第3章 第71話 白い石をもう一度
第3章 第71話 白い石をもう一度
弟子札は、朝になると少し冷たく感じられた。
ソーマは寝台の端に腰掛け、手のひらの小さな金属札を見つめていた。昨日、フェルドから渡された時には、嬉しさで胸がいっぱいだった。
けれど一晩明けると、その札からは祝いの印というより、守る約束の重さを感じた。
分からないことを隠さない。
危ない作業を一人で始めない。
記録を残し、必要な相手と確かめる。
弟子として守る三つのことを、ソーマはもう一度、心の中で読み上げた。
窓の外では、ラウゼンの工房街がいつも通り動き始めている。煙突から上がる煙、車輪のきしむ音、遠い槌音。故郷とは違う朝の音ばかりだ。
それでも、作業台の上に置いた父の試料箱を開けると、乾いた土と石の匂いがして、鷹のくちばし亭の裏口が胸の奥へ戻ってきた。
箱の中には、故郷から持ってきた石や砂が小分けにされている。
川砂。
崖の赤土。
宿屋裏の補修材の欠片。
白い石。
焼いたあとの白い粉。
どれも、幼い頃のソーマが付けた札のままだ。日付と場所はある。だが、焼いた時間は「長め」、水は「匙で少し」、壁に塗った日には「雨の前」としか書かれていない。
「……昔の僕は、よくこれで分かった気になっていたな」
呟くと、恥ずかしさより先に懐かしさが来た。
丸い字のそばには、リナが描いたらしい小さな葉の印がある。藁をそろえた日。白い補修材が割れた日。雨の後に点検板を開けた日。
記録は粗い。
けれど、失敗が消されずに残っていることだけは、今のソーマにも分かった。
その時、工房の表から軽い足音が近づいた。
「ソーマ、手紙なの」
ナーシャが、麻紐で結ばれた小さな包みを抱えて入ってきた。封蝋には、アルディス家の印と、鷹のくちばし亭の麦穂印が並んでいる。
「故郷から?」
「うん。朝の荷馬車で届いたの。フェルド老師が、先に読んでいいって」
包みの中には手紙が三通と、小さな布袋が一つ入っていた。
布袋の札には、父の字でこう書かれている。
谷の白石。前の採取場所近く。崩れて落ちていたもの。
未加熱。水に触れさせず保管。
ソーマは、すぐには袋を開けなかった。
届いた試料は、まず中身を見たい。だがその前に、何が分かり、何が分からないかを記録する。
ソーマは台帳を開いた。
故郷から到着した白石。
送付者は父ダリオ。
採取場所は「前の採取場所近く」との記載。
自然に落ちていたものか、崩れた時期は不明。
未加熱、水に触れさせず梱包。
外観確認は、計画承認後に行う。
書き終えてから、ようやく父の手紙を開いた。
弟子入りを聞いた。よくやった。母さんも喜んでいる。父の試料箱が役に立っているなら何よりだ。
そのあとに、白い石についての知らせが続いていた。
昔、お前が作った裏口の補修材のうち、雨に当たる場所の一部は、思ったより崩れていない。逆に、軒下で乾いたままのところには粉が出ている。理由は分からん。オルグが気にしていた。
ソーマは、そこで手を止めた。
雨に当たる場所と、軒下の場所。
同じ補修材だったのか。塗った時期は同じか。壁の厚さは。雨はどの方向から当たるのか。泥や煤が付いてはいないか。
前世の知識が、答えらしい言葉をいくつも差し出してくる。
けれど、いまの手紙だけで結論にはできない。
ソーマは技術用の台帳の伝聞の欄へ短く残す。
故郷の補修材について、雨に当たる部分は比較的崩れにくく、軒下の一部は粉を生じるとの報告。
施工時期、配合、位置、観察方法は未確認。
オルグへ確認事項を送る。
二通目は母ミリアからだった。
体を冷やさないように。食事を抜かないように。弟子になったからといって夜更かしばかりしないように。
母らしい言葉を読んで、ソーマは笑った。
三通目の封を開ける時は、少しだけ指が迷った。
リナの字は、以前より整っていた。
弟子になったと聞きました。おめでとうございます。グレッグさんは、ソーマならきっとなると思っていたと言っていました。トマは、もうラウゼンで白い石を爆発させないでねと言っています。
裏口は、雨の日も前ほどひどくはなりません。点検板は今も父さんが雨のあとに開けています。枝の柵は二回直しました。浅鉢のところは少し欠けました。
私は最近、亭の料理を手伝っています。まだ母さんのようにはできませんが、野菜を切るのは少し速くなりました。帰ってきたら、何か作ります。
白い壁は、濡れると少し色が変わります。乾くと白く戻るところと、灰色のまま固いところがあります。オルグさんが、これは面白いからソーマへ書けと言いました。
体に気をつけてください。
リナ。
読み終えても、ソーマはすぐには紙をたためなかった。
ラウゼンで仲間ができた。弟子として認められた。けれど故郷は、ソーマがいなくても毎日動いている。
リナは料理を覚え、グレッグは点検板を開け、トマは冗談を言い、オルグは壁を見ている。
自分が作った補修材が、故郷にまだ残っている。
それが嬉しく、同時に怖かった。
「顔、変なの」
ナーシャが心配そうにのぞき込んだ。
「故郷のことを思い出してた」
「帰りたい?」
「帰りたい。でも、今は調べる順番を決めたい」
「なら、両方なの」
ナーシャは布袋を指した。
「手紙と石が来てくれたの。今日は、故郷のことを思いながら、ここで準備する日なの」
その言葉に、ソーマは小さく頷いた。
