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第2章 第61話 友人たちの夕食

第2章 第61話 友人たちの夕食


 フェルドの過去を読み終えたあとも、ソーマはしばらく机の前から動けなかった。


 窓の外は、もう藍色に沈みかけていた。作業場に残る明かりは、壁際のランプが一つだけだ。いつもなら落ち着くその光まで、今日はひどく遠く見える。


 安全表のために空けた紙が、机の隅にあった。


 試料名。

 作業の目的。

 危険になりそうなこと。

 止める判断。

 相談する相手。


 書くべき項目は分かっている。それでも、ペン先は最初の線を引くところで止まった。


 事故を記録しても、あの人たちが失ったものを分かることにはなれない。老師はそう言った。


 なら、自分はいま、何を書けばいいのだろう。


 考えているうちに、扉が二度、控えめに鳴った。


「ソーマ、まだ起きてる?」


 返事をするより先に、ナーシャが少しだけ扉を開けて顔をのぞかせた。その後ろには、湯気の立つ鍋を抱えたミルカと、黒パンの包みを持つユーリがいる。ロッカは腕に皿を重ね、セラは布でくるんだ小さな果物の壺を抱えていた。


「……どうしたの、みんな」


 思わず聞くと、ナーシャは眉を下げた。


「どうしたの、はこっちの台詞よ。夕方になっても出てこないから、見に来たの」

「フェルド先生から、今日は難しい話をするなって言われた」


 ユーリが、パンの包みを軽く持ち上げる。


「だから夕飯。異議は?」

「……ない」


 答えると、ミルカがほっとしたように笑った。


「よかった。冷める前に、食べましょう」


 ソーマは立ち上がり、作業場を見回した。炉には火が残っていない。試料箱も、午後のうちに鍵のかかる棚へ戻してあった。それでも、食べ物を置くには、紙と煤のにおいが近すぎる気がした。


「こっちの机、片づけるよ。記録は引き出しに入れて、手を洗ってからにしよう」

「うん。それでいい」


 フェルド老師が、いつの間にか廊下の奥に立っていた。たぶん、彼らをここまで通したのだろう。


「作業の続きをする机と、食べる机は分ける。今夜はそれだけでいい」


 皆で、机の上を静かに片づけた。事故記録の冊子はソーマが引き出しへしまい、鍵を掛けた。空白の安全表も、その下へ重ねる。火掻き棒や革手袋を壁際の棚に戻してから、裏の水場で手を洗った。


