第3章 第73話 焼く温度が足りない
第3章 第73話 焼く温度が足りない
白い石を焼く前に、ソーマたちは炉を見直すことにした。
石を入れない炉は、いつもより広く見える。
炭の置き方。
炉口の開き方。
熱がこもる奥と、風に揺れる手前。
昨日作った計画書には、今日は実試料を炉へ入れない予定である。白い石がどの熱で変わるのかも、今はまだ分からない。
だから今日は、炉がどのように熱を保つかを検証する予定だ。
ミルカは炉口の前で膝をつき、火の揺れを見ている。
「奥は熱い。でも、長く同じに保てるかは別」
「白い石をちゃんと焼けるかどうかも、まだ分からない」
「うん。今日は、そこまでは決めない」
ソーマは記録板に書いた。
目的。工房炉の熱の偏りと、保ちにくい場所を知る。
使用材料。既知の粘土片のみ。
白石、古い粉、未確認試料は使用しない。
粘土片は、陶工から分けてもらった同じ土で作った小さな札だった。色も形もそろえたわけではない。正確な温度を測る道具でもない。
ただ、同じ炉で同じように焼いた時に、前回と比べるための目印にはなる。
セラが三枚の札へ記号を書いた。
奥。
中央。
炉口近く。
「これで、どこが何度になるか分かる?」
「分からない」
ソーマは答えた。
「でも、どこが他より強く焼けたように見えるかは、わかると思う。あと、次に試した時に比べられるかもしれない」
ユーリは、炉口の布を持っていた。
「風を止めすぎると火が弱くなる。通しすぎると、熱が逃げる」
「火は空気を食べるけど、食べすぎると冷えるって言うよ」
ミルカの言葉に、ユーリが頷いた。
ソーマは、そのやり取りを短く記した。炉口の風は、火の強さだけではなく、熱を保つことにも関わる。だが、今日の一度だけで、どの開き方が正しいとは言えない。
火を入れる前に、フェルドが燃料籠を見た。
「今日は、予定の炭以上は使わん」
「熱が足りなければ?」
「足りないと書く。燃料を追加して答えを作るな」
ソーマは頷いた。
炉は工房全体のものだ。白い石のために、他の仕事の燃料を使い切ることはできない。燃料を多く使えば、炉の状態も変わり、比べたいことも変わってしまう。
火の担当であるミルカの力だけの問題でもない。
炉の壁。
炭の乾き。
通気。
使える時間。
燃料の量。
どれも、火を保つための条件だった。
粘土札を、長い火ばさみで炉へ置く。作業台には、札を取り出した後に置く耐熱皿と、冷えるまで触らないための赤い印が用意されていた。
粉が出た時に近づかない。
炉口から予想外の炎が出た時は、ミルカの指示で火を弱める。
炉の壁や道具に異常があれば、すぐに中止する。
計画書の停止条件を、セラが声に出して確認する。
「ここまでして、粘土片だけなのね」
ナーシャが小さく言った。
「白い石を入れる前に、止める練習をしておきたいから」
ソーマは答えた。
炉の中では、炭が赤くなり、粘土札は見えなくなった。
最初の一刻は、ただ待つ時間だった。
ソーマは何度も炉へ近づきたくなった。石を焼く時には、もっと長く待つ必要があるかもしれない。そう考えると、炉の奥を見たくなる。
けれど、粘土札を急いで取り出すつもりはない。
決めた時間になってから、ミルカが長い道具で皿を出した。
札は、すぐには触れない。耐熱皿へ置き、赤い印の内側で冷えるのを待つ。
ミルカは札を見ながら言った。
「奥の札が、少し色が濃い。中央は似てる。炉口のは、変化が少ない」
「どれが何度かは分からない」
「分からない。でも、炉口が冷えやすいのは前から分かってた」
ソーマは、冷えた後の札を並べた。
奥の札はわずかに赤みが強く、中央はそれより薄い。炉口近くの札は、見た目があまり変わっていない。大きく曲がったものはない。
この結果だけでは、炉の温度は分からない。
白い石を焼くのに熱量が足りるかも分からない。
ただ、工房の小炉では、場所による熱の差が大きく、予定した時間の中では粘土札の変化も小さいことが分かった。
「焼く温度が足りない、とはまだ書けませんね」
ソーマが言うと、フェルドは答えた。
「白石に必要な熱を知らん以上、足りないとは言えん。だが、長い保持と安定した熱が必要な試験には、この炉だけでは不確かだとは書ける」
ソーマは記録を直した。
工房炉の確認。
奥、中央、炉口で粘土札の外観に差あり。
正確な温度は不明。
長時間、安定した熱を必要とする白石試験に適するかは未確認。
実試料の焼成は保留。
ミルカは、少し黙ってから聞いた。
「私の火が弱かった、ってことじゃない?」
「違う」
ソーマはすぐに答えた。
