第3章 第74話 灰と粘土の粉
第3章 第74話 灰と粘土の粉
窯場の朝は、灰の匂いから始まった。
イヴァンが窯の前で、前日の作業に残った灰を集めている。鉄の掻き棒が灰を動かすたび、白、黒、灰色の粒がゆっくり崩れ、冷えた炭の欠片が乾いた音を立てた。
ソーマは、少し離れた場所からその様子を見ていた。
白い石の試験は、まだ始まっていない。
けれど、雨に当たった故郷の補修材がなぜ残ったのかを考えると、白い石だけではなく、周りに混じっていたものも気になる。
砂。
藁。
粘土。
焼けた土。
灰。
何かを混ぜれば強くなる、と信じたいわけではない。
むしろ、何が混じっていたかを明らかにせずに、次の試験へ進みたくなかった。
「灰を見に来たのか」
イヴァンが、掻き棒を肩に担いで言った。
「灰にも違いがあると思います」
「灰は灰だろう」
「燃え残りの炭が多いもの、炉壁の土が混じったもの、白い細かいもの。見た目だけでも違います」
イヴァンは、少し面白そうに眉を上げた。
「違うのは見りゃ分かる。だが、何に使うつもりだ」
「今は使いません。ただ、白い石の試験で、将来、比較対象の候補になるかどうかを考えています」
「なら、持って帰るかどうかを先に決めておけ。窯の灰は、掃除の途中で混ざる。燃え残りも、炉壁の欠片も、知らんうちに入る」
ソーマは頷いた。
灰をもらうなら、どこから、いつ、何を燃やした後の灰なのかが必要だ。窯の床から寄せ集めたものを、ただ「灰」として持ち帰れば、後で何を比べているのか分からなくなる。
イヴァンは窯の端を指した。
「ここは昨日、乾いた薪だけを焚いた灰だ。炉壁の欠片は別にしてある。欲しいなら、作業が終わってから、少しだけ分けてやる」
「ありがとうございます。使えるかどうかは、まだ分かりません」
「それでいい。まぁ、窯の灰を宝みたいに言いふらされても困るぞ」
ソーマは、すぐに台帳へ書いた。
候補材料。乾いた薪の燃焼後の灰。
窯職人イヴァンの了承を得て、作業終了後に少量を受け取る予定。
白石との混合、粉砕、加水は未実施。
安全性と比較目的を確認するまで保管。
灰を「再利用可能」と言い切ることはできない。
使えるかもしれないもの。
使えないかもしれないもの。
どちらなのかを、まだ知らないだけだ。
工房へ戻ると、ミルカが粘土札の欠片を机の上へ置いていた。
「昨日の札で、端が欠けたもの」
欠片には、焼く前に付けた記号が残っている。同じ粘土で作り、工房炉の奥と中央に置いたものだ。焼いた場所と時間の記録がある。
「これも、比べる候補になるかもしれない」
ソーマは言った。
「でも、今は砕かない。粉にしたら、粉じんが出るし、粒の違いも分からなくなる」
「捨てる予定だったのに」
「由来が分かる破片なら、残しておく意味がある。条件が分からない破片と、何でも同じにはしないよ」
ミルカは、少し笑った。
「失敗品も、箱に入るんだね」
「失敗した理由が書いてあれば、次の比較に使えるかもしれない」
セラが三つの保管札を用意した。
既知の粘土札の破片。
焼成位置と記録あり。
粉砕、混合、加水は未実施。
ソーマは、札を読んでから、粘土札の欠片を小袋へ入れた。
粉にするのは、いつでもできる。
けれど一度砕けば、元の形や、どの場所で焼いたかを確かめる手掛かりは失われる。
だから、先に残す。
午後、フェルドは白い石の再試験計画を机に広げた。
「器具はどうなった」
「陶工が型枠の試作を作っています。水差しの基準棒はガイルから借りました。湿った条件を保つ箱は、まだ設計中です」
「材料候補は」
「白い石、白い部分と灰色の筋を含むもの。既知の粘土札の破片。イヴァンの窯の、由来が分かる灰を考えてます」
フェルドは頷いた。
「よい。候補を増やすのは簡単だ。比較できる候補まで絞るのが難しい」
「まずは、白い石だけの試験をしてから、焼いた粘土の候補を加える、という順がいいと思います」
「なぜ」
「一度に灰も粘土も砂も変えたら、結果が変わる理由が何か分かりません」
ソーマは、紙へ矢印を描いた。
基準となる白い石。
そこへ一つだけ加えた比較。
形、水、乾かし方はできるだけ同じにする。
「白い石だけで壁が作れるか、を試すのではありません」
ソーマは続けた。
