第3章 第75話 水で固まる試験片
第3章 第75話 水で固まる試験片
白い粉は、新しい発明ではない。
ラウゼンの左官も、石灰焼きの職人も、白い石から作る壁塗り用の粉を知っている。水と馴染ませ、熱が落ち着いてから壁へ使う。乾けば白くなり、室内を明るくする。
けれど、その壁は雨や水路のそばでは傷みやすい。
故郷の宿屋裏で、雨に当たった補修材の一部が残ったという報告は、ソーマの中に残り続けていた。
ただし、残った理由はまだ分からない。
水が関わったのか。
配合が違ったのか。
砂や粘土が偶然に混じったのか。
答えを急ぐ前に、フェルドは試験計画を読み直させた。
陶製の型枠は、空の状態で形を確かめた。目印付きの水差しも、清水だけで同じ線まで入ることを確認した。湿った条件を保つ箱には、試験片を置く場所を確かめる印がある。
今日使うのは、石灰焼きの職人から分けてもらった熟成済みの白灰だけだ。
故郷から届いた古い粉は使わない。
灰や砂も、今日の比較には入れない。
白灰だけの試験片と、焼成位置が記録された粘土札の破片を細かくしたものを少量だけ加えた試験片。
変えるのは、その一つだけである。
「計画の承認は、これで終わりですか」
ソーマが尋ねると、フェルドは答えた。
「小さな予備試験に限る。粉が舞い、熱が強くなり、刺激臭が出れば止める。使った水は回収する」
「はい」
作業台には受け皿が敷かれ、粉の容器は必要な時だけ開ける。ナーシャは清水の入った水差しと、使用後の水を入れる回収容器を別に置いた。ユーリは窓の布を調整し、風で粉が動かないようにする。セラは型枠と容器の番号を読み上げた。
ソーマは、木の匙で白灰を少量ずつ皿へ移した。粉がこぼれた時に手で払わず、受け皿の中へ戻す。
基準の白灰には、目印付き水差しの一番低い線までの清水を加える。焼成粘土を少量加えた皿にも、同じ量の水を使う。
練り方も、型へ詰める順も、なるべく同じにする。
それでも、完全に同じにはならない。
木片で表面をならす時の力。
粉の細かさ。
空気の乾き。
ソーマは、それらを無くせない違いとして記録した。
「白灰だけの方が、少し滑らかです」
ソーマが言う。
「粘土を入れた方は、ざらつきがある。でも、まとまりにくいわけではない」
「水は足さないの?」
ナーシャが尋ねた。
「足さない。今日は、同じ量でどう違うかを見るから」
セラが記録板へ書く。
基準。白灰のみ。
比較。白灰に焼成粘土片の粉を少量。
水の量は同じ線まで。
追加水なし。
型枠へ詰めた試験片に札を付け、半分は清潔な棚の上へ、半分は湿った条件を保つ箱へ置いた。
箱に入れる理由は、水分が残りやすい条件と、風に触れやすい条件で、形がどう変わるかを見るだけだ。
ナーシャは箱の蓋を閉めながら言った。
「お水がいる場所と、外の風にいる場所を分けるのね」
「うん。後で、どちらに置いたかを忘れないようにする」
セラは、棚と箱の位置を図に描いた。
今日は、まだ水へ沈める試験はしない。
白灰が水に触れた直後の様子を見れば、早く答えが出るように思える。だが、形を作ったばかりの試験片を急いで水へ入れれば、練り方や型から外す時の傷の違いまで混ざってしまう。
まずは、触らずに置く。
待つことが、今回の操作の一部だった。
待つ間、ソーマは型枠の端に残った少量の練り材を、回収容器へ移した。使った水も、白灰だけの皿と粘土を加えた皿で分けて回収する。
「小さな試験でも、容器が増えるね」
ユーリが言う。
「何が混じった水か、後で分かるようにしたいから」
「流しに捨てないのか」
「今回は、工房内で保管して、フェルドに確認してから回収先へ渡す」
昨日まで、工房裏の廃液を見てきた。
少量だからといって、行き先の分からない水を増やしてはいけない。
夕方、フェルドが棚と湿潤箱の前で足を止めた。
どちらの試験片も、まだ柔らかい。強さは分からない。水へ入れた時に崩れるかも分からない。
ソーマは、二つの札を見比べた。
白灰のみ。
白灰と焼成粘土少量。
違うのは、その一つだけだ。
「明日、水に入れますか」
ソーマが尋ねると、フェルドは首を振った。
「明日の見た目を見てから決める。型から外せるか。ひびがあるか。湿った条件の箱の中で、変なにおいがしないか。順に確認する」
「水中の試験は、その後」
「そうだ。水の中で形を保つかどうかを知りたいなら、早く沈めるより、比較できる状態へ持っていけ」
ソーマは頷いた。
今日、試験片はまだ壁ではない。
水に耐える材料でもない。
ただ、白い粉へ一つの候補を加え、同じ形、同じ水の量、異なる置き方で残した小さな片だ。
それだけだからこそ、明日、何が違って見えたとしても、理由を少しずつ考えられる。
ソーマは記録帳に書いた。
白灰と焼成粘土少量の予備試験を開始。
水中試験は未実施。
粉じん・発熱・刺激臭なし。
使用水と残りの練り材は回収して保管。
試験片は、棚と湿った条件の箱で静置。
水で固まるかどうかは、まだ分からない。
けれど、水を急がずに待つための試験片は、二つ並んで残っていた。
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