第3章 第83話 養生という待つ仕事
第3章 第83話 養生という待つ仕事
乾けば固まる、という考えが浅はかだったと知るまでに、何枚もの試験片をだめにした。
早く乾けば、早く答えが出る。
そう思っていたころは、棚の風が強いことを喜んだ。白い表面が早く現れることが、試験の終わりと思っていたからからだ。
けれど、早く白くなった片ほど、後から細い線がでることが多かった。表面だけが先に変わり、内側で何が起きているのかは分からないままだった。
今のソーマは、待つことを覚えた。
水量筒一号と試作型枠は、数日の間、材料を使わずに確認を繰り返した。
筒の仮目盛りは、ぴたりと同じ量を保証するものではない。それでも、同じ人が同じ操作をしたとき、大きく違う高さにならないかを見た。型枠も、粘土片でならし方と取り出し方を二度確かめた。
どちらも完成した道具ではない。
だが、今日の一組を作るための暫定手順として使うことは、フェルデに認められた。
ソーマはその朝、作業紙の一番上に大きく書いた。
暫定手順。小片二枚。配合の優劣、強度、耐水性は判断しない。
材料は、記録のそろった熟成済み白灰と焼成粘土粉、北門脇の川砂を用いた。これが最良の配合だと決まったわけではないが、これまでの記録に由来が残っている材料だった。
水量は、水量筒一号の仮の基準線まで。
形は、試作型枠を使う。
二枚の片は、同じ日に、同じ作業者が、同じ順番で作る。
違いは、乾き始めの置き方だけだった。
一枚は、棚の上で覆いをせずに置く参考片。
もう一枚は、同じ棚の隣に置いた小さな養生箱へ入れる。箱の内側には湿らせた布を掛けるが、布は試験片に触れさせない。片は台の上に置き、水とも布とも直接触れない。
養生箱のふたには、小さなすき間を残した。
ぴたりと閉じれば、中の空気がどう変わるかも分からない。開け放てば、覆いをした意味が薄れる。すき間の大きさが最良だとは言えないが、今日は札に「ふた、指一本分のすき間」と残し、次の一組でも同じにする。
リゼットはそのすき間を見て言った。
「洗い場の補修でも、濡らした布をぴったり押しつけるより、少し離して覆うことがある。水を与えるというより、風に急いで持っていかれないようにするんだ」
「それが、この材料にも合うかはまだ分かりません」
「分からないから、二枚にしたんだろう」
ソーマはうなずいた。
乾きを急がせないための箱。
それが、今日確かめたい養生の形だった。
「養生って、待つ仕事なの?」
ナーシャが箱をのぞき込んで聞いた。
「待つだけじゃない。壊れないようする仕事」
「この子たち、お水をもらえるの?」
「水をかけるわけじゃない。箱の中が急に乾きすぎないようにする」
ナーシャは湿らせた布へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「触らないの」
「うん。布が片に触れたら、触れたことも条件になる」
リゼットが、箱のふたを持ったままうなずく。
「水を使うときは、入れた水だけを見がちだ。でも、水に直接触れさせないことも、水の扱いの一つだよ」
彼女は箱の内側の布を確かめた。布は水を滴らせていない。湿ったまま、試験片から離れた位置に掛けられている。
「濡らしすぎたら?」
「今日は、作業を始める前に湿っていることを見ただけにする。途中で勝手に濡らし直さない」
「明日、乾いてたら?」
「明日見てから、次の一組ではどうするかを決める」
今日の二枚の途中へ新しい操作を足せば、始めに違わせた「覆いの有無」以外の違いが混ざる。
ソーマは、札に記した。
参考片。棚中央。覆いなし。
養生片。棚中央の養生箱内。湿り布は非接触。
観察時刻、朝・夕。
水、土の魔術による調整なし。
十二歳になったばかりのソーマは、その札を見て少しだけ不思議な気分になった。
五歳のころなら、雨に濡れた補修材を見て、どうして崩れたのかと慌てていた。今も、答えを早く知りたい気持ちは消えていない。
だが、答えを急ぐ手を止めることは、前よりできるようになった。
それを成長と呼べるのかは分からない。
