぜ割れたかは、もう分からない。


 それでも、雨のあとに割れたものを見て、何かを書き残そうとした自分がいた。


 そのことだけは、残してよかった。


「古い札は替えないのか」


 父が聞く。


「うん残す。今の札を、横に足す」


「読みにくいぞ」


「読みにくいことも、昔の時の記録だよ」


 ダリオは、少し手を止めた。


「新しい字で書き直せば、きれいになるだろ」


「きれいにはなるけど、僕が何を知らなかったかは消えてしまう」


 父はしばらく何も言わず、やがて「面倒な考え方だな」と言った。


「フェルデ老師にも、たぶんそう思われると思う」


 ソーマが答えると、父は少し笑った。


「古い札を読むと、昔の自分が恥ずかしくならないか」


 ダリオが言った。


 ソーマは、にじんだ「雨のあと、われた」という文字を見た。


 恥ずかしい、と思うところはある。何も分からないまま、石を答えのように扱っていた。危ないことへ近づきすぎたこともある。


 けれど、捨てたいとは思わなかった。


「恥ずかしいよ。でも、あの時の僕が書かなかったら、雨のあとに何かが割れたことを思い出せなかった」


「間違っている記録でもか」


「間違っているかもしれない、記録。だから、今の札と比較できる」


 ダリオは、鉋の刃を布で拭いた。


「木でも同じかもしれんな。最初に削った板は、あとから見れば歪んでいる。だが、捨てればどこを直したか分からなくなる」


「父さんも残すの」


「残すものと、燃やすものは分ける。燃やす方を決めるのも、何が失敗だったか分かってからだ」


 ソーマは、その言葉を心の中で繰り返した。


 由来の分からない包みは、開けずに工房で判断する。


 古い札は、見せるためではなく、当時の限界を残すために置く。


 失敗を残すことと、危ないものを抱え込むことは違う。


 その違いを、今ようやく父と同じ作業台で話せた気がした。


 整理が一段落してから、ソーマは作業台の向かいへ座った。


「父さん。少し話したいことがある。聞いて」


 ダリオの手が止まった。


「ラウゼンで何かあったか」


「悪いことではないけど」


「なら、聞こう」


 父は、作業台の向かいに腰を下ろした。


 フェルデへ話すなら、観察と仮説と、次の手順で話せる。


 オルグへ話すなら、壁の見え方と、こての動きで話せる。


 リナへ話すなら、宿で使う言葉へ変えられる。


 けれど父へ話したいことは、少し違った。


 なぜ石や土を見続けたいのか。


 その答えを、ソーマはこれまでうまく言えていなかった。


「僕は、土属性です」


「知っている」


「昔は、それが少し嫌だった」


 ダリオは何も言わない。


「土属性は地味だと言われてる。土を掘る。土を寄せる。壁を固める。大切な仕事だとわかってる。でも、僕は土の中に、もっとたくさんのものがあると知ったよ」


 ソーマは、箱の中の白い小石を見た。


「石がある。砂がある。粘土がある。壁を作る土も、器を焼く粘土も、道に敷く石も、鍛冶場で使う鉱石もある」


 抽象的な言葉に逃げず、見てきたものを一つずつ言う。


「僕は、それを見分けて、記録して、人が使える形にしたい」


 父は、静かに聞いている。


「オルグさんが、壁を使う人のために。グレッグさんが、排水を点検する人のために。リナが、宿の人へ伝える札を作れるように」


 ソーマは、少し息を吸った。


「白い石の材料も、まだ完成していない。でも、雨や水に困る場所で役に立てる材料を目指したい。使う人が怪我をしないように、札や手順まで一緒に作りたいんだ」


「そうか」


 父の返事は、いつものように短かった。


 ソーマは続ける。


「僕だけが分かるものにしたくないんだ」


 ダリオは、しばらく黙っていた。


 五歳のころ、土属性だと分かった日。ソーマは少し暗い顔をしていた。父は励ます言葉を見つけられなかった。


