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第2章 第54話 炉の端の粒

第2章 第54話


炉の端の粒


 同じ炉の中に、同じ火はなかった。


 ミルカの炉場へ入ると、炉の奥で炭が赤く沈んでいた。戸口の近くには薄い灰が積もり、そこだけ空気が少し冷たい。


 熱は上へ逃げる。けれど、空気の流れに押されれば、通る道も変わる。


 昨日、粘土試験片を急に熱してひびを入れたソーマは、炉をただ熱い箱のようには見られなくなっていた。


「今日は、炉の地図を作るわ」


 ミルカは小さな陶皿を八枚、作業台へ並べた。そのうち四枚には、同じ黒砂が少量ずつ入っている。


 橋下由来・水洗い後乾燥・粗粒分取・磁石試験で目視の動きなし・未加熱分取。


 同じ袋から分けた試料だ。残りの四枚は、やり直しが必要になった時のために、脇へ置かれていた。


「石の違いではなく、炉の中の場所ごとの差を見る。だから、皿の中身はそろえるの」


 ミルカは火掻き棒の先で、炉口、炉の端、炭の近く、煙が流れる側を順に示した。


「場所だけを変えるんですか」


「場所が変われば、熱も風も煙も一緒に変わるわ。だから原因を一つに決める試験ではないの。どこに、どんな差が出るかを見るための地図よ」


 ソーマは頷き、記録帳を開いた。


 同一分取四皿。炉内位置別。炉の状態と風の変化を記す。土魔術は判定に用いない。


 長い条件表ではなく、今日の目的が分かるだけの短い記録だった。


 ユーリは炉場の外へ出て、戸口へ入る風を見ている。


「今日は、風を止めないの?」


「止めると、煙が戻ることがあるの。強い横風は困るけど」


「じゃあ、風は通すよ。でも急に変わったら知らせる」


 ユーリは真面目な顔で言った。ミルカは笑って頷く。


「始めたら、炭の置き方も炉口の開きも変えない。もし風が乱れたら、諦めて下げる。その方が次に比べられるから」


 四枚の皿を炉へ入れた。


 炉口の皿には、ゆっくりと熱が届く。炭の近くでは、皿の周りの空気が揺れた。煙の側では、粒の表面がかすかに動く。


 ソーマは、土魔術を伸ばしかけて手を止めた。


 熱の中では、沈み感も抵抗感も曖昧になる。冷えた机の上で得る手応えと、同じものとして比べることはできない。


 その時、ユーリが戸口から声を上げた。


「横から風が来た!」


 煙が一度だけ揺れ、炉の中へ巻き戻った。


「下げよう」


 ミルカがすぐに言う。ソーマは火掻き棒を差し入れたが、焦って炭近くの皿の縁へ触れてしまった。粒の一部が片側へ寄る。


「ごめんなさい」


「今は謝らなくていい」


 ミルカの声は厳しかったが、責める響きはなかった。


 四枚を取り出し、ソーマはもとの札を残したまま赤い紐を結んだ。


 一回目加熱。横風で中止。炭近くの皿は火掻き棒接触により粒の偏りあり。比較対象外。


 炭近くの皿には、さらに「偏りあり」と小さく書き足す。


 手が震えていることに、書き終えてから気づいた。火傷をしたわけではない。ただ、急いだせいで、確かめようとしていたものを自分で曖昧にしてしまった。


 ミルカは、赤い紐を結んだ皿を見て言う。


「失敗した皿も、記録して残せば、次に同じ失敗を避けられる」


「考えるのは、炉から下げてから。炉の前では、見ることを先にする」


「はい」


 やり直し用に残してあった未加熱の分取を、四枚の新しい皿へ移す。


 二回目は、ミルカが炉の状態を見守る。ソーマは皿の位置と見え方を記す。ユーリは風の変化だけを知らせる。誰も、加熱の途中で炭にも炉口にも手を入れない。


 今度は、風は大きく変わらなかった。


 取り出した皿は、同じ灰の上に並べて冷ました。


 炉口の粒は元の黒さをほぼ保っている。炉の端の粒には、赤みがわずかに差した。炭の近くの粒は少し暗く、煙が流れる側の粒は表面だけが寄って見えた。


 どの皿にも、劇的な変化が起きたわけではない。けれど並べて見れば、同じ黒砂が同じ顔ではないことは分かる。


 ソーマは、炭近くの皿へ手を伸ばしかけた。だが、まだ熱が残っているのを見て、指を引いた。見たい気持ちはあるが、早く答えを出す理由にはならない。


 ソーマは、まず観察の頁へ書く。


 位置ごとに、色と粒の寄り方に差あり。


 次に、頁を替えて書いた。


 熱、風、煙、炭との距離のどれが主な理由かは未確定。


 見えたことと考えたことを混ぜない。それだけで、帳面の白い紙が少し信頼できるものに思えた。


 皿が冷めてから、ソーマは四枚の札へ炉内位置と加熱後であることを書き足した。加熱後の試料は未加熱の分取とは別の箱に入れる。


「炭のそばが一番熱い、だけでは足りないんですね」


「足りない。炉は毎日、同じ顔をしないから」


 ミルカは炉の暗い奥を見た。


「場所と、その日の火の様子を残すの。次に似た差が出た時、そこで初めて比べられる」


 午後、フェルド老師が炉場をのぞいた。


 ソーマの帳面を読み、最初に赤い紐の付いた皿を見た。


「これは何だ」


「横風で中止した一回目です。炭近くの皿にも偏りが出ました」


「なら、使わぬ理由まで残せている」


 老師は二回目の記録へ目を移した。


「炉にも地図がいる。熱の地図、風の地図、煙の地図。ただし、地図は火を入れた瞬間から動く」


「動く地図を、どうやって残せばいいんですか」


「今日の地図に日付を付ける。それで十分だ。次の日の地図と重ねれば、変わらぬところと変わるところが見えてくる」


 その言葉を聞いて、ソーマは炉を見つめた。


 冷えた試料では、土魔術が手応えを教えてくれることがある。だが火の中では、熱そのものが感覚を揺らす。この日のソーマには、火は物を変えるだけでなく、比べ方まで慎重にさせるものに思えた。


 老師が戻った後、ミルカは別の小皿を炉の外側へ置いた。


 黄火石・ボルツ提供・未加熱別分取。


「これは炉の地図には使わない。性質が分からないから、数粒だけ確かめる」


 ユーリが煙の流れる先に人がいないことを確かめる。ミルカが短く熱を当てると、流れた煙に刺激が混じった。


「下げて。今日はここまで」


 ミルカはすぐに皿を離した。


 ソーマは札を付け替える。


 黄火石・ボルツ提供・炉外側で少量加熱。刺激臭あり、中止。加熱後試料。未加熱分取とは混ぜない。


 火に入れても、分からないものがすぐ分かるわけではない。


 けれど、失敗した試料を失敗のまま残し、同じ試料を分け、場所と結果を書き留めれば、次に確かめる道は残る。


 夕方、炉場を出る頃には、ソーマの服に薄く煤の匂いが染みていた。


 記録帳には、新しい欄が増えている。


 炉内位置。加熱後の別管理。見えた差。比較できなかった理由。


 炉には、目には見えない地図がある。


 それを急いで答えにせず、少しずつ書き足していくのだ。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

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