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第3章 第86話 鷹のくちばし亭の裏口

第3章 第86話 鷹のくちばし亭の裏口


 鷹のくちばし亭の看板をくぐると、厨房から玉葱を炒める匂いが流れてきた。


 ラウゼンを出てから、約半年ぶりだった。


 工房の煤や、乾いた木箱の匂いとは違う。薪の煙と、湯気と、人が暮らしている場所の匂いだ。


 馬車が宿の前へ止まると、ユーリが先に降りて、空に近い試料箱を荷台から下ろした。中にあるのは記録帳、札、鉛筆、道中で拾った自然落下の小石一つだけである。


 ソーマが地面へ足をつけたとき、裏口へ続く小道から声がした。


「ソーマ!」


 リナが駆けてきた。


 エプロンを着け、片手には濡れた布巾を持っている。走ったせいで髪が少し頬にかかり、彼女は数歩手前で止まった。


 ソーマも、すぐには言葉が出なかった。


 手紙でしか知らなかった半年が、目の前に立っている。


 少し背が伸びたように見える。宿の仕事をする人らしい落ち着きがある。それでも、驚いたときに目を丸くするところは、昔と同じだった。


「ただいま」


 ようやく出た言葉は、あまりに普通だった。


 リナの目元が揺れる。


「……おかえり」


 声が少し震えていた。


 彼女は泣くつもりではなかったのだろう。濡れた布巾で目元を拭きそうになり、途中で手を止めた。


 ソーマも笑おうとしたが、うまくいかなかった。


「リナ」


「本当に、帰ってきたんだね」


「うん」


「手紙では分かってた。でも、会うのは全然違う」


「僕もそう思う」


 リナは、抱きつく代わりに、ソーマの袖をそっとつかんだ。


 離れていた時間を、すぐに埋める言葉はなかった。


 だから二人は、少しのあいだ黙って立っていた。


 リナの指先は、以前より少し荒れて見えた。皿を洗い、野菜を切り、宿の手伝いをしてきた手なのだろう。


 ソーマは、そのことを口にするのをためらった。働いていたね、と言えばいいのか。手が荒れたね、と言えばいいのか。どちらも少し違う気がする。


「手紙にあった料理、まだ作ってる?」


 代わりにそう聞くと、リナは涙をぬぐって笑った。


「作ってる。今日はまだ秘密」


「秘密?」


「帰ってきた人に出すものだから」


 その言葉に、ソーマの胸の奥がゆっくり温かくなった。


 ラウゼンでは、新しく覚えたことが多い。測ること。待つこと。分からないものを、分からないまま札に残すこと。


 けれど、この場所には、変わらず置いておける時間もあるのだと思った。


「ラウゼンは、どうだった?」


 リナが聞いた。


「人が多くて、道も多くて、失敗も多かった」


「楽しかった?」


 ソーマはすぐには答えなかった。


 楽しかった日もあった。粉を前にして困った日も、結果が出なくて眠れなかった日もある。フェルデに短く叱られ、ナーシャの言葉に助けられ、セラの札に何度も救われた。


「楽しかった。難しかったけど」


「そっか」


 リナは、それ以上詳しく聞かなかった。


 聞きたいことは、きっとまだたくさんある。けれど、今ここで半年を全部話す必要はないと、彼女も分かっているようだった。


 グレッグが宿の中から顔を出したのは、その後だった。


「おう。帰ってきたな」


「ただいま戻りました」


「飯はあとでいい。裏口を見るんだろ」


 ソーマが驚くと、グレッグは笑った。


「お前が帰ってきて最初に気にするのは、だいたい分かる」


 リナも、小さくうなずいた。


 裏口は、五歳のころにソーマが泥と水の流れを見続けた場所だ。けれど、遠い過去の場所ではない。ラウゼンへ発つ朝まで、毎日そこを通っていた。


 今も、宿の暮らしのそばにある。


 ソーマは試料箱を宿の中へ置き、記録帳と札だけを持って裏へ回った。


 点検板は、以前と同じ位置にあった。


 板そのものは新しくなっている。端は持ち上げやすく削られ、周囲には泥が入りにくいよう小さな縁が付けられていた。


「前の板が傷んだから、父さんが作り直したの」


 リナが言う。


「位置は変えない方がいいって、オルグさんが言ったの」


 ソーマは板を見下ろした。


 物は交換されている。


