第2章 第52話 反応を見る光
第2章 第52話
反応を見る光
色は、思っていたよりも条件に左右された。
フェルド老師の工房の机には、三つの小瓶と白い陶板が並んでいた。
一つには、朝に煮出した紫葉の液。紫の葉を同じ鍋で砂時計一回分だけ煮て、布でこしたものだ。もう一つには、炉灰由来の灰色粉を水へ入れ、沈むまで待ってから分けた上澄み。最後の一つには、果実酢を水で薄めた液が入っている。
机の端には、昨日セラから受け取った練習用の光札が、白く横たわっていた。
ソーマは紫葉の液を見つめる。
前世の記憶では、植物の色素は液の性質によって色を変えることがある。酸性なら赤寄りに、別の性質では青や緑寄りに見えるものもあった。
けれど、ここには試験紙も標準色票もない。紫葉の液が毎回同じ色になる保証もない。
だから今日は、まず光と背景をそろえることから始める。
「色を見る時に最初に決めるのは、薬ではない。光だ」
フェルド老師が言った。
今日はセラも工房へ来ていた。光札の使われ方を間違えていないか確かめるためだという。
老師は窓の鎧戸を半分閉め、外の光を弱めた。セラは机の上だけを照らす、白く柔らかな光を灯す。
「これを今日の基準光にします。強すぎると、明るすぎて色の差が見えにくくなります。弱すぎると、濁りを色の違いであると見間違えます」
透明な小瓶へ入れた紫葉の液の後ろに、まず白い陶板を置く。次に、黒い布を置いた。
同じ液なのに、白い背景では赤みが、黒い背景では青みが強く見える。
ソーマは記録帳を開いた。
観察。紫葉の液。基準光。白背景では赤みが目立つ。黒背景では青みが目立つ。
条件。紫葉を同じ鍋で煮出し、布でこした当日液。透明小瓶。液量は瓶の半分。観察者、ソーマ。窓の鎧戸は半閉。セラの弱い白光。背景は白陶板または黒布。
「観察者も条件ですか」
「目は人によって違います」
セラが答えた。
「疲れていても、朝と夕方でも変わります。光札は色をそのまま写すものではありません。誰が、どの光で、どんな変化を見たかを、短い印として残すだけです」
セラは練習用の光札を一枚取り、紫葉の液のそばへ置いた。指先の光が札の端へ移ると、小さな丸印が淡く残る。
台帳には、基準光、白背景、観察時刻、ソーマが判定、と書き込む。
「札は、変化ありという印です」
次に、紫葉の液を同じ白い小皿へ三つに分けた。陶管の先から、同じ数だけ滴を落とす。
一つ目には何も加えない。
二つ目には、果実酢を薄めた液を一滴。
三つ目には、灰上澄みを一滴。
皿の大きさ、紫葉の液の量、背景、光、観察までの時間はそろえた。水温は未測定である。
果実酢を加えた皿は、紫から赤みを帯びた色へ変わった。灰上澄みを加えた皿は、青みが強くなり、わずかに濁った。何も加えない皿は、紫色のまま大きくは変わらない。
観察の紙束へ書く。
無添加。紫色を保つ。
果実酢の薄め液、一滴。赤み増加。濁り少。
灰上澄み、一滴。青み増加。濁りあり。
解釈の紙束には、慎重に書いた。
紫葉の液は、加えた液により色が変わる。果実酢の薄め液と灰上澄みで変化の方向が異なる可能性。液の成分、紫葉の色素の性質は未確定。
「前にいた場所では、こういうものを指示薬と呼びました」
フェルド老師が聞く。
「指示薬とは何だ」
「液の性質が変わった時に、その兆候を色で見せるものです。反応そのものではありません」
「紙へ染み込ませて使うこともありました」
セラが興味を示した。
「紙の種類や乾かし方で、色が変わるかもしれません。まずは、紙に残るかを確かめる必要があります」
「試す価値はあります。ただし、その前に光の失敗を見ましょう」
セラは、新しい紫葉の液を同じ量ずつ二皿へ分けた。
一方は今までと同じ弱い基準光の下へ置く。もう一方だけ、セラが強い光で照らした。背景、皿、液量、観察時間はそろえる。
砂時計が半分落ちた時、強い光を当てた皿だけ、縁の紫が薄くなっていた。弱い光の皿には、同じほどの変化は見えない。
「強い光の条件では、褪色が見えました」
ソーマは書く。
紫葉の液。液量同じ。基準光と強光を比較。強光の皿で縁の褪色あり。原因は光そのもの、温まり、乾燥の差など未分離。強光は色比較の条件として使用しない。
見やすくするための光が、見ようとしているものを変えてしまう。
