第3章 第85話 帰る道の土
第3章 第85話 帰る道の土
ラウゼンの朝には、秋の気配があった。
ただし、ソーマが工房を出るまでには、少し時間がかかっている。
手紙は、フェルデの確認を受けてから村へ送られた。父からは、白い粉には誰も触れていないこと、雨のあとに宿屋裏の点検板へ泥がたまりやすいと返事が返ってきた。
オルグからは、雨の当たる壁と軒下の壁で、ひびの見え方が違うという短い返事があった。けれど、新しく壁を削ったり、白い石を焼いたりはしていない。
それを読んでから、フェルデはソーマへ言った。
「行ってこい。ただし、答えを見つけようとするな」
「観察をしに行きます」
「未処理の粉は持ち出さない。村で新しい配合は作らない。崩れそうな場所へ近づかない。気になるものは、まず札に書け」
「はい」
同行するのは、ユーリだった。
荷運びに慣れ、危ないところへ一人で行かせない役目でもある。ユーリ自身は「見張り役だ」と軽く言ったが、ソーマにはその役がありがたかった。
工房に残る養生の一組は、セラとメイナが決めた時刻に観察を続ける。ソーマがいない間も、覆いをした片としない片の記録は止まらない。
帰郷は、故郷にしかない壁と雨の跡を、壊さずに見るための短い旅だった。
馬車の後ろへ積んだのは、父からもらった古い試料箱と、記録帳、衣服、札、鉛筆だけだった。
白灰の粉は入れていない。
養生中の片も、乾いた試験片も入れていない。
配合の紙も、工房の保管棚に残そた。
試料箱は空に近かった。
「箱が軽いな」
ユーリが、荷台の紐を確かめながら言った。
「まだ持ち帰るものがあるか、分からないから」
「石を見つけても、何でもかんでも入れるなよ」
「分かってる」
「その返事は、前にも聞いた」
ソーマは苦笑した。
以前なら、道ばたの石を見つければ、すぐ箱へ入れていたかもしれない。今は、入れる前に、どこにあったか、何と一緒にあったか、触れてよい状態かを考える。
分からないものを集めることと、分からないものを試験へ入れることは違う。
街門を抜けると、石畳は土の道へ変わった。
ラウゼンの近くの道端は、乾くと黒っぽく見える。工房街の煤や、人や馬車が運んだ細かな土が混じっているのだろう。
ソーマは、馬車を止めて採ったりはしなかった。
記録帳に、見えることだけを書いた。
ラウゼン近郊。道端は黒褐色。乾いた場所では細かな粉が舞う。雨の跡には、低い場所へ色の濃い泥が集まる。
「土を取らないのか?」
ユーリが聞いた。
「今日は、この道の土を比べる試験をしない。採っても、洗うか乾かすか、どこで保管するかが決まってない」
「見たことは書く」
「見たことだけなら、後で村の道と比べられるかもしれない」
土魔術は使わなかった。
指先で読めば、土が重いとか、細かな粒が多いように感じることはある。だが、その感覚から金属や成分の名を付けてしまえば、記録は先走る。
今は目で見える色と、水の流れた跡だけでよい。
街を離れるほど、土は黄褐色へ変わっていった。
畑のそばでは、風が麦の穂を低く揺らす。昼には、休憩所で黒パンとチーズを分けた。
「食べながら土を見るのは、故郷でもやるのか?」
ユーリが言う。
「前は、そこまで見てなかった」
「今は?」
「見えるものが増えた。だから、全部拾いたくなる」
「拾わない方も増えたな」
その言葉に、ソーマはパンを持ったまま笑った。
ラウゼンで学んだのは、石の見分け方だけではない。
試験へ入れないものを、試験へ入れないままにすること。
触れない方がよいものを、触れずに記録すること。
それもまた、材料を扱うための技術だった。
夕方、丘陵地へ入ると、風が冷えた。
宿場で温かい根菜の煮込みを食べながら、ソーマはリナの手紙を思い出した。
帰ったら、何か作る。