フェルドは、作業台の端に置いた未開封の布袋を見ていた。
「今日の白い石の課題は、何だ」
「古い記録を、観察、条件、解釈に分け直します。それから、試験をする前に足りないものと危険を整理します」
「石は開けるか」
「開けません。外から札と梱包を確かめただけです。粉や欠片を扱う計画が通るまで、開けません」
フェルドは頷いた。
「よい。弟子になった最初の日なのに、実験を始めない判断ができるなら悪くない」
ソーマは三つの記録帳を開いた。
古い記録を、そのまま新しい帳面へ写すのではない。何を見たのか、どんな条件だったのか、何を考えたのかを一つずつ分けていく。
観察。
白い石を焼くと軽く見えた。
水を加えた時に温かくなった。
補修材は固まった場所と割れた場所があった。
雨の後、裏口のぬかるみは減った。
条件。
石の採取場所はおおよそ同じ谷。
焼成時間、炉の位置、火の強さは不明。
水の量は一定でない。
砂、粘土、藁の量も一部しか残っていない。
補修した場所ごとの配合と施工日も不明。
解釈。
焼成で石が変化した可能性。
水に触れたあとに、別の変化が続いた可能性。
壁の割れは、配合、水の量、乾き方、塗り方など複数の理由があり得る。
書き終えると、紙の上には「不明」が多く並んだ。
それを見て、ソーマは少し息を吐いた。
昔の自分は、ただ白い石を知りたかった。
しかし、今の自分は、白い石について何を知る必要があるのかが、やっと理解したようだ。
「灰色の筋が気になります」
ソーマは言った。
「古い記録には、白い石の色の違いをほとんど書いていません。届いた試料にも灰色の筋があるそうです。白い部分と灰色の部分を同じものだと決めずに、分けて比べる必要があると思います」
「そのために何が要る」
フェルドが尋ねる。
「見た目を一定の明るさで記録すること。粒を扱うなら、粉を舞わせない受け皿と容器。加熱するなら、炉の位置と時間を記すこと。水を使うなら、量をそろえるための道具と、発熱した時に止める場所が必要です」
「道具は足りているか」
「足りません」
ソーマは正直に答えた。
温度計はない。水の量を同じにする容器も、まだない。炉の中でどこがどれほど熱いかも、十分には記録できない。
「なら、最初に作るのは石ではない」
フェルドが言った。
「比較するための道具と、計画だ」
「はい」
ソーマは新しい紙に、再試験の計画を書き始めた。
目的は、白い石が焼成と水の扱いで、どのように変わるかを比べること。
今回は実施しないこと。
未確認の古い粉へ水を加えない。
白い石を加熱しない。
酢や薬品を使わない。
故郷の補修壁から、新たに試料を採らない。
事前に確認すること。
送付試料の採取場所と、落下時の状況。
古い粉の保管状態。
炉の安全な使用時間。
粉が舞った時、容器が熱くなった時、刺激のあるにおいがした時の停止手順。
水と火を扱う時に相談する相手。
セラは計画書を読み、項目の順を整えた。
「停止条件は、作業の途中に書くより、最初に見えるところへ置いた方がいいです」
「うん。試験の目的より前に置こう」
「その方が、急いでいても探せます」
ナーシャは、水を扱う欄を見た。
「水を足すなら、どこへ行くかも書くの」
「使った水のこと?」
「うん。何かが混じったお水は、流しに流さない。少量でも、容器に残して相談するの」
ソーマは、昨日までの廃液の記録を思い出し、頷いた。
白い石の再試験は、まだ始まっていない。
それでも、始める前から行き先を決めなければならないものがある。
粉。
水。
熱。
そして、失敗した時の作業そのもの。
ミルカは、炉の予定表を持ってきた。
「明日は別の仕事で炉を使うから、試験をするならもっと先。火を使う前に、空の炉で場所ごとの焼け方を見ておくことはできるよ」
「石を入れずに?」
「うん。石を変える前に、炉の様子を知る」
それは、ソーマにとって新しい考え方だった。
材料へ何かをする前に、道具の癖を確かめる。
土魔術で砂を読む前に比較粒を置いた時と同じだ。答えを急がず、まず自分たちの手元にある違いを知る。
夕方、ソーマはリナの手紙をもう一度読んだ。
帰ってきたら、何か作ります。
その一文の前で、自然と手が止まる。
リナは、以前、白い壁材へ混ぜる藁をそろえてくれた。今は亭の料理を手伝っている。ソーマが石と土を見ていた時間、彼女もまた、自分の手で何かを覚えていた。
そのことを、技術の記録には書かない。
けれど、自分用の手帳には残す。
弟子になった。
故郷から手紙が来た。
帰ったら、リナの料理を食べたい。
短く書くと、胸の奥の痛みが少しやわらいだ。
フェルドが、背後から声をかけた。
「手紙の内容は、計画に入れたか」
「技術に関係する部分だけ、伝聞として入れました。手紙そのものと、僕の気持ちは私的な手帳に分けました」
「よい。感情を消す必要はない。観察と混ぜないことだ」
ソーマは、未開封の布袋を見た。
中にある白い石は、まだ分からない。
けれど、今度は準備不足のまま始めない。
分からないことを記録し、確かめる順番から始める。
それが、弟子になった最初の日の成果だった。
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また次話でお会いしましょう!




