第2章 第53話 火を急かさない
第2章 第53話
火を急かさない
炉の前では、沈黙にも温度があった。
フェルド老師の工房から少し離れた炉場で、炭が赤く沈んでいる。厚い炉壁の奥に、ゆっくりと熱だけが満ちていた。
「あなたがソーマ? フェルド老師から聞いてる。ミルカよ。火属性」
短い火掻き棒を持った少女が振り返った。赤茶の髪を布でまとめ、頬には煤の跡が薄くついている。
「よろしくお願いします」
「うん。最初に言っておくけど、火は急かすと怒るから」
その言葉に、ソーマは以前、急いで焼こうとして割れた器を思い出した。
火に入れれば硬くなると思っていた。けれど火は、内側に残った水や歪みを暴く力でもある。
ミルカは炉の手前に置かれた粘土試験片を指した。
「今日は予熱。いきなり奥へは入れないよ。まず、火の外側で温める」
「温度はどう測るんですか」
「数字にはできない。炉壁の色と炭の具合と、試験片の変わり方を合わせて見るの」
前世の研究室なら、温度は数字だった。けれど、ここには温度計がない。
だからミルカは、火を大きくするより、熱がどこへ行くかを見ていた。
「火を点ける仕事は、台所でもパン屋でも役に立つ。でも炉の熱を保つのは別。派手な火より、一定である火の方が難しいの」
ソーマは頷いた。
ミルカから乾燥済みの粘土試験片を受け取り、炉口近くへ置く。しばらくしてから、少し奥へ動かすよう言われた。
その時、早く変化を見たい気持ちが出た。
ソーマは示された場所より、わずかに奥へ入れた。
ぱち、と乾いた音がした。
「戻して」
ミルカの声は鋭かった。
試験片の端に、細いひびが走っている。
「急かした」
「はい」
「外側だけが先に熱を受けると、内側との違いで割れる。乾いていると思っても、状態が分からない試験片はもっと危ない。だから、入れる前の札がいる」
ソーマはひびの入った片を耐熱皿へ移した。札を付ける。
粘土試験片・一。乾燥済み。指定位置より奥へ移動。端に小ひび。急熱割れの観察例。比較対象外。
「捨てないんですね」
「失敗した理由を、繰り返さないために残すの」
その言い方に、ソーマは少しだけ救われた。
次は、同じ粘土から作って同じように乾かした試験片を三枚使った。炉の入口、中央寄り、炭の手前へ同時に置き、ほかの条件はできるだけそろえる。
取り出した後は、三枚とも同じ灰の上で放冷した。
炉口の試験片はほとんど変わらない。奥へ置いたものほど色が濃く見えた。三枚とも、目に見えるひびはなかった。
熱い間の土魔術は、判定に使わない。熱に混じって感覚が曖昧になるからだ。
ソーマは、短く記録した。
同じ粘土試験片三枚。炉内位置を変えて予熱。色の差あり。目立つひびなし。炉温は未測定。
「冷ますのも急かさない」
ミルカが言った。
「熱いものを急に冷やせば、また割れる。火は入れる時も、出す時も見ておく」
炉場の入口から、ユーリが顔を出した。
「風、いる?」
「今はいらない」
ミルカとソーマの声が揃った。
ユーリはすぐに頷いた。
「煙を抜く時はお願いするからね。その時は、流れる先を先に見て」
「分かった」
午後、ミルカは炭を少しだけ動かしながら言った。
「炉の仕事は、火を出して終わりじゃない。むしろ火を出してからが長い。熱がどこへ行くかをずっと見る」
ソーマは炉を見た。
火は炎だけではない。熱の分布であり、待つ時間でもある。
最後にミルカは、小さな陶皿を炉の外側へ置いた。
札には、こうある。
市場排水口由来・残砂分取・油膜残留・未加熱。
「これは焼かない。外側で、少し温めるだけ」
「なぜですか」
「何が混じっているか分からない試料を、いきなり火へ入れないため。今日は少量だけ。煙や刺激する匂いが出たら、すぐ下げる」
ユーリは、煙が出た時に人のいない方へ流れることを確かめた。
まもなく、わずかに油の焦げた匂いがした。
ミルカはすぐに皿を炉から離した。
「ここまで」
「まだ少ししか」
「少しで、油が残っていると分かった」
ソーマは加熱後の皿に、別の札を付けた。
市場排水口由来・残砂分取・油膜残留。炉外側で短時間加熱。油の焦げた匂いあり。加熱後試料。未加熱分取とは混ぜない。
ナーシャへ渡すのは、別に残した未加熱の分取だけだ。水洗いの条件は、水を扱うナーシャと相談する。
火で変化を見ても、洗うべき試料を火で処理したことにはならない。
夕方、炉場を出る頃には、ソーマの服に薄く煤の匂いが染みていた。けれど記録帳には、火についての新しい欄が増えている。
予熱。炉内位置。放冷。煙の行き先。加熱後の別管理。
火を急かさない。
それは、ただ待つという意味ではない。熱の入り方と逃げ方を見て、待つべきところで待つという意味だった。
工房へ戻ると、フェルド老師は記録帳を一瞥した。
「割ったか」
「はい」
「なら学んだな」
ソーマは苦笑した。
ひびの入った粘土試験片は、急熱割れの観察例として包んである。
それもまた、次に急がないための記録だった。
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