その一文を思い出すたび、胸の奥が少し固くなる。
自分は変わった。
記録の取り方も、粉を前にしたときの手つきも、前より慎重になった。背も伸びた。ラウゼンには、助けてくれる人もできた。
けれど、故郷へ帰れば、リナは何を見るのだろう。
石を拾っていた昔のソーマか。
工房の弟子になった、今のソーマか。
「緊張してるな」
ユーリが言った。
「分かる?」
「土の話をしてる時より、手紙を見てる時の方が顔が固い」
ソーマは少し迷ってから、うなずいた。
「帰るのに、緊張するとは思わなかった」
「帰る場所があるからだろ」
「そういうもの?」
「知らない。俺は荷運びだから、行く先の方が多い」
軽い言い方だったが、ユーリはそれ以上ふざけなかった。
その夜、ソーマは記録帳の旅の余白へ、短く書いた。
村へ近づくにつれ、懐かしさと不安がある。観察の目的を忘れない。
これは実験の記録ではない。
次に父やリナへ何を話すかを、自分の中で整えるための私的なメモだった。
翌朝、空は薄く曇っていた。
街道の脇の土は、昨日より赤みを増している。雨が流れた細い溝があり、崖の下には白い小石が自然に落ちていた。
ユーリが、先に馬車を止めた。
「崖には近づくな」
「近づかない」
ソーマは道から離れず、足元に落ちている小石だけを見た。
白いものが一つ、赤土の上にあった。欠けた面には灰色の筋がある。崖からいつ落ちたのか、誰かが運んできたのか、そこまでは分からない。
ソーマは布越しにその小石を拾った。
箱へ入れる前に、札へ書く。
故郷手前の赤土崖下。道の端。自然に落ちた小石一つ。白色、灰色の筋あり。採取日。未処理。工房に戻るまで開封しない。
「一つだけ?」
ユーリが言った。
「一つだけ。崖の石を代表するとは言えないけど、後で観察するための別枠試料にはできる」
「焼くとか、水をかけるとかは?」
「工房へ戻って、札を読んでから考える。今はしない」
土魔術で石の中を確かめたい気持ちもあった。
けれど、感じたことを成分や反応の名に置き換えるのは、今の自分には早い。見た目と採取場所を残せば、後から別の石と比べられる。
箱を閉じると、ソーマは少しだけ昔の自分を思い出した。
五歳のころ、白い石を見つけるたびに、答えを見つけたと思っていた。
今は、その石が問いの始まりにすぎないと知っている。
昼を過ぎると、遠くに見覚えのある屋根が見えた。
村の外れ。
畑。
低い石垣。
川へ下りる道。
ラウゼンの工房街の煙とは違う、薪の匂いが風に混じる。
ソーマは外套の前を整え、試料箱の札が外れていないか確かめた。白い粉は持っていない。それでも、故郷の人へ会う前には、工房から持ってきた匂いや汚れを付けていないか気になった。
「大丈夫だ」
ユーリが言った。
「何が?」
「札も箱も、外套も。お前が気にしてるもの全部」
ソーマは、少し笑った。
村へ入る道の端には、赤みを帯びた土が残っている。雨の跡には細かな泥が集まり、宿屋へ続く方角へ薄く流れていた。
ここから先は、父とオルグに聞いた場所を、一緒に見る。
雨の当たる壁。
軒下。
地面に近いところ。
宿屋裏の点検板。
すぐに壁を触ったり、石を集めたりはしない。
まず、再会して、話を聞く。
誰かがソーマの名を呼んだ。
まだ姿は見えない。けれど、その声だけで胸の奥が強く鳴った。
帰ってきた。
そう思った。
空に近い試料箱と、新しい記録帳を抱えて。
ラウゼンで覚えた慎重さを、故郷の道へ持ち帰るために。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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また次話でお会いしましょう!