 けれど、点検する場所と、雨のあとに開ける習慣は残っている。


 それがうれしかった。


「開けてもいい?」


「もちろん」


 ソーマは、先に記録帳を開いた。


 日付。

 天気、薄曇り。

 前日の雨、なし。

 確認者、ソーマ、リナ、グレッグ。

 目的、裏口の排水と壁の外観確認。


 そこまで書いてから、グレッグが板を持ち上げた。


 中には、薄い泥がたまっていた。


 浅鉢の縁には小さな欠けがある。枝の柵は以前より新しい。浸透ますの上には、細かな泥が残り、表面の一部に光を反すじのようなものが見えた。


 揚げ物のあとに出た水が残ったのかもしれない。雨水に混じった別のものかもしれない。今見えるのは、泥と、薄く光る跡だけだ。


 記録帳には、こう書いた。


 点検板、交換済み。位置は以前と同じ。

 浅鉢の縁に小欠け。

 浸透ます上部に細かな泥。

 表面に薄い光沢の跡。

 水のたまりは見えず。前日の雨なし。

 原因は未確認。


「揚げ物の日のあと、ここが少し光ることがあるかも」


 リナが言った。


「次に、雨の後と揚げ物の日の後で、別に見てみよう」


「札を作る?」


「雨の印と、鍋の印でいいかもしれない」


 リナはすぐ笑った。


「トマでも分かる」


「聞こえてるぞ」


 宿の中から声が飛び、グレッグが声を立てて笑った。


 点検板の下を、ソーマは勝手に直さなかった。


 今、流れを変えれば、今日の状態が分からなくなる。危険な詰まりがあるわけでもない。通常の掃除はグレッグたちの仕事として続け、ソーマは変更前の状態を図に描く。


 浅鉢の欠け。

 泥のたまる位置。

 枝の柵のすき間。

 浸透ますの上の跡。


 五歳のころの図よりは、少しまっすぐ線が引ける。


 それでも、測っていない深さや、見えない下の方は空白のままだ。


 グレッグは、ソーマが図を描く横で、普段の掃除の仕方を説明した。


「雨が強かった翌日は、朝の仕込みの前に板を開ける。泥が浅鉢の半分より上まで来ていたら、俺かトマが掻き出す。そこまでじゃなければ、札だけ見て次の雨まで置く」


「半分より上、ですか」


「昔は、何となく決めてた。お前が札を置いてからは、みんなでそう決めた」


 ソーマは、図の脇にその言葉を書いた。


 これは材料の試験ではない。宿の人たちが、水をあふれさせないための普段の仕事だ。


 決めた線より泥が高ければ、掻き出す。

 低ければ、次の雨まで様子を見る。


 その程度の手順でも、続ける人がいれば、水の流れは変わる。


「ラウゼンでも、札ばっかり増えてるんだろ」


 グレッグが言った。


「増えてます」


「なら、ここに一枚増えても変わらん」


 そう言って、彼は古い木片に、雨の印と鍋の印を刻み始めた。雨のあとに見た日と、揚げ物の多かった日のあとに見た日を、宿の者が分けて書けるようにするためだ。


 リナが、木片を受け取った。


「字が読めない人には、こっちの方がいいね」


「うん。何を比べる札か、絵だけで分かる」


 ソーマは、自分の記録帳とは別に、宿の人たちが使うための札があることをうれしく思った。


 読みやすい記録は、正確な言葉だけでできているわけではない。


 使う人が、迷わず続けられる形にもなる。


 次にオルグと見たのは、宿の壁だった。


 雨が当たりやすい場所。

 軒下。

 地面に近いところ。

 端が少し浮いて見える場所。


 ソーマは場所ごとに小さな札を置き、全体図へ番号を振った。


 軒下の一部には、白っぽい粉が表面に残っている。雨が当たる下の方は、灰色を帯びて見えた。地面際には泥が跳ね、端の一か所は、少し浮いているように見える。


 オルグは壁を指先で軽く叩いた。


 場所によって、返る音が少し違う。


「耳も使え」


「はい」


「白い。灰色。粉が落ちる。音が違う。今日は、それだけを書け」


 ソーマはうなずいた。


 灰色の方が強い。

 白い方が弱い。


 そう書きたくなる気持ちを、押さえる。


 色と音の違いは、壁としての良し悪しを決めない。表面が締まって見えても、内側がどうなっているかは分からない。工房で学んだ「硬そうに見えることと、壁として持つことは別だ」という言葉が、頭に浮かんだ。