 作業を終えるための片づけではない。今は、食事のために場所を空けるのだと思うと、少しだけ息がしやすくなった。


 戻ると、机の上には清潔な布が敷かれていた。鍋の蓋を取ると、豆と根菜を煮込んだ匂いがふわりと広がる。甘い玉ねぎの香りに、少しだけ香草の青さが混じっていた。


「今日は豆の煮込み。昼に市場で安かったの」


 ミルカが木の柄杓を握った。


「それと、燻製肉を少し。パンはユーリが持ってきてくれた」

「俺が焼いたわけじゃないぞ。近所のパン屋に頼んだ」


 ユーリが先回りして言うと、ロッカが笑う。


「誰も聞いてないのに」

「聞かれる前に言っておくのが大事なんだ」


 セラが壺の蓋を開けた。中には、薄い蜜に漬けた赤い果実が入っている。


「デザートもある。甘いものは、考えすぎた頭に効くと思う」

「薬みたいに言うのね」


 ナーシャの声に、セラは少し考えてから頷いた。


「薬ではない。でも、ないよりはいいよ」


 その真面目な返事が可笑しくて、ソーマは久しぶりに笑った。胸の奥に重く沈んでいたものが、ほんの少しだけ動いた気がする。


 皿を並べる段になって、ソーマは鍋の中をのぞき込んだ。


「五人分と、フェルド先生の分。豆の量が……」

「六等分しなくていい」


 すぐにナーシャが言った。


「でも、誰かだけ少なかったら」

「おかわりがあるなら、最初はだいたいでいいの」


 ミルカが穏やかに柄杓を受け取った。


「ソーマは、いままで頑張りすぎた分まで、きっちりさせようとしてる」


 そう言われて、ソーマは鍋から目を離した。均等に分けることが悪いわけではない。ただ、少しの違いまで怖がって、手を止めていたのかもしれない。


 ミルカが皿へ煮込みをよそい、ユーリがパンをちぎって配る。肉の皿は机の中央に置かれた。誰かが足りなければ、そこから取ればいい。それで済むことだった。


「いただきます」


 六人の声が、思ったよりそろった。


 煮込みは熱く、豆はやわらかかった。根菜を噛むと、甘い汁が口の中に広がる。パンで皿の汁をぬぐうと、香草の匂いがいっそう強くなった。


 ソーマは最初のひと口を飲み込んでから、ようやく自分がひどく空腹だったことに気づいた。


「おいしい」


 小さく言うと、ミルカの頬が緩んだ。


「よかった」

「午後から、ほとんど何も食べていなかったでしょう」


 ナーシャに言われ、ソーマは苦笑した。


「読んでいたら、忘れてた」

「忘れちゃだめよ。頭を使うなら、なおさら」


 フェルドは、自分の皿を手元へ寄せながら言った。


「空腹で重い記録を読み続けると、書いてあることより、怖さのほうに引っ張られる。眠い時も同じだ。判断が粗くなったと感じたら、そこで止める」

「休むのも、作業のうちですか」


 ソーマが尋ねると、フェルドは頷いた。


「少なくとも、無理をして続けるよりは、ずっとましだ。腹を満たして眠り、翌日もう一度読む。そのほうが、見落とさずに済むこともある」


 説教のような言い方ではなかった。自分もそうしてきた人の、実感のように聞こえた。


 しばらくは、食器の触れる音だけが続いた。沈黙が気まずくないことに、ソーマは少し驚く。皆がいるのに、無理に何かを言わなくてもいいらしい。


 やがてユーリが、パンをちぎりながら口を開いた。


「事故の記録って、読んだあとがきついよな」

「うん」


 ソーマは素直に答えた。


「自分なら違うことができたんじゃないかって、勝手に考えてしまう」

「考えるのは悪くない。でも、その場にいなかった人間が答えを決めるのは、たぶん違う」


 ユーリはパンの欠片を皿の端へ置いた。


「俺も昔、荷車を急がせて、曲がり角で積み荷を崩したことがある。幸い、けが人はいなかった。でも、それからは急ぎの時ほど、出発前に荷紐を見るようになった」


「ユーリにも、そんなことがあったの?」


 ロッカが目を丸くする。


「あるよ」


「だが、次に同じ失敗をしないための経験にはなる」


 フェルドが言った。


 ロッカは自分の皿を見つめていたが、やがて肩をすくめた。


「私も、土壁を固める練習で、乾ききる前に形を直そうとして崩したことがある。誰も下にいなかったからよかったけど、あれ以来、ひとりで大きい壁には触らない」


「それ、今のロッカからは想像できないな」


 ソーマが言うと、ロッカは少しだけ得意そうに笑った。


「想像できないくらい、何度も確認するようになったから」


 ナーシャは、匙で煮込みをゆっくり混ぜた。


「薬棚の札を、置く場所だけで覚えていたこともあるわ。棚の並びを変えた日に、別の瓶を取りそうになったの」


「どうやって気づいたの?」


「渡す前に、札を声に出して読んだ。自分で読んで、自分で変だと思ったの。だから今は、急いでいる時ほど、誰かに一緒に確認してもらう」


 失敗の話なのに、ナーシャの声は暗くなかった。怖かった、と笑い飛ばすのでもない。ただ、起きたことと、その後に変えたことを、落ち着いて話していた。


 セラが果実の壺を皆のほうへ押し出す。


「わたしも、記号を逆に写しそうになったことがある。読み上げながら、元の紙と照らしたら止められた」


「一人で見ていたら、気づかなかった?」


「たぶん、気づくのが遅れた。だから、迷った印は口に出して確かめる」


 ソーマは、その言葉を胸の中で繰り返した。


 怖いと思った時に、手を動かさない。

 分からない時に、ひとりで答えを決めない。

 止まる理由を、自分の中だけにしまわない。


 書けば全部が解決するわけではない。それでも、怖い理由を言葉にできれば、誰かへ伝えられる。作業を止めることも、手順を見直すこともできる。


「俺、記録を読んでいて……怖かった」


 気づけば、口から出ていた。


 五人が、すぐには何も言わなかった。その間が、ソーマにはありがたかった。


「炉の事故が怖いというより、誰かに相談するのが遅れたことが、気になってました。自分も、分かったふりをして続けたらどうしようって」


 ナーシャが、まっすぐソーマを見た。


「なら、今日のことを覚えておけばいい。怖くなったら、ここにいる誰かに言う。言えないくらい急いでいるなら、なおさら止まって」


 そして、ナーシャは柔らかく笑った。


「でも、怖いから相談するのは、格好悪くない」


 ミルカが頷く。


「ひとりで抱えて、お腹まで空かせるほうが心配です」


「それは本当にそう」


 ユーリが大きく頷いたせいで、ロッカが吹き出した。


「ユーリは、さっきから二杯目が早い」

「体を動かした日は腹が減るんだ」

「今日は荷車を引いたの?」

「引いてない」

「じゃあ、ただの食べすぎね」


 笑い声が、作業場の高い天井へやわらかく響いた。


 フェルドも、ほんの少し口元を緩めている。


「食べすぎはともかく、今夜はこれでいい。事故記録から得るべきことは、今は全部書き出さなくてもよい」


「明日、もう一度、安全表を見ます」


 ソーマは言った。


「自分だけで決めずに、分からないところは相談します」


「その順番でいい」


 フェルドは短く答えた。


 食事が終わる頃には、鍋の底が見えていた。果実の壺も、蜜だけが少し残っている。皆で皿を水場へ運び、卓上の布をたたんだ。


 片づけが済むと、ナーシャたちは扉の前で手を振った。


「明日は朝からじゃなくていいからね」

「寝坊はしないよ」

「早起きと、無理をすることは別」


 ナーシャに言われ、ソーマは素直に頷いた。


 扉が閉まったあと、作業場はまた静かになった。しかし、さっきまでとは違う静けさだった。机の上にはもう危ない試料も、事故記録もない。


 ソーマは机の引き出しから、自分だけが使う小さな手帳を取り出した。


 共有する実験記録ではない。自分が今日をどう過ごしたかを忘れないための、短い手帳だ。


 新しい頁に、こう書いた。


 事故記録を読んだ夜。皆と夕食を取った。

 空腹と疲れを抱えたまま、答えを急がない。

 怖い理由を言葉にして、止まり、相談する。


 名前は書かなかった。それでも、鍋の湯気や、パンをちぎる音や、皆の笑い声は、書かなくても消えない気がした。


 手帳を閉じ、窓の外を見る。


 ラウゼンの夜には、遠くで店じまいをする音が残っている。ここは故郷ではない。それでも故郷とは別に、戻ってきて灯りの下に座れる場所ができたのだと、ソーマは思った。


 明日になれば、また安全表の前で迷うかもしれない。


 けれど、その時は一人で答えを作らなくていい。


 そのことを胸に置いて、ソーマは作業場の灯りを落とした。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

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