「まず、材料を一つ変えた時に、見た目や崩れ方がどう違うかを比べます。強い、弱い、水に耐えるかどうかを比較します」
「その言葉を急がないなら、計画としては進めてよい」
フェルドは言った。
ソーマは、候補材料の欄を見つめた。
灰。
焼成粘土。
砂。
藁。
故郷の壁には、どれも混じっていたかもしれない。だからといって、全部を一度に入れれば、偶然に似た片ができても理由は分からない。
子どもの頃の自分は、割れた壁を前にして、砂を足し、藁を足し、水を足した。良くなったように見えるところがあれば、それで安心していた。
いまは違う。
まず基準の材料を決める。
次に、一つだけ変える。
変わらなかったとしても、何を変えなかったかを残す。
それを守れば、すぐ答えが出なくても、昨日よりは確かな場所に立てる。
「灰を使うとしても、使う灰は統一します」
ソーマは言った。
「何が燃えた後の灰か分からなければ、比較に入れません」
フェルドが問う。
「なぜだ」
「灰の違いを、白い石の違いと勘違いするからです。材料が同じでないなら、結果が違う理由が分かりません」
「よい」
ロッカが、保管棚を見た。
「候補の材料は、全部使うのか」
「分かりません。使わない候補も残るかもしれません」
「もったいないと思うか」
ソーマは少し考えた。
「思います。でも、使えるかもしれないからといって、何にでも混ぜる方が、もっともったいないです」
ロッカは、満足そうに頷いた。
「土の扱いとして悪くない」
候補を保管することは、材料をため込むことではない。
使う判断を急がないために、由来と目的を残すことだった。
ナーシャは、水の欄を読みながら、少し首を傾げた。
「お水を使うなら、あとで残るお水も増えるの」
「うん。なるべく試験片の数を増やしすぎないつもり。使った水は容器へ回収して、札を付けます」
「灰を入れたお水も?」
「同じ容器には入れないで材料ごとに分けて、何が混じったかを書きます」
昨日までの廃液の経験は、ここでも役に立つ。
小さな試験だからといって、行き先の分からない水を増やしてよいわけではない。
ロッカは、作業台の端に置かれた粘土札の破片を見た。
「土魔術で中身を読めば、混ぜる前に分かるんじゃないか」
「分かるように感じることはあります。でも、成分までは決められません」
夕方、イヴァンから小さな蓋付き容器が届いた。
中には、乾いた薪を燃やした後の、白っぽい灰が少量だけ入っている。外側の札には、窯場、受け取った日、燃料が乾いた薪であること、炉壁片や炭片を多く含まない部分から取ったことが記されていた。
ソーマは容器を開けなかった。
灰を使うかどうかを、まだ決めていないからだ。
容器の外側には、イヴァンの作業場で使われている回収札と同じ色の紐が結ばれていた。
借りたもの。
試験に使わなければ返すもの。
ソーマはその印を見て、少し背筋を伸ばした。
灰をもらったからといって、自分の物になったわけではない。窯場の仕事から出たものを、比べる候補として一時的に預かっただけだ。
材料の価値を考える前に、誰の場所から来たものかを忘れない。
それも、これから壁材を考えるなら必要な記録だった。
セラが保管棚へ置き、鍵を掛ける。
「今日増えたのは、試料ではなく候補ですね」
「うん。使えると決まるまでは、候補のまま」
ソーマは、故郷の壁を思い出した。
雨に濡れて固く残った場所には、白い石だけではなく、砂や藁や粘土が混じっていたかもしれない。灰もあったかもしれない。
けれど偶然に混ざっていたものを、答えにはできない。
今のソーマにできるのは、材料を一つずつ記録し、混ぜる前に止まり、何を比べるかを決めることだ。
新しい頁に、こう書いた。
焼成粘土と薪灰は、比較候補として保管。
粉砕・混合・加水は未実施。
白石の基準試験と器具確認の後、材料を一つずつ変える計画を再確認する。
灰も粘土も、まだ壁材ではない。
けれど、分からないまま混ぜずに残せたことは、次の試験へ進むための確かな一歩だった。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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また次話でお会いしましょう!