 オルグが、浮いて見える端を指した。


「ここには、すでに外れかけた小片がある。持ち帰るなら、それ一つだけだ」


「まだ使える部分は削りません」


「それでいい」


 ソーマは木匙で、落ちかけていた小さな欠片を一つだけ受け取った。


 壁へ力をかけない。

 新しい場所を削らない。

 欠片は紙へ包み、すぐ札を付ける。


 鷹のくちばし亭裏口の壁。

 雨当たりの下部、端の浮き。

 オルグ確認のもと、自然に外れかけた小片一つ。

 採取日。未処理。工房へ戻るまで開封しない。


 欠片の表面には、白と灰色が混じっている。細い繊維のような跡や、小さな粒も見える。


 それが何なのかは、今決めない。


 藁なのか。

 砂なのか。

 古い補修の跡なのか。


 土魔術で読めば、もう少し感じることができるかもしれない。だがソーマは術を使わず、目で見えることだけを札へ追加した。


 白灰色が混在。細い繊維状の跡あり。小粒が見える。成分、硬化理由は未確認。


「ラウゼンでは、どうだった」


 オルグが聞いた。


「小さな片で、覆いをしたものとしないものを比べています。覆いをした片の方に、線が少ないように見えたことがあります」


「答えは出たか」


「出ていません。同じように見えるか、もう一度確かめるところです」


 オルグは、そこで少しだけうなずいた。


「なら、ここも同じだ。雨の後にもう一度見る。今日の色と音を覚えておく」


「はい」


 次の雨の後、見る場所を四つ決めた。


 軒下の白い粉。

 雨当たりの灰色部分。

 地面際の泥跳ね。

 浮きの見える端。


 新しい壁材を塗ることはしない。

 白い粉を作ることもしない。


 ただ、雨の後にどう見えるかを、今日の図と比べる。


 それが、村で今できる観察だった。


 オルグは、ソーマの図を指でたどった。


「番号を振ったなら、次に見る時も同じ番号で呼べ。雨が当たる壁、なんて言い方じゃ、後でどこを見たか分からなくなる」


「一番は軒下。二番は雨当たり。三番は地面際。四番は端の浮きです」


「よし。次の雨の後、俺が先に見たら、番号と見えたことだけ残しておく」


 ソーマは、図の下へ観察表を作った。


 日付。

 前日までの雨。

 見た人。

 色。

 粉が落ちるかどうか。

 見えるひび。

 打診の音についての短いメモ。

 触れていない場所。


 項目が増えすぎないよう、他の欄は作らなかった。


 今の壁で知りたいのは、雨の後に見え方がどう変わるかである。壁の中の成分や、どこまで丈夫かを、ここで書く欄はない。


「工房の紙みたいだな」


 オルグが言う。


「工房の紙より、ずっと簡単です」


「簡単で続くなら、それでいい」


 その言葉を聞いて、ソーマはラウゼンのセラを思い出した。必要な欄だけを残し、分からないことを空白のままにする字。


 遠い工房で作った手順が、故郷の壁を眺めるための紙にもつながっている。


 それは、少し不思議で、うれしかった。


 リナは、四つの番号を紙へ写した。


「雨の印の札と一緒に、ここへ書けばいい?」


「うん。見たことだけでいい」


「壁を直したくなったら?」


「オルグさんに相談してから。今は、勝手に材料を足さないでおきたい」


 オルグは、それを聞いて短く鼻を鳴らした。


「帰ってきても、少しは待てるようになったらしい」


 ソーマは、少し恥ずかしくなった。