土魔術で試料を動かしてしまった失敗と同じだった。水で洗いすぎれば流し、風を誤れば粉を飛ばし、光を強めれば色を変える。
どの魔術も、観察の助けであると同時に、観察対象を変える力だった。
午後は、鉱物試料の変化を見た。
使うのは、橋下由来・粗粒分画・磁鉄鉱接近で目視できる動きなし、の赤黒い粒から、まだ試験していない二粒を分けたものだった。
一粒は、果実酢の薄め液を一滴加える。
もう一粒は、何も加えない。
さらに、試料を置かない白陶板へ果実酢の薄め液だけを一滴落とす。
皿、光、背景、観察時間をそろえる。
しばらくすると、果実酢を加えた粒の周囲に、薄い茶色のにじみが出た。何も加えない粒と、陶板だけへ液を落とした場所には、同じにじみは見えない。
それでも、ソーマは「反応した」とは書かなかった。
粒の表面に付いた土や、洗い残したものが色を出した可能性は残る。
観察。橋下由来・粗粒分画・磁鉄鉱接近で目視できる動きなし。未試験分取。果実酢の薄め液を一滴添加。粒周囲に薄茶色のにじみ。無添加粒と陶板のみの対照では同様のにじみなし。
解釈。粒または粒表面に由来する変化の可能性。発生源は未確定。洗浄後の同条件試料で再試験する。
フェルド老師が、短く頷いた。
「光は兆候を見せるが、原因までは教えてくれん」
セラは光札へ、褐色寄り・弱い変化、の記号を残した。札の裏には、台帳の頁と観察条件の印を添える。
「色を絵のように写すのは難しいです。でも、変化なし、弱い変化、強い変化。赤寄り、青寄り、褐色寄り。観察条件と一緒なら、粗い段階でも残せます」
「精密に見える嘘より、粗くても再現できる印の方が役に立つ」
ソーマは、その言葉を強く記録した。
最後に、フェルド老師は二つの小皿を出した。
一つには、以前の塩水乾燥試験で得た白い結晶。もう一つには、炉灰由来の上澄み保存試料を乾燥させて得た、白灰色の残渣が入っている。
どちらにも由来と乾燥履歴の木札が添えられていた。
「光で見ろ」
ソーマは基準光と白い背景の下で観察した。
塩の結晶は角ばり、光を小さく返す。灰の残渣は粉っぽく、光を鈍く散らす。どちらも白い。だが、光の返し方は違った。
土魔術を薄く向けると、塩の結晶は粒として、灰の残渣は細かな広がりとして感じる。
観察の紙束へ書く。
塩水乾燥物。角ばった結晶。小さな反射あり。土魔術では粒状。
炉灰由来・上澄み保存の乾燥残渣。粉状。鈍い散乱。土魔術では細かな広がり。
解釈の紙束には、こう書く。
乾燥後に残るものの形は、試料により異なる。塩は水中で粒が見えなくなった後、結晶として残った。灰の残渣は、溶けた成分と細かな粒のどちらが残ったか未確定。
光で見える違い。土で感じる違い。水で分けた結果。
別の観察が、少しずつ同じ試料を囲んでいく。
その日の終わり、紫葉の液へ同じ紙を三枚、同じ時間だけ浸した。
一枚は基準光の届く棚の中央。
一枚は箱へ入れ、暗い場所。
もう一枚は、光を当てず、風の影響が少ない棚の奥。
紙の種類、浸す時間、置き場所、乾燥開始の時刻を記録する。紙が色を保つのか、乾燥や光で変わるのかを、まず見るための予備試験だった。
「前にいた場所では、こういう紙をリトマス試験紙と呼ぶこともありました」
「名前は後でいい」
フェルド老師が言った。
ソーマは少し苦笑し、頷いた。
名前は後でいい。
紙が何を示すのか。どの条件で変わるのか。
それを確かめてから、名前を考えればいい。
工房を出る頃、空は薄く曇っていた。夕暮れの光は赤みを帯び、石畳も人の顔も昼とは違う色に見える。
「世界の色って、あんまり信用できないんだね」
ユーリが言った。
「信用できないというより、条件つきなんだと思う」
ソーマは答えた。
「光が違えば、見え方が違う。だから同じ光で見る。変化を残す」
「面倒だな」
「うん。でも、色が変わる条件ごと記録すればいい」
ユーリは少し考えてから、肩をすくめた。
「それ、フェルド爺さんみたいな言い方になってきた」
ソーマは返事に困った。
けれど、嫌ではなかった。
光は答えを教えてくれない。
ただ、変わったという兆候を、見落としにくくしてくれる。
その兆候をどう読むかは、やはり人の手と記録にかかっているのだった。
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また次話でお会いしましょう!




