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第3章 第87話 リナの涙と白い粉

第3章 第87話 リナの涙と白い粉


 翌朝、鷹のくちばし亭の厨房から、玉葱を炒める甘い匂いがした。


 薪のはぜる音。

 鍋の底を木べらがなでる音。

 食器が棚で触れ合う小さな音。


 ラウゼンの工房で聞いていた炉のうなりや、金属を打つ音とは違う。ここでは、朝が食べ物の匂いを連れてくる。


 ソーマは食堂の端の席で待っていた。


 記録帳は試料箱の中にしまってある。昨日、裏口の点検板と壁を見た。書くべきことは多い。


 けれど、今朝はリナが「食べる係」と決めた。


 だからソーマは、何も書かずに座っていた。


「まだ見ないでね」


 厨房からリナの声がする。


「見ないよ」


「本当に?」


「本当に」


 そう答えると、向こうで小さく笑う気配がした。


 昨日の再会では、二人とも泣いた。泣いたあとに、どんな顔で普通に話せばよいのかは、まだ少し分からない。


 けれど、鍋の匂いがあるだけで、黙っている時間も前ほど怖くはなかった。


 やがてリナが皿を運んできた。


 根菜と鶏肉の煮込み。

 香草を少し入れた卵焼き。

 薄く切った黒パン。

 小さな器に入った林檎の蜜煮。


 特別な祝宴ではない。


 けれど、蕪は同じくらいの大きさに切られ、卵焼きは焦げすぎず、林檎は形を残している。


「手紙に書いたから」


 リナは皿を置きながら言った。


「帰ってきたら、何か作るって」


「覚えてる」


 ソーマが答えると、リナは少しだけ肩の力を抜いた。


 煮込みを口に運ぶ。


 温かい。鶏の味と玉葱の甘さが、静かに混ざっている。蕪はやわらかいが、崩れてはいない。


「おいしい」


 リナがすぐ顔を上げた。


「本当?」


「うん。僕、こういう煮込みが好きだ」


 昨日なら、肉のやわらかさや香草の強さを、材料の観察のように言っていたかもしれない。


 今朝は、まずおいしいと言えた。


 リナは一度目を伏せ、それから笑った。


「よかった」


 その笑顔を見ると、ソーマの胸の奥にあった固さが少しほどけた。


 食べながら、リナはラウゼンのことを聞いた。


 ナーシャが水のことを話すとき、どんな顔をするのか。

 セラの札は、本当にそんなにきれいなのか。

 ユーリは、荷物を運ぶ以外に何をしているのか。


 ソーマは、一つずつ答えた。


 全部を急いで話さない。


 リナが知らない半年を、短い言葉で埋めようとしても無理だからだ。


「ソーマ、前より少し話す前に考えるようになった」


 リナが言った。


「そうかな」


「うん。前は、分かったことをすぐ言ってた」


「今は、分かったと思ったことを、少し待つようにしてる」


「工房で教わったの?」


「何度も失敗したから」


 その答えに、リナは笑った。


「それは前と同じかも」


 ソーマも笑った。


 失敗しても、次に何を試すかを考える。


 そのところは、五歳のころからあまり変わっていないのかもしれない。


 食事のあと、二人は裏口近くの小さな作業台へ移った。


 ソーマは昨日描いた裏口の図と、空の木札を並べた。


「今日は、これを一緒に作りたい」


 リナは、木札を見た。


「雨の印と、鍋の印?」


「うん。雨のあとに点検板を見た日と、揚げ物の多い日のあとに見た日を分ける札」


「昨日の話の続きだね」


「それから、もう一枚」


 ソーマは、何も書いていない木札を一枚置いた。


「白い粉や、変わった欠片を見つけた時の札」


「白い粉を、ここで使うため?」


「違う。使わないため」


 リナは、少しだけ真剣な顔になった。


 ソーマは、言葉を選んだ。


「工房でも、白っぽい材料には、まだ分からないことが多い。だから、村で見つけても砕かない。水をかけない。子供が触らないようにして、場所を大人に知らせるために」


「ソーマか、父さんに?」


「うん。それかオルグさん。誰かが勝手に試さないように」


 危険の理由を細かく説明しない。


 水をかけたらどうなるかも、粉を吸うとどうなるかも、ここでは言わない。


 試したくなるほどの知識を渡すより、まず触らない行動を残す方が大切だった。


 リナは木札を手に取った。


「文字だけだと、急いでる人は読まないね」


「うん」


「白い丸に、手を近づけない絵はどう?」


「分かりやすいと思う」


「水をかけない絵もいる?」


「いる。でも、水滴だけだと、雨の日に外へ置くな、にも見えるかもしれない」


 二人は、木札の上でしばらく考えた。


 リナは白い丸を描き、その脇に小さな手を描いた。手の上から太い線を引く。次に、水差しではなく、器から液体を注ぐ形を描き、その上にも線を引いた。


「これなら、触らない。かけない。が分かるかな」


「分かる」


「『見つけた場所を知らせる』は、絵にしにくい」


「矢印を宿の印へ向ける?」


「それ、いい」


 リナは木札の端に、小さな鷹のくちばし亭の看板を描いた。


 見つけたものへ手を出さず、宿の人へ知らせる。


 細かな説明より先に、次の動きが分かる札になった。


「リナは、伝えるのが上手いね」


 ソーマが言うと、リナの手が止まった。


「そう?」


「僕は理由を全部書きたくなる。でも、宿で使うなら、忙しい人が一目で分かる方がいい」