「ラウゼンで、待たないと何も分からなくなることを覚えました」


「壁は待ってくれない時もある。だが、待てる時に待たない職人は、もっと早く壊す」


 それは叱る言葉ではなかった。


 工房のフェルデが言う慎重さと、オルグが言う職人の勘は、少し違うようでいて、同じところを指しているのかもしれない。


 ソーマは、壁を見上げた。


 秋の光の中で、白い部分も灰色の部分も、今、答えをくれることはない。


 だから、次の雨まで残しておく。


 見えたことも、分からなかったことも。


 昼前、ダリオが裏口へ来た。


 父は、ソーマが持っている小さな紙包みを見た。


「増えたか」


「一つだけです」


「箱は使っているか」


「はい。でも場所が分からないものは入れないようにしています」


 ダリオは、少しだけ目を細めた。


「それなら、箱も役に立ってる」


 短い言葉だった。


 けれど、父が昔作ってくれた箱へ、今日は札の付いた小片が一つ入る。五歳のころのように、何でも詰め込む箱ではない。


 問いを持ち帰るための箱になっていた。


 父は試料箱のふたを一度閉め、それからまた開いた。


「札は、ここにまとめると折れる」


 そう言って、箱の内側の細い溝を指した。昔は何のためにあるのか分からなかった溝だ。父は、薄い紙を挟めるように作ったのだと言った。


「石と札を同じ袋に入れると、帰るころには読めなくなる」


「ラウゼンでも、同じことを言われました」


「そうか」


 ダリオは、少しだけ笑ったように見えた。


 ソーマは札を溝へ挟んでみた。紙は石に触れず、箱を傾けても大きく動かない。


 小さな工夫だった。


 けれど、採取した場所を忘れないためには、石そのものと同じくらい大切だった。


「父さんは、最初から知ってたんですか」


「何をだ」


「箱が、石だけを入れるものじゃないこと」


 ダリオはすぐには答えなかった。


「知ってたわけじゃない。お前が何でも拾ってくるから、後で困らないようにしただけだ」


 ソーマは、その答えが父らしいと思った。


 大きなことは言わない。


 だが、困る前に箱を作る。


 ラウゼンで覚えた囲い、札、回収箱も、きっと同じような考えの先にある。


 先に困らない形を作る。


 その形があれば、知らないものを前にしても、少し落ち着いて見られる。


 夕方、ソーマは宿の裏口の図を仕上げた。


 点検板。

 浅鉢。

 浸透ます。

 壁の四つの観察場所。

 採取した小片の位置。


 図の端には、次の雨の後に再確認する、と書く。


 私的な余白には、別に短く書いた。


 リナと再会。泣いた。

 宿屋の裏口は、今も使われていた。

 点検する習慣が残っていたことが、うれしい。


 研究の記録と、帰ってきた気持ちは混ぜない。


 けれど、どちらもソーマにとって大切だった。


 秋の夕方の光が、裏口の壁を淡く照らしていた。


 白っぽく見えるところ。

 灰色に見えるところ。

 泥に汚れたところ。


 どれも、まだ答えではない。


 ソーマは紙包みを試料箱へしまい、札をもう一度確かめた。


 次の雨を見てから、工房へ持ち帰る。


 今は、それで十分だった。


最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

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