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第3章 第72話 壁材と水硬性

第3章 第72話 壁材と水硬性


 故郷の記録帳には、失敗の匂いがした。


 もちろん紙そのものがにおうわけではない。乾いた土、白い粉、雨の日の泥、焦げた石。頁をめくるたびに、ソーマの中で記憶が混ざる。


 雨に当たった補修材の一部は、思ったより崩れていない。


 けれど、軒下で乾いたままの場所には粉が出ている。


 父とリナの手紙にあったその違いが、白い石の欠片よりも重く、ソーマの胸に残っていた。


 水は壁を傷めるものだと思っていた。


 しかし、水があったからこそ、何かが固まり続けた可能性もある。


 作業台には、三冊の記録帳が並んでいる。


 観察。

 条件。

 解釈。


 ソーマは故郷の古い記録から、観察だけを抜き出した。


 白い石を焼くと、見た目が変わった。

 水に触れた粉が温かくなった。

 補修材には、固く残った場所と割れた場所がある。

 砂を入れると割れにくいことがあった。

 藁を入れると、ひびの進み方が変わったように見えた。


 次に条件の欄を見る。


 焼成時間、長め。

 水、匙一杯くらい。

 砂、少し多め。

 乾燥、雨のあと。

 場所、宿屋裏。


 ソーマは額に手を当てた。


「……長め、少し多め、くらい」


 五歳の自分には、それでも精いっぱいだった。

 前世の知識はその時もあった。だが、5歳の脳では完全には思い出せなかったようだ。5歳の時に力がなかったのと同様に考える力も年相応だったようだ。


 温度計はない。秤は粗い。水の量をそろえる器もない。炉のどこが熱いかも、記録できていなかった。


 けれど今なら、足りなかったものを責めるだけでは意味がないと分かる。


 なぜ割れたのか。

 なぜ一部だけ残ったのか。


 それを比べられる道具が、当時はなかったのだ。


 前世の記憶には、空気に触れて変化する石灰や、水のある場所でも固まりやすい建材の知識が残っている。


 ただし、故郷の白い石が同じものとは限らない。


 白い部分と灰色の筋が、同じ成分とも限らない。

 水に触れて温かくなったことが、壁の硬さの理由とも限らない。


 だから、前世の知識は答えではない。


 どこを確かめるべきかを決めるための、仮説の一つだ。


 ソーマは新しい頁に書いた。


 仮説。

 雨に当たった補修材が崩れにくい理由には、水の量や乾き方、材料の違いが関わる可能性がある。

 白い石と灰色の筋は、別に比べる必要がある。

 今の情報だけでは、水の中で固まる性質があるとは言えない。


 フェルドは、その頁を黙って読んだ。


「次にすることは」

「比較するための器具を準備します。まだ試験は始めません」


 ソーマは答えた。


「同じ形の試験片を作る型枠。水の量を見比べる器。乾く条件をそろえるための箱。それから、止める条件と、出た残りを保管する容器です」

「水を加えるのはいつだ」

「計画ができてからです。古い粉も、送られてきた石も、今日は使用しない予定です」


 フェルドは頷いた。


 その朝、皆で器具の案を考えた。


 型枠は、同じ大きさの試験片を繰り返し作るためのものだ。木の枠は水を吸い、油を塗れば試料へ別のものが混じるかもしれない。


 そこでソーマは、焼き物の浅い枠を考えた。


 まだ材料を入れず、空の枠で形を確かめる。


 セラは、仕様書の余白へ目的を書き加えた。


 同じ形を作るため。

 比較の前に、空の状態で確かめるため。

 試料を混ぜないため。


「寸法は書かないの?」


 ユーリが尋ねる。


「職人に伝える時には必要だよ。でも、まずは一種類を決める。細かい数字を増やしても、作れなければ意味がない」

「なるほど」


 ユーリは頷いた。


 水の量をそろえる器については、ガイルへ相談することになった。


 正確な目盛りをたくさん付けた器は、今の工房では作りにくい。だが、同じ容器で同じ線まで入れれば、少量、中量、多量を比べることはできる。


 ソーマは、三つの線だけが入った水差しの図を描いた。


 ナーシャが、それを見て首を傾げた。


「お水を使ったあと、どこへ置くかも書くの」

「うん。何が混じるか分からない水は、流しに流さないよ。小さな容器で回収して、作業ごとに札を付ける」

「それならいいの」


 湿った条件を保つ箱については、皆で慎重になった。


 濡れた布や砂利を入れるだけでは、試験片が汚れたり、箱の中が傷んだりするかもしれない。蓋をして、何を入れたかを札に書く。使ったあとに洗えるものを選ぶ。試験片同士を触れさせない。