 リナは少し頬を赤くした。


「宿だと、説明を最後まで読んでもらえないから」


「それも大事な知識だと思う」


 ソーマが真面目に言うと、リナは困ったように笑った。


「嬉しいけど、くすぐったい」


 少しの沈黙が落ちる。


 昨日から、二人の間には言いたいことが多い。


 でも、どこから話せばいいのかは分からない。


 リナが先に口を開いた。


「壁の材料を送ってくれなかったの、少し寂しかった」


 ソーマは顔を上げた。


「ごめん」


「責めてるわけじゃない。危ないから、送らなかったんだって分かってる」


 リナは木札の角を指でなぞった。


「でも、私はもう、藁を切るだけの子じゃないのにって、少し思った」


 その言葉に、ソーマはすぐ返せなかった。


 リナが昔、藁を切ってくれたことを覚えている。


 大事な思い出だった。


 けれど大切に思うあまり、リナをその頃の姿のまま見ていたのかもしれない。


 今のリナは、厨房で働き、宿の人が迷わない札を考え、裏口の点検も見ていた。


「リナが今できることを、僕がちゃんと見てなかった」


 ソーマは言った。


「ごめん」


 リナは首を横に振った。


「私も、ソーマが変わったことを、少し怖がってた」


「怖い?」


「ラウゼンで、知らない人たちと一緒にいて、弟子になって、私の知らない言葉を使うようになったから」


 ソーマは、胸の奥が少し痛くなるのを感じた。


「遠くに行ったみたいで?」


 リナは、ゆっくりうなずいた。


「嬉しいのに、少し遠い」


 その言葉を聞き、ソーマは昨日の帰り道を思い出した。


 自分も、戻ってきたらどう見られるかが怖かった。


 変わったことを見せたい。

 変わったことで、前のように見てもらえなくなるのは怖い。


 それは、リナだけの気持ちではなかった。


「僕も、リナが走ってきた時、何を言えばいいか分からなかった」


「ソーマでも?」


「うん」


「いつも、考えてから話すのに」


「再会については、何も考えてなかった」


 リナは笑いかけて、目元を押さえた。


 涙がまた少しだけこぼれた。


 ソーマは、昨日のように慌てて何か言おうとはしなかった。


 ただ、作業台の端にあった乾いた布を、そっと差し出した。


 リナは受け取り、目元を押さえる。


「変わったね」


「いい方に?」


「うん。たぶん」


 その「たぶん」が、リナらしかった。


 昼前、グレッグが裏口へ出てきて、新しい札を見た。


「雨の印と鍋の印は分かる。こっちは何だ?」


「知らない白い粉や欠片を見つけた時の注意です」


 ソーマが答える。


「使う札か?」


「使わないための札です。見つけても、触らず、かけず、宿の人に知らせる」


 グレッグは木札を見直した。


「それなら、物置の外に一枚あればいい。厨房には要らん。白い粉を厨房へ持ち込まないんだからな」


「はい」


 その言葉で、札の置き場所が決まった。


 物置の外に、未知の材料への注意札を一枚。

 点検板の近くに、雨と鍋の印を一枚。


 それ以上は増やさない。


 札が多すぎれば、誰も見なくなる。必要な場所に、必要なだけ置く。


 トマが札をのぞき込んだ。


「これ、俺でも分かる」


「読めるだろ」


 リナが言うと、トマは肩をすくめた。


「読めても、絵の方が早い」


 ソーマは、その言葉も記録帳へ残したかった。


 けれど今は、記録帳を出さない。


 リナと一緒に作った札を、まず宿の人がどう読むかを見る方が先だった。


 夕方、木札は二枚だけ完成した。


 一枚は、点検板のそばに掛ける。


 雨の印と鍋の印の横に、見た日を残すための小さな欄がある。


 もう一枚は、物置の外に掛ける。


 知らない白い粉や欠片を見つけたら、触らず、かけず、宿の人へ知らせる。


 壁材の使い方は書いていない。


 白い粉の作り方も書いていない。


 今の村に必要なのは、新しい材料を試す札ではなく、分からない材料へ勝手に手を出さない札だった。


 リナは、掛け終えた木札を見て言った。


「これなら、私も役に立てる?」


「もう役に立ってる」


 ソーマは、今度は迷わず答えた。


「雨のあとに、どの札を見ればいいかも教えてくれた。宿の人に伝わる形にしてくれた」


 リナは少しだけ目を細めた。


「じゃあ、次の雨のあとも一緒に見るね」


「うん」


 その約束は、壁と水の流れを見る約束だった。


 夜、食堂の灯りがともるころ、リナが林檎の蜜煮をもう一皿出してくれた。


 ソーマはそれを食べながら、裏口に掛けられた二枚の木札を思い出した。


 白い粉は、まだ分からない。


 白硬材も、まだ完成していない。


 けれど、分からないものを前にして、何をしないかを一緒に決めることはできた。


 リナの涙は、昨日の再会だけの涙を意味していたのではなかったのかもしれない。


 離れていた時間も、変わったことへの戸惑いも、今日ようやく言葉になった。


 ソーマは、蜜煮の甘さをゆっくり味わった。


 明日、雨が降るかは分からない。


 それでも、次に見る場所と、一緒に見る人は決まっていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

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