第2章 第59話 歩留まり表
第2章 第59話
歩留まり表
数字にすると、失敗が見えにくくなることがある。
けれど、数字そのものが悪いわけではない。
フェルド老師の工房の机には、罫線入りの紙と試料札の写しが並んでいた。棚の受け皿には、ふたを閉めた廃液小瓶が残っている。今日、机へ出したのは、結晶を残した塩の皿と、試料の流れを書き出すための紙だった。
セラが持ってきた紙には、淡い光印でまっすぐな線が引かれている。
きちんとした答えが書かれてそうな紙に見える。
だからこそ、フェルド老師は最初に言った。
「数字が嘘をつくのではない。粗い測り方なのに、正しそうな数字に見せれば、人が数字を嘘にする」
ソーマはペンを止めた。
「木匙で十杯取ったとしても、一杯ごとに同じ量とは限りません」
「そうだ。量れないものを、量れた顔で書くな」
セラは頷き、最初の欄を指した。
試料名。来歴と状態。行った操作。移動先。観察。判断。測定の限界。保管先。
「歩留まりだけを見る表ではありません」
「何がどこへ行ったかを見る表です」
ソーマが答えると、セラは少し笑った。
「そうです。量が測れないなら、測れないことを記録に残します」
まず、川砂由来の試料札を机へ置いた。
川砂由来・洗浄後乾燥・金色に見える粒を含む分取・判定保留。
洗う前の砂は、木匙で十杯ほど取ったと記録されている。だが木匙には目盛りがない。十杯という言葉は、始めた時の目安であって、正確な出発量ではない。
洗浄の途中で、黒く重そうに見える砂が分かれた。磁石を近づけて目で動きが見えた分取と、目立つ動きが見えなかった分取は、別の札にした。
その後、白陶板の上で金色に見える粒を三つ数えた。
セラが尋ねる。
「三粒は、書けますか」
「はい。二人で数え直しました」
「では三粒は確認済みです。でも、出発試料の何割ですか」
ソーマは首を振った。
「書けません。流れた細かな砂も、途中で見えなくなった粒も、数えられていません」
前なら、表の端に小さな割り算を書いてしまったかもしれない。十杯から三粒が残ったのだから、と。けれど、その十杯は同じ重さではなく、洗い水へ移った粒も数えられていない。
見栄えのよい数字を一つ置くより、書けない理由を残す方が、今のソーマにはずっと勇気が必要だった。
表には、こう記した。
出発試料。川砂由来。木匙十杯ほど。量は目安。
操作。洗浄と分取。磁石への目視反応の有無で別管理。
観察。金色に見える粒を三粒確認。
判断。金属かどうかは判定保留。割合は算出しない。
移動先。黒砂分取と金色粒分取は別保管。洗い水と細かな残りは、元の記録に沿って保留。
表は、きれいな成果を示してはいない。
それでも、三粒へ至るまでに何を分け、どこで数えられなくなったかは見える。
それは失ったものを責めるための線ではない。次に同じ砂を扱う時、どこで皿を替え、どこで札を足せばよいかを知らせる線だった。
市場排水口由来の残砂や、橋下由来の黒砂は、この表へ入れなかった。採取元も前処理も違う。並べれば似て見えても、同じものとして比べる理由はない。
次に、灰汁の札を置く。
未使用灰汁・静置対照。
鉄教材片浸漬後・灰汁。廃液保留。
銅教材片浸漬後・灰汁。廃液保留。
油染み麻布浸漬後・灰汁。廃液保留。
ソーマは、保管先の欄へ「棚の受け皿・ふた付き」と書いた。
歩留まりの欄は空白にしない。
量は測定不能。乾かさない。処理保留。
そう書く。
「ここは数字がありませんね」
ユーリが後ろから覗き込んだ。
「空欄ではないんです」
ソーマは答えた。
「量れないことと、乾かさないことが書いてある。今は、数にしないと決めた欄です」
フェルド老師が、短く頷いた。
「表は、分からぬことを隠すためではない。どこが分からぬかを見るために作る」
以前なら、底に見えた沈みを何とか数にしたくなっただろう。
けれど、数にできない理由まで書けば、次に必要なものが見えてくる。
セラの罫線は、答えを閉じ込める枠ではなかった。試料がどこから来て、どこで止まり、誰が次に触れるのかを、迷わず追うための道だった。
同じ量を取る器具。粒を分けるふるい。小さな変化を比べられる秤。
どれも、今すぐ作れると決まったものではない。ただ、次に考えるべき道具の候補にはなった。
ユーリは表をしばらく見つめていた。
「俺の荷運びでも、こういうの作れるかな」
「作れると思う。運んだ荷の数だけじゃなく、雨で遅れた時や、傷んだ荷をどこへ分けたかを短く残す」
「失敗を責めるためじゃなく?」
「次に同じ場所で困らないために」
ユーリは、少し考えてから頷いた。
「それなら、荷車の板に印でも付けられるかもな」
ユーリは指先で、紙の端に小さな荷車の形を描いた。雨の印、風の印、荷を預けた場所の印。きれいな表にはならなくても、次の荷運びで同じ失敗を避ける助けにはなる。
ナーシャは保留容器の欄を見て、嬉しそうに言った。
「置き場所が書いてあります。これなら、知らない人が水場へ持って行こうとしても止められます」
セラは表の端へ、もう一つだけ欄を足した。
次に見る日。処理を決められる者。
「欄を最初から増やしすぎないでください」
セラはソーマへ罫線入りの紙を渡した。
「途中で増やす余白を残すこと。余白がなければ、書けないことを無理に小さな欄へ押し込めたくなります」
「余白も、記録の一部ですね」
「はい。次に必要な測り方や、決めなければならないことを書き足せます」
ソーマは紙の端へ、まだ何も書かれていない細い余白を見た。そこは空いた場所ではなく、今日の自分がまだ知らないことのために残された場所だった。
帰り際、ソーマは故郷への返事の横に、今日の表を置いた。
リナの手紙には、料理を手伝っていると書いてあった。料理にも、量ること、待つこと、残りをどう扱うかを決めることがある。
工房の表と同じではない。
けれど、次に作る人が困らないように残すものがある、という点では似ているのかもしれない。
ソーマは歩留まり表の一番下に、今日のまとめを書いた。
数字にできないものを、無理に数字にしない。
数字にできない理由と、試料の行き先を書く。
そこに余白を残し、次に必要な測り方を書き足す。
インクが乾くまで待つ。
表の余白は、ただの空白ではなかった。
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