第2章 第57話 灰汁と金属
第2章 第57話
灰汁と金属
フェルド老師の扉を初めて叩いてから、三か月が過ぎていた。
ラウゼンへ来たばかりの頃、ソーマの記録帳には、見えたことと推測が同じ行に並んでいた。試料札には説明を詰め込みすぎ、土魔術で確かめようとしては、細かな粉まで動かしてしまった。
今、机の上には三つの記録帳と、札を付けた小箱が並んでいる。
黄火石・ボルツ提供・未加熱別分取・性質未確認。
川砂由来・黒砂分取・磁石への目視反応あり。
川砂由来・黒砂分取・磁石への目視反応なし。
破損刃・未加熱記録用分取・ガイル工房保管・原因未確定・基準試料ではない。
札に記載する量は短くなったわけではない。けれど、何を見た試料で、何をまだ知らないのかは、前より追いやすくなっていた。
以前なら、札への記載量を増やすほど分かった気になっていたかもしれない。
十二歳の体は、ラウゼンへ来た日とそう変わらない。それでも、指先を止める時間と、筆を止める時間は少しずつ増えていた。
その朝、ナーシャは水場へ灰色の布袋を置いた。
「今日は灰汁です。かわいい名前ではありませんね」
ソーマは思わず笑った。だが、机に並ぶ木灰と陶鉢を見れば、これが飲み水でも、ただの石けんでもないことは分かる。
札には、こうあった。
木灰由来・樹種混合・濃さ未確認。井戸水使用。
フェルド老師は壁際の椅子に座り、腕を組んでいる。
「灰汁を水と思うな」
「名前で安心せず、正体の分からない液として扱います」
「そうだ」
ナーシャは灰を布袋に入れ、井戸水を少しずつ通した。最初に出た液と、後から出た液は別の小瓶へ受ける。残した井戸水も、比較のためにふた付きの小瓶へ入れた。
ソーマは札へ、採った順と日付を書いた。
「最初の液の方が強そうです」
「強そう、までです」
ナーシャは穏やかに言った。
「見た目や名前だけで、濃い、洗える、危ないと決めない。今日は違いが見えるかを確かめます」
紫色の植物液は、同じ日に搾った瓶から取る。白い小皿へ、最初の灰汁、後から出た灰汁、井戸水を分け、同じ植物液を一滴ずつ落とした。
窓からの光の下で、三つを並べて見る。
最初の灰汁は青みが強く、後の灰汁は淡い。井戸水は紫色をほぼ保っているように見えた。
ソーマは、色の変わる理由を書きかけた。
だが、筆を止める。
色の違いには、灰の成分だけでなく、液の濁りや植物液の揺れも混じるかもしれない。
観察の頁には、こう残した。
最初の灰汁、後の灰汁、井戸水で、植物液の色に違いあり。理由は未確定。
ナーシャが小さく頷いた。
「いいですね。その書き方なら、次に別の見方を足せます」
次に、同じ麻布から切った小片を二枚出した。どちらにも同じ料理油を少量染み込ませてある。一枚は最初の灰汁へ、もう一枚は井戸水へ入れた。
「今日は、油染みが洗えるかを決める日ではありません。ですよね」
ソーマが先に言うと、ナーシャは笑った。
「そうです。布と油が、どう見えるかを比べるだけです」
しばらく後、二枚を取り出して白陶板へ並べた。最初の灰汁に入れた布は、油染みの縁が薄く見えた。その一方で、布そのものの色も少し淡くなっている。井戸水に入れた布には、大きな変化が見えない。
汚れが落ちたのか。布の色が変わったのか。それとも両方か。
今のソーマには、そこまで分けられない。
見た目の変化を一つ見つけると、答えにしたくなる。けれど、答えにする前に、変わったものが一つとは限らないと考える。その順番を守る方が、ソーマには以前より難しく、同時に大切だった。
使い終えた液には、すぐに札を付けた。
油染み麻布浸漬後・灰汁。廃液保留。
油染み麻布浸漬後・井戸水。廃液保留。
ナーシャは二つの小瓶へふたをし、受け皿へ置いた。
「入れた物があれば、もう元の液ではありません」
「流しへ捨てないんですね」
「流さない。乾かさない。処理の仕方を決めるまでは、濃くもしません」
金属の観察には、ガイルから預かった未使用の教材片を使う。破損刃由来の記録用分取は、今日は箱から出さない。
鉄・ガイル鍛冶場教材片・未使用。
銅・ガイル鍛冶場教材片・未使用。
同じ材から取った小片を、二つずつ用意した。一つは最初の灰汁へ入れ、もう一つは乾いたまま隣に残す。見比べるための未処理分取だ。
「金属がどう変わるかも、見るだけです」
ナーシャが言う。
「溶けたとか、丈夫になったとかは、今日の見た目からは言えません」
ソーマは竹箸で金属片を小瓶へ入れた。直接触れない。少量の試料だからこそ、札を失くせば、何を見たのかも失くしてしまう。
取り出して乾かすと、鉄の赤錆は一部が暗く見えた。銅の緑がかった汚れは、縁が少し鈍く見える。
乾いたまま残した小片と比べても、変化は大きくない。
ソーマは、鉄と銅を分けて結論を書いた。
鉄。灰汁に浸した後、赤錆の一部が暗く見えた。
銅。灰汁に浸した後、緑がかった汚れの縁が鈍く見えた。
理由は、液の違い、もとの表面のむら、乾き方などが考えられる。金属ごとの変化としても、まだ確定しない。
「土魔術は使わないんですか」
ユーリが尋ねた。
「液の濃さや、金属の中身を測れるわけではないから」
ソーマは答えた。
「今日は、目で見えたことと、使った液の行き先を残します」
金属を入れた小瓶にも、それぞれ札を付ける。
鉄教材片浸漬後・灰汁。廃液保留。
銅教材片浸漬後・灰汁。廃液保留。
ナーシャは、使っていない最初の灰汁の小瓶を一つ、並びの端へ置いた。
未使用灰汁・静置対照。
「明日、ふたを開けずに底の見え方を比べましょう」
「底に何かが見えても、金属由来とは限りませんが明日が楽しみです」
「はい。使っていない液にも同じものがあれば、別の理由を考えられます」
布と金属を入れた液は、棚の受け皿に並べられた。流しへは戻さない。処理の仕方が決まるまで、乾かしたり、別の液と混ぜたりもしない。
小瓶はどれも小さい。だが、ふたを閉めて札を前に向けると、作業台の上に置かれていた時とは別の物に見えた。使い終えた後まで責任を持つための物だ。
前世の研究室にも、廃液の種類ごとに置き場があった。
ナーシャが水場を片づけながら言った。
「便利なものほど、使った後の置き場を先に決めると安心です」
「液を使う前に、処理方法と戻り先を決める」
「そうです。帰り道を先に作っておけば、慌てません」
フェルド老師と会ってから三か月。
ソーマは砂を洗い、黒砂を分け、光の下で色を比べ、炉で火を待ち、鍛冶場で金属が割れるのを見た。
できることは増えた。
けれど、できることが増えるほど、先に決めるべきことも増える。
工房の窓の外では、ラウゼンの夕暮れが淡く沈んでいた。水路には薄い油膜が光り、石畳の隙間には黒い粉が残っている。
ソーマは棚の小瓶をもう一度確かめた。
札は読める向きにあり、ふたは閉まっている。
明日、底に何が見えるかを観察する。
けれど今日の液は、今日のうちに流さない。
それが、使った後まで見届けるということだった。
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