 だから、箱を作った。


 拾った石を、捨てずにしまえる場所を渡した。


「ソーマ」


「はい」


「俺には、お前の言うことの全部は分からん」


「はい」


「だが、泥遊びだけではないことは、前から分かっていた」


 ソーマの目が少し揺れた。


「箱を作った時も、何を集めているのかは分からなかった。ただ、集めたものを捨てろとは言いたくなかった」


 父は、言葉を探しながら続ける。


「分からないものでも、お前が大事そうにしているなら、しまう場所くらいあっていいと思った」


 ソーマはうつむいた。


「すごく、役に立ったよ。ありがとう」


 声が少し震えた。


「父さんが箱を作ってくれなかったら、最初の石も、裏口の泥も、僕は忘れていたと思う」


 ダリオは、木屑を払うふりをして視線を外した。


「役に立ったならよかった」


 ソーマは、目元を押さえた。


 今の気持ちは、旅の余白へ短く残すつもりだった。


 父は止めなかった。


 午後、ダリオは新しい仕切りを一枚作った。


 固形の石と札がぶつからないようにするための、薄い木板だ。父は箱の内側にある細い溝へ、その板を差し込んだ。


「札はここへ挟め」


「石と一緒に包まない方がいい?」


「帰るころには、紙が破れる」


 ソーマは、昨日採った自然落下の白い小石の札を、その溝へ挟んでみた。


 紙は石に触れず、箱を傾けても大きく動かない。


 小さな工夫だった。


 けれど、採取場所を忘れないためには、石と同じくらい大切だった。


「父さんは、最初からこういうことを考えていたんだ」


「お前が何でも一緒に入れるから、後で困らないようにしただけだ」


 父らしい答えに、ソーマは笑った。


 囲い、札、回収箱。


 ラウゼンで覚えたものも、きっと同じ考えの先にある。


 困る前に、困らない形を作る。


 夕方、父の試料箱は少しだけ整った。


 由来を読める固形の石。

 古い札。

 工房で確認するための、包み。


 開封しない包みは、ソーマがラウゼンへ戻る荷へ入れ、帰着後にフェルデへ相談する。


 箱の外側にも、小さな札を結び付けた。


 家庭で開封しない包みあり。

 帰着後、工房の隔離保管へ。


 父がその札を見て言う。


「箱を開ける前に読める方がいい」


「はい。中の札だけだと、開けた人が先に中身を見るかもしれない」


 危ないかもしれないものを、箱の中へしまっただけでは足りない。


 触る前に止まれる言葉を、外に置く。


 リナが作った注意札と同じ考えだった。


 村で見た壁の図と、雨のあとに書き込む観察表も、箱とは別の紙筒へ収めた。


 試料と記録を混ぜない。


 家庭と工房の役割を混ぜない。


 ソーマは箱の蓋を閉じた。


「父さん。ラウゼンへ戻ります。王都へ行くこともあるかもしれません」


「心配はする」


「はい」


「だが、止める理由にはならん」


 その言葉に、ソーマは深く頭を下げた。


「帰ってきます」


「箱を重くしすぎるな」


「はい」


「危ないものを家へ置くな」


「はい」


 ダリオは、それ以上言わなかった。


 夜、ソーマは私的な余白へ一行だけ書いた。


 父は、分からないものを捨てろと言わなかった。


 それから試料台帳へ、別のことを書いた。


 父の試料箱を再整理。

 由来確認済みの固形試料と、古い札を保存。

 由来不明の包みは開封せず、外袋と札を追加。

 危険性不明のものは家庭に保管せず、工房で判断する。

 次の雨後、村の壁四か所を再確認する。


 箱は、ただの箱ではなかった。


 何を残し、何を開けずに持ち帰るかを、次の自分へ渡すための箱だった。


最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

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