「ミルカが炉の変化を教えてくれたから、場所ごとの差が記録できた。火を強くすることと、炉全体の熱を保つことは、同じじゃないんだと思う」
「うん。火だけじゃない」
「燃料も、炉の形も、風もある」
ミルカは少し笑った。
「それなら、次に何を見るかが分かるね」
午後、フェルドはソーマたちを工房街の外れにある窯場へ連れていった。
そこには石灰焼きや瓦焼きに使われる大きな窯が並んでいる。厚い壁と狭い焚き口を持つ窯は、工房の小炉とはまるで違った。
窯の前で薪を積んでいた職人が、フェルドへ手を振った。
「イヴァン。温度の話を聞かせてくれ」
「今度は何を焼く気だ」
「まだ何も焼かん」
フェルドの返事に、イヴァンは笑った。
ソーマは、未確認の白い石については話さなかった。見せたのは、同じ粘土札を炉の場所ごとに置いて、焼け方の違いを比べたいという図だけだ。
「正確な温度じゃなくても、前回より火が強かったか、場所で違うかを残したいんです」
「色見の札みたいなものか」
イヴァンは、焼けた粘土片を一つ取り出した。
「窯では色、煙、火の音、粘土の変わり方を見る。だが、札一枚で温度が分かるわけじゃない。窯の癖を知るための目印だ」
「僕たちも、そう使いたいです」
イヴァンは頷いた。
「それなら、同じ土で、同じ形にしろ。焼いた後に何が変わったかを書け。焼けた、と言いたいなら、窯の予定と燃料も先に聞け」
ソーマは、その言葉を記録した。
窯を使えるかどうかは、窯の持ち主と、燃料の計画に左右される。研究の都合だけで、火を借りることはできない。
イヴァンは、窯の利用を約束しなかった。
まずは窯の予定を確認し、使用する材料と安全策を書面で示せ、と言った。
窯場を見回すと、ソーマは小炉との違いを改めて感じた。
大きな窯の周りには、薪を積む場所、灰を置く場所、冷めた焼き物を運ぶための通路がある。窯を使う人が一人だけではないことが、道具の配置だけで分かる。
火を強くするために、誰かの通路をふさいではいけない。
白い石を焼くために、別の職人の仕事を止めてはいけない。
燃料や火の問題は、炉の中だけの問題ではなかった。
イヴァンは、窯の壁を軽く叩いた。
「火は、窯の腹に貯まる。だから外側から赤く見えても、中の物が同じように焼けているとは限らん。俺たちは焼き物の大きさ、置き方、窯の詰まり具合も見る」
「白い石を入れるなら、石の大きさもそろえる必要がありますね」
「必要だろう。だが、細かく砕けばいいって話でもない。粉にすれば別の危険が出る」
ソーマは、粉じんのことを思い出した。まだ起きていない失敗でも、起きる場所を先に想像しておかなければならない。
「粒の大きさを決める前に、扱える形を考えます」
「そうしろ」
イヴァンは笑った。
「火を使うなら、火の前に運ぶ試料だけじゃなく、その試料の加熱が終わった後にどこに置くかも決めろ。置き場所を考えていないと、熱い石を慌てて抱えることになるぞ」
工房へ戻る道で、ミルカはしばらく黙っていた。
「小炉でできないことがあるって、少し悔しい」
「うん。でも、できないと分かったから、窯場へ相談できた」
ソーマが言うと、ミルカは小さく頷く。
「火を強くすることだけが、火の仕事じゃないんだね。どこで、どれだけ保てるかを知るのも火の仕事」
「ミルカが炉の違いを言葉にしてくれたから、僕たちはそれを書けた」
火のことを知らないソーマだけでは、粘土札の色の違いを見ても、ただ焼け方が違ったとしか書けなかっただろう。
誰かの感覚を、記録できる観察へ変える。
それもまた、協力して試験をする意味だった。
ソーマには、それでよかった。
すぐに大きな窯へ白い石を入れるより、何が足りないかが分かったからだ。
帰り道、ユーリが言った。
「小さい炉で足りないなら、大きい窯を使えばいい、って簡単にはならないな」
「うん。窯は誰かの仕事場だし、燃料も時間もいる」
「でも、相談先はできた」
「それが今日の成果かもしれない」
工房へ戻ると、セラは粘土札の記録を整えた。
炉内位置。
観察した外観の違い。
使った燃料の範囲。
停止条件。
未確認のこと。
白い石は、今日も箱の中にある。
けれど、白い石を炉へ入れなかったからこそ、炉の小ささ、熱の偏り、窯場へ相談すべきことが見えた。
ソーマは新しい頁に書いた。
白石の焼成は未実施。
小炉は比較用の熱の目印には使える。
白石の焼成可否は、窯の条件と安全計画を確認してから判断する。
次は、ただ焼くためではない。
白い石を焼く試験へ進んでよいかを、確かめるために進む。
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