表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
58/78

第2章 第58話 水で溶けるもの

第2章 第58話


水で溶けるもの


 見えなくなったものは、消えたとは限らない。


 翌朝、フェルド老師の工房の棚には、ふたを閉めた小瓶が並んでいた。


 未使用灰汁・静置対照。


 鉄教材片浸漬後・灰汁。廃液保留。


 銅教材片浸漬後・灰汁。廃液保留。


 油染み麻布浸漬後・灰汁。廃液保留。


 昨日、使った液は受け皿の上で夜を越した。札は前を向き、ふたは閉まったままだ。


「ふたを開けずに、底を見ます」


 ナーシャが白陶板を背にして、小瓶を並べた。


 未使用の灰汁の底には、ごく薄い灰色の沈みが見える。鉄教材片を入れた液にも似た沈みがあり、銅教材片を入れた液には、別の色の細かなものがあるようにも思えた。


 けれど、どれも小瓶の外から見た印象にすぎない。


 ソーマは観察の紙にだけ書いた。


 未使用灰汁と使用後の液の底に、細かな沈みが見える。色と量に差があるように見えるが、灰、容器、金属表面など、由来は未確定。


「透明なら安全、とは言えないんですね」


「透明でも、何も含まれていないとは限りません」


 ナーシャは小瓶を棚へ戻した。


「だから、この液は乾かさないし、別のものと混ぜません。処理の仕方が決まるまで、札と一緒に置いておきます」


 水は、見えるものを沈めることがある。見えないものを抱えたまま、別の場所へ運ぶこともある。


 見た目だけで、中身を決めてはいけない。


 水に入れたものが、目から消えるとはどういうことか。ナーシャは別の机へソーマを案内した。


 ここには、廃液の小瓶も、昨日使った竹箸もない。白い塩と井戸水を使った、別の小さな観察だけが置かれている。


 調理用白塩・水観察。井戸水へ加え、粒が見えなくなった後、覆いをして静置。


 井戸水・対照。塩を加えず、同じように静置。


 前日のうちにナーシャが用意していた皿だ。火にはかけず、窓際の強い風にも当てず、ほこりを避けて置いてあった。


 塩を入れた皿には、白い結晶が残っている。水だけの皿には、目立つ残りがない。


 ソーマは竹串で、皿の端に残った結晶を少しだけ寄せた。水へ加える前の塩とは、粒の大きさも形も違って見える。


「粒が見えなくなっても、なくなったとは限らない」


「はい。ただ、元と同じ塩に戻ったとは、書いてはいけません」


 ソーマは記録する。


 調理用白塩を井戸水へ加えると、攪拌後は固形粒が見えなくなった。水が減った後、塩を加えた皿には白い結晶が残り、水だけの対照には目立つ残りがない。結晶の正体と、加える前の塩との同一性は未確認。


 皿が十分に乾いてから、ソーマは土魔術をそっと使った。


 小さな粒のような手応えが返る。だが、その感覚だけで塩だと決めることはできない。水に溶けていた量も、土魔術では測れない。


 ナーシャは、使った匙を伏せながら言った。


「量を比べたいなら、先に量の取り方を決めなければなりません」


「今の器具では、一滴ずつの大きさもそろいません」


「なら、そろう道具ができるまで、量の比較はしない」


 分からないから、何もしないのではない。


 分からない比較をしないことも、次に正しく比べるための準備になる。


 その時、工房の戸口にユーリが顔を出した。


「ソーマ、宿に手紙が来てたぞ」


 その言葉に、ソーマは手を止めた。


「故郷から?」


「たぶん。鷹のくちばし亭の印があった」


 胸の奥が急に温かくなった。


 ソーマは、まず塩の皿へ覆いを戻した。竹串と記録帳を片づけ、棚の小瓶のふたと札を見直す。


 作業中断。手紙を受領。塩水観察は覆いを戻して保留。


 そこまで書いてから、宿へ向かった。


 手紙は二通あった。


 一通は父ダリオから。もう一通は、鷹のくちばし亭からで、リナの字だった。


 父の手紙は短い。


 試料箱は空けてある。

 庭の北側の土が、雨の後に少し沈むようになった。

 必要なら戻った時に見るといい。

 無理はするな。

 記録は続けなさい。


 最後の一文で、ソーマは少し目を伏せた。


 父は詳しい錬金術を知らない。けれど、試料箱を作ってくれた人だ。あの箱がなければ、ソーマはここまで記録を持って来られなかった。


 箱の仕切りを一つずつ作った父の手を思い出す。父にとっては、ただ木を削っただけのことだったかもしれない。けれど、ソーマには、見つけた小さなものを持ち運ぶための最初の工房だった。


 リナの手紙は、父のものよりずっと長かった。


 鷹のくちばし亭の裏口は、今年の雨でも大きく崩れていないこと。トマが今も点検板を見る癖を続けていること。グレッグが新しい藁置き場を作ったこと。オルグが時々来て、白い補修材の古い部分を見ていること。


 どれも、リナから聞いた故郷の様子だ。ソーマは現地を見たわけではない。だからこそ、行間の雨音や、人の動きを想像した。


 そして最後に、少しだけ文字が乱れていた。


 ソーマがいないと、裏口が少し広く見えます。

 でも、ソーマが作ったものが残っているので、寂しくありません。

 最近、鷹のくちばし亭の料理を手伝っています。

 帰ってきたら、また何か見せてください。


 ソーマは、すぐには返事を書けなかった。


 リナの文字を指でなぞろうとしてやめた。紙が傷むのが怖かったからではない。ただ、そこに書かれた言葉を自分の都合のいい約束にしたくなかった。


 水に溶けた塩と、人の暮らしは同じではない。


 けれど、目の前から離れていても、そこで起きる変化まで止まるわけではない。そのことだけは、今朝の結晶と手紙の両方が教えているように思えた。


 ソーマは別の紙を取り出した。


 まず父へ返事を書く。


 庭の沈んだ場所には、しばらく近づかないでほしいこと。縄や目印で範囲を分かるようにして、雨の後にどこまで沈むかを書いてほしいこと。沈みが広がる、水がたまる、ひびが出るようなら、近くの土に詳しい人へ先に相談してほしいこと。


 原因は、戻って見なければ決められない、とも書いた。


 次にリナへ。


 裏口が大きく崩れていないと知って嬉しいこと。トマが点検を続けていることに驚いたこと。ラウゼンで、水や風や火を扱う人たちから、少しずつ物の見方を教わっていること。


 そして、少し迷ってから書いた。


 帰ったら、白い補修材をもう一度見たいです。

 前より、少しだけ上手く見られる気がします。


 それは、今すぐ戻るという約束ではない。


 けれど、故郷の裏口と、そこにいる人たちを、これからも見ていたいという自分の気持ちには違いなかった。


 手紙を書き終えてから、ソーマは塩水の皿をもう一度見た。


 見えないものを、ないものと決めない。


 だが、見えないものの中身も決めつけない。


 棚の廃液札と、二通の手紙の宛名を確かめてから、ソーマは工房を出た。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