 今回は、設計案を作るだけにした。


「雨の代わりを作るのは難しいですね」


 ソーマが言うと、フェルドは答えた。


「雨そのものを作る必要はない。比べたいことを決めろ。濡れたまま置くことか。乾く速さか。水が当たる向きか。全部を一度に真似しようとするな」

「一つずつ、ですね」

「そうだ」


 ロッカは、試験台の図を見ていた。


「土魔術で厚みをそろえれば早いんじゃないかい」

「厚みを確かめる補助には使えるかもしれません。でも、毎回僕の感覚で押すと、疲れや集中で変わります」

「器具でそろえて、魔術は確認だけにする」

「はい」


 ロッカは少し笑った。


「自分の魔術を使わないと言うんじゃなくて、使う場所を決めるんだな」

「その方が、誰がやっても比べやすいと思います」


 午後、ソーマとセラは、ガイルの鍛冶場と陶工の工房を訪ねた。


 白い石の性質や、将来の壁材の話はしない。未確認の試料について、噂を広げる必要はないからだ。


 ガイルには、水差しの線を決めるための基準棒と、作業台の高さをそろえる薄い板について相談した。


「試験用の器具か」


 ガイルは図を見て言った。


「細かい目盛りは、今の段階ではいらない。毎回同じ線を使えるようにしたいです」

「それなら、丈夫な基準棒を一本作ればいい。線は陶工に入れてもらえ」


 ソーマは頭を下げた。


「ありがとうございます」

「試料は持ってきてないんだな」

「まだ試験の計画中です」

「その方がいい。分からん石の話を、鍛冶場で大きな声でするな」


 ガイルはそう言って、短い鉄の基準棒を渡してくれた。


 陶工の工房では、同じ高さの縁を持つ浅い枠について尋ねた。


 陶工は、図を見てしばらく黙っていた。


「器じゃなくて、試験片を作る枠か」

「はい。中身は今は決めていません。空の枠で、形を確認したいんです」

「焼き物なら、作るたびに同じとは限らん。焼く時に少し縮む」

「縮んだ後の形がそろっていれば大丈夫です。最初に全部を並べて、使えるものだけを選びます」


 陶工は、そこで笑った。


「変な頼みだ。だが、使い方は分かった。試作を二つ作ろう」


 帰り道、ユーリが基準棒を肩に担いだ。


「前は、思いついたらすぐ石を焼きたがってたよな」

「今も、早く知りたい」

「でも、先に道具を作る」

「失敗したくないというより、理由の分からない失敗を減らしたい」


 ユーリは少し考えてから頷いた。


「荷物も同じだ。紐が悪いのか、箱が悪いのか、持ち方が悪いのか分からずに落とすと、次に困ってしまう」


 その例えは、ソーマによく分かった。


 壁が割れた。

 粉を吹いた。

 固く残った。


 それだけでは、次の手が決められない。


 材料の違いなのか。

 水の量なのか。

 形なのか。

 乾かし方なのか。


 比べるための器具があれば、失敗の理由を少しずつ狭められる。


 工房へ戻ると、ソーマは器具の図を作業台へ広げた。


 同じ形の枠を使うなら、材料を入れる前に空のまま並べ、ぐらつきや欠けを確かめる。水差しは、まず清水だけで三本の線まで入れ、線ごとにどれほど違って見えるかを皆で確認する。湿った条件を保つ箱は、試験片を入れる前に、蓋を閉めた時に水滴が落ちないかを見る。


 どれも、壁材を作る仕事には見えない。


 それでも、器具の失敗を先に見つけておかなければ、石のせいなのか、器具のせいなのかが分からなくなる。


「空の型枠で失敗するのは、少し恥ずかしいですね」


 ソーマが言うと、セラは首を振った。


「空の枠なら、何も失いません。試料を入れた後で枠のゆがみに気づくより、ずっとよいです」


 ナーシャも、水差しを持ち上げた。


「お水も、最初はお水だけでいいの。何かを混ぜてから、器が変だって分かったら困るの」


 ソーマは頷いた。


 試験を始める前に、試験に使うものを確かめる。


 その順番は、遠回りではない。


 早く答えを出したい気持ちを、あとで確かめられる結果へ変えるための順番だ。


 夕方、ソーマは器具案を整理した。


 標準型枠。試験片の形をそろえる。

 目印付きの水差し。使う水の量を比べる。

 湿った条件を保つ箱。試験片を混ぜずに置く。

 回収容器。使った水や残りを流さず保管する。

 手順札。作業の順と停止条件を見失わない。


 フェルドは、最後の欄を指した。


「停止条件は」

「粉が舞った時。容器が予想より熱くなった時。刺激のあるにおいがした時。ひび割れや吹きこぼれが起きた時。判断できないことが出た時です」

「相談先は」

「火はミルカ、水はナーシャ、粉と作業台はロッカ、記録はセラ。必要なら老師へ止めてもらいます」


 フェルドは短く頷いた。


「それなら、次に進んでよい」


 白い石をもう一度調べるには、まだ遠い。


 けれど、遠いまま急ぐより、比較できる形を先に作る方が、今のソーマには大切だった。


 故郷では、壁が割れてから理由を探した。


 ラウゼンでは、割れる前に理由を分けるための器具を作る。


 その違いは小さく見える。


 だが、壁の前に皿で止まれるかどうかは、きっと大きな違いになる。


 石を変える前に、器具と手順を整える。


 それが、昔の失敗を同じ形で繰り返さないための、最初の仕事だった。


最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

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