少なくとも、試験片のそばで何もしない時間にも、守るべき作業があるとは思えるようになった。
朝の確認では、二枚に大きな違いはなかった。
どちらもまだ濃い灰白色で、表面には作ったときの木片の跡がかすかに残っている。ソーマたちは片へ触れず、箱のふたを開けて中を見た時間だけを記録した。
養生箱の内側には、薄い湿り気が見える。
それを「材料の内側に水が残っている」とは判断しない。箱の空気がどれほど湿っているかも、今の道具では測れない。
見えるのは、箱の内側が乾き切っていないことだけだった。
午後、ソーマは手を何度か机の上で止めた。
参考片の端が、朝より少し白く見える。箱の中の養生片は、同じように白くなっているのか、ふたを閉じたままでは分からない。
決めた時刻まで待つ。
それだけのことが、思ったより難しい。
「見に行かないの?」
ユーリが聞いた。
「夕方まで待つ」
「変わってるかもしれないぞ」
「変わっていても、今見れば、昼の途中で見たことになる。朝と夕方を比べるはずだった」
「そこまで違うか?」
「違うかもしれない。だから、今は変えない」
ユーリは納得したような、していないような顔で、窓の布を整えた。
養生がうまくいくかどうかは、まだ分からない。
棚の風、工房の暖かさ、箱を開けた時間。思いつくだけでも、見えない違いは多い。だから今日は、湿った空気がよいと決める日ではない。
同じような二枚を作り、覆いをした片としない片で、表面のひびや色の変わり方に違いが出るかを見る日である。
夕方、ソーマたちは札の時刻どおりに集まった。
まず、参考片を見る。
端の近くに、細い白い線があった。朝は見えなかった線で、ひびか、表面の模様かは、まだ言い切れない。
セラは筆を止めた。
「ひび、と書きますか」
「見える線。明日も残っていて、長くなればひびの候補」
次に、養生箱のふたを開ける。
養生片の表面は、参考片より少し暗く見えた。大きな線は、今のところ見つからない。
それだけだった。
ひびがないから良い。
暗いから水を保っている。
そう続けて書きたくなる言葉を、ソーマは飲み込んだ。
覆いをした片の見え方が違ったことは、確かに記録できる。けれど、その違いが箱の湿りだけによるのか、作ったときのわずかな差なのかは、今日の二枚では分からない。
リゼットが、箱の外側をそっと指した。
「急に乾かさない方が、ひびが少なく見えることはある」
「可能性として書きます」
「それでいい。待つ仕事は、急いで判断しない方がいい」
ナーシャは、箱の中の小片を見つめた。
「この子、まだ寝てるの」
「そうかもね」
「起こさないの?」
「明日、また決めた時刻に見る」
その夜、ソーマは記録帳へ新しい欄を作った。
養生の置き方。
覆いの有無。
布が試験片へ触れたか。
箱を開けた時刻。
見える線、色、端の変化。
分からないこと。
手順を細かくしすぎれば、守る人がいなくなる。
だから、湿らせた布を何秒水に沈めるかまでは書かない。箱の中が乾いていないことを作業開始時に確かめ、布を片に触れさせない。観察時刻以外には開けない。
守れる手順でなければ、現場へ渡せない。
フェルデが夕方の記録を読んだ。
「今日の結論は」
ソーマは、紙の白い線を見た。
「覆いをしない参考片には、端に線が見えました。養生箱の片には、今のところ大きな線は見えません。ただし、覆いが乾燥の速さを抑えたのかどうかは、まだ確かめられていません」
「次は」
「同じ二枚をもう一組作ります。水量筒と型枠の確認も続けた上で、同じ置き方で同じ見え方が出るかを見ます」
「水には入れないのか」
「入れません。耐水性は、十分に落ち着いた後に、別の手順を作ってからです」
フェルデは短くうなずいた。
養生とは、何もしない時間ではなかった。
変わろうとしている小さな片へ、余計なことをしないための時間だった。
箱の中の試験片は、湿った空気のそばで静かに置かれている。
明日も同じように見えるかは分からない。
だからこそソーマは、明日のための札を、今日のうちに立てておいた。
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