第2章 第58話 水で溶けるもの
第2章 第58話
水で溶けるもの
見えなくなったものは、消えたとは限らない。
翌朝、フェルド老師の工房の棚には、ふたを閉めた小瓶が並んでいた。
未使用灰汁・静置対照。
鉄教材片浸漬後・灰汁。廃液保留。
銅教材片浸漬後・灰汁。廃液保留。
油染み麻布浸漬後・灰汁。廃液保留。
昨日、使った液は受け皿の上で夜を越した。札は前を向き、ふたは閉まったままだ。
「ふたを開けずに、底を見ます」
ナーシャが白陶板を背にして、小瓶を並べた。
未使用の灰汁の底には、ごく薄い灰色の沈みが見える。鉄教材片を入れた液にも似た沈みがあり、銅教材片を入れた液には、別の色の細かなものがあるようにも思えた。
けれど、どれも小瓶の外から見た印象にすぎない。
ソーマは観察の紙にだけ書いた。
未使用灰汁と使用後の液の底に、細かな沈みが見える。色と量に差があるように見えるが、灰、容器、金属表面など、由来は未確定。
「透明なら安全、とは言えないんですね」
「透明でも、何も含まれていないとは限りません」
ナーシャは小瓶を棚へ戻した。
「だから、この液は乾かさないし、別のものと混ぜません。処理の仕方が決まるまで、札と一緒に置いておきます」
水は、見えるものを沈めることがある。見えないものを抱えたまま、別の場所へ運ぶこともある。
見た目だけで、中身を決めてはいけない。
水に入れたものが、目から消えるとはどういうことか。ナーシャは別の机へソーマを案内した。
ここには、廃液の小瓶も、昨日使った竹箸もない。白い塩と井戸水を使った、別の小さな観察だけが置かれている。
調理用白塩・水観察。井戸水へ加え、粒が見えなくなった後、覆いをして静置。
井戸水・対照。塩を加えず、同じように静置。
前日のうちにナーシャが用意していた皿だ。火にはかけず、窓際の強い風にも当てず、ほこりを避けて置いてあった。
塩を入れた皿には、白い結晶が残っている。水だけの皿には、目立つ残りがない。
ソーマは竹串で、皿の端に残った結晶を少しだけ寄せた。水へ加える前の塩とは、粒の大きさも形も違って見える。
「粒が見えなくなっても、なくなったとは限らない」
「はい。ただ、元と同じ塩に戻ったとは、書いてはいけません」
ソーマは記録する。
調理用白塩を井戸水へ加えると、攪拌後は固形粒が見えなくなった。水が減った後、塩を加えた皿には白い結晶が残り、水だけの対照には目立つ残りがない。結晶の正体と、加える前の塩との同一性は未確認。
皿が十分に乾いてから、ソーマは土魔術をそっと使った。
小さな粒のような手応えが返る。だが、その感覚だけで塩だと決めることはできない。水に溶けていた量も、土魔術では測れない。
ナーシャは、使った匙を伏せながら言った。
「量を比べたいなら、先に量の取り方を決めなければなりません」
「今の器具では、一滴ずつの大きさもそろいません」
「なら、そろう道具ができるまで、量の比較はしない」
分からないから、何もしないのではない。
分からない比較をしないことも、次に正しく比べるための準備になる。
その時、工房の戸口にユーリが顔を出した。
「ソーマ、宿に手紙が来てたぞ」
その言葉に、ソーマは手を止めた。
「故郷から?」
「たぶん。鷹のくちばし亭の印があった」
胸の奥が急に温かくなった。
ソーマは、まず塩の皿へ覆いを戻した。竹串と記録帳を片づけ、棚の小瓶のふたと札を見直す。
作業中断。手紙を受領。塩水観察は覆いを戻して保留。
そこまで書いてから、宿へ向かった。
手紙は二通あった。
一通は父ダリオから。もう一通は、鷹のくちばし亭からで、リナの字だった。
父の手紙は短い。
試料箱は空けてある。
庭の北側の土が、雨の後に少し沈むようになった。
必要なら戻った時に見るといい。
無理はするな。
記録は続けなさい。
最後の一文で、ソーマは少し目を伏せた。
父は詳しい錬金術を知らない。けれど、試料箱を作ってくれた人だ。あの箱がなければ、ソーマはここまで記録を持って来られなかった。
箱の仕切りを一つずつ作った父の手を思い出す。父にとっては、ただ木を削っただけのことだったかもしれない。けれど、ソーマには、見つけた小さなものを持ち運ぶための最初の工房だった。
リナの手紙は、父のものよりずっと長かった。
鷹のくちばし亭の裏口は、今年の雨でも大きく崩れていないこと。トマが今も点検板を見る癖を続けていること。グレッグが新しい藁置き場を作ったこと。オルグが時々来て、白い補修材の古い部分を見ていること。
どれも、リナから聞いた故郷の様子だ。ソーマは現地を見たわけではない。だからこそ、行間の雨音や、人の動きを想像した。
そして最後に、少しだけ文字が乱れていた。
ソーマがいないと、裏口が少し広く見えます。
でも、ソーマが作ったものが残っているので、寂しくありません。
最近、鷹のくちばし亭の料理を手伝っています。
帰ってきたら、また何か見せてください。
ソーマは、すぐには返事を書けなかった。
リナの文字を指でなぞろうとしてやめた。紙が傷むのが怖かったからではない。ただ、そこに書かれた言葉を自分の都合のいい約束にしたくなかった。
水に溶けた塩と、人の暮らしは同じではない。
けれど、目の前から離れていても、そこで起きる変化まで止まるわけではない。そのことだけは、今朝の結晶と手紙の両方が教えているように思えた。
ソーマは別の紙を取り出した。
まず父へ返事を書く。
庭の沈んだ場所には、しばらく近づかないでほしいこと。縄や目印で範囲を分かるようにして、雨の後にどこまで沈むかを書いてほしいこと。沈みが広がる、水がたまる、ひびが出るようなら、近くの土に詳しい人へ先に相談してほしいこと。
原因は、戻って見なければ決められない、とも書いた。
次にリナへ。
裏口が大きく崩れていないと知って嬉しいこと。トマが点検を続けていることに驚いたこと。ラウゼンで、水や風や火を扱う人たちから、少しずつ物の見方を教わっていること。
そして、少し迷ってから書いた。
帰ったら、白い補修材をもう一度見たいです。
前より、少しだけ上手く見られる気がします。
それは、今すぐ戻るという約束ではない。
けれど、故郷の裏口と、そこにいる人たちを、これからも見ていたいという自分の気持ちには違いなかった。
手紙を書き終えてから、ソーマは塩水の皿をもう一度見た。
見えないものを、ないものと決めない。
だが、見えないものの中身も決めつけない。
棚の廃液札と、二通の手紙の宛名を確かめてから、ソーマは工房を出た。
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