第2章 第46話 風を止める少年
第2章 第46話
風の行き先
朝、窓際の浅い皿には、白い結晶が残っていた。
昨日、ナーシャの水瓶から量った水に、小匙一杯の塩を溶かした皿である。水面はほとんど消え、皿の縁には細かな白い粒が輪のように集まっている。
ソーマは木札を確かめた。
塩。水瓶の青線一目盛り分。水温未測定。窓から指三本分。蓋なし。風の強さ未測定。乾燥継続。
水に入れた時には、塩の粒は見えなくなった。けれど、なくなったわけではなかった。
水が減れば、また姿を現す。
見えなくなることと、存在しなくなることは違う。
その確かさに、ソーマは小さく息をついた。
直後、工房の戸が開いた。
「あ、ごめん」
戸口に立つユーリが、慌てて扉を押さえた。
入り込んだ風は強くない。だが机の端に置かれていた紙片の上の灰色の細粉がふわりと持ち上がった。
それは昨日、炉灰由来の灰色粉を水に入れてから分けた、乾燥済みの底層の保存試料だった。木札の脇で、分類用に広げた少量が隣の区画へ散る。
ソーマはすぐに手を止めた。混ざった部分へ新しい木札を置く。
炉灰由来・底層保存。戸口の風で飛散。他試料との混合あり。比較対象外。
フェルド老師は、白い塩の皿ではなく、ユーリを見た。
「今日の課題が決まったな」
「俺ですか」
「お前だ」
ユーリは眉を寄せた。悪いことをしたとは分かっている。だが、それが課題になるとは思っていなかったらしい。
フェルド老師は木札を一枚、机に置いた。そこには買うものが並んでいる。
蓋付きの浅箱。目の細かい布。目の粗い布。薄紙。小さな紙袋。乾燥棚用の木枠。細い陶管。蓋のある小皿。
「三人で買ってこい」
「三人?」
ソーマが聞き返すと、ナーシャが水瓶を布で包み、にこりと笑った。
「わたしも行きます。水瓶の替えと、油膜をすくう陶片が欲しいです」
「俺は荷運びですか」
ユーリの問いに、フェルド老師は首を横へ振った。
「今日は違う。粉が飛ばないように歩け。工房の水面を乱さないように戸を開けろ。市場では、風がどこから来て、どこへ抜けるかを見ろ」
「風を止めろ、ってことですか」
「完全に止められなくてもよい。風属性は、吹かすだけが仕事ではない。風の行き先を見て、必要なら弱めろ」
ユーリは、散った灰色粉を見た。
「……分かりました」
ソーマは記録帳を開く。
今日の目的。粉塵と乾燥のための道具を調達する。同行者、ユーリ、ナーシャ。観察項目、戸口と市場の風、紙と粉への影響。飛散試料は比較に使わない。
「お使いも実験なんですね」
ナーシャが帳面を覗き込む。
「工房では、たぶん何でもそうなるんだと思う」
「では、おやつを買ったら、それも条件ですか?」
「買ったら書きます」
「書きましょう。ウフフ」
ナーシャは嬉しそうだった。
ラウゼンの市場へ向かう道は、朝から人で満ちていた。
職人街を抜けると、石畳が明るくなる。果物の甘い匂い、焼きたてのパン、魚の塩気、肉を燻す脂の匂いが、風の向きごとに入れ替わった。
店先の布が揺れるたび、ユーリは立ち止まりそうになる。
背中には空の籠がある。普段なら、風を少し使って荷の揺れを抑え、人の間をすり抜けるのだろう。今日は肩紐を手で押さえ、足元と周囲を何度も見ていた。
「歩きにくい」
「風を使わないから?」
「使わない、というより、使い方が分からない。少し押すだけでも、どこかの紙や粉に当たるかもしれないって考えると、力が入る」
ナーシャが頷いた。
「水も同じです。流せるのに流さない。溶かせるのに溶かさない。沈むまで待つ。できることをしないのは、難しいです」
最初に入った紙屋には、薄紙、厚紙、帳面、紙袋が並んでいた。
店主はフェルド老師の木札を見ると、粉を包むための紙を何種類か出してくれた。
「粉なら、これだ。安い紙は繊維の間が粗くて、細かい粉が抜ける」
ソーマは紙の端を撫でた。
粗い紙はざらつき、細粉なら繊維の隙間へ入りそうだった。目の詰まった紙は表面がなめらかで、折り目からも粉が漏れにくそうに見える。
その時、ユーリが無意識に息を吐いた。
紙の端が、息だけでは説明できないほど大きく浮いた。
ユーリは顔をしかめ、すぐに口元を押さえる。
「今の、魔力が混じった?」
「たぶん。息を吐く時に、少しだけ風を使った」
店主が眉を上げた。
「紙屋で風は嫌われる。自覚があるなら、外で整えてから入ってくれ」
「すみません」
ソーマは帳面に書く。
紙屋。ユーリが呼気とともに弱い風魔術を漏らし、薄紙の端が浮いた。紙の繊維の細かさで、粉の抜け方が変わる見込み。紙の保持試験は未実施。
「ユーリくん、紙がびっくりしていました」
「紙はびっくりしないだろ」
「ひらっとしていました」
「……気をつける」
次の布屋では、目の細かい布と粗い布を並べて比べた。
ナーシャは水瓶の水を一滴ずつ端に落とし、濡れ広がる速さを見た。細かい布は水を抱え込みやすく、乾きにくい。粗い布は水が抜けやすいが、細粉を通しやすい。
「細かい布は、水面の油膜をすくう用途には向きません。水まで吸って、膜の形が崩れやすいです」
「粗い方は?」
「膜を下から支えやすいです。ただし、細かい粉をこすには使えません」
同じ布でも、役目が違う。
ナーシャは花模様の端布を名残惜しそうに見たあと、用途に合う無地の布を選んだ。
ユーリは笑いそうになったが、息に風魔術を混ぜないよう、口を閉じて肩をすくめた。
問題は、顔料と鉱物粉を扱う店で起きた。
店先の小皿には、赤い土粉、白い石粉、黒い炭粉、青みを帯びた鉱物粉が少量ずつ盛られていた。色は鮮やかだが、どれも軽く、わずかな風で動きそうだった。
店主が黒い炭粉を紙の上へ少し出し、粒の細かさを見せる。
その直後、ユーリの背後を荷車が通った。
車輪が石畳の段差を越え、荷車が押し出した空気が横から流れ込む。
ユーリは反射的に、その流れを横へそらそうとした。いつもの荷運びの癖だった。
だが、そらした風は店先の小皿の方へ回り込んだ。
炭粉の端が浮き、紙の外へ散る。
「あっ」
ユーリの声が小さく落ちた。
ナーシャは水瓶へ手を伸ばしかけ、止めた。水をかければ飛散は止められても、炭粉は泥になり、別の汚れが生まれる。
「ごめん。風を逃がそうとした」
「逃がした先を見ていなかった」
ソーマが言うと、ユーリは散った粉を見ながら言った。
「荷なら、当てなければ済む。でも粉は、逃がした弱い風でも駄目なんだな」
店主には事情を話し、散った炭粉を含めて買い取った。
紙の外へ落ちた粉は、店の床の汚れや別の顔料が混じった可能性がある。ソーマは紙袋を分け、木札を結んだ。
炭粉。荷車通過時、ユーリが風を横へそらす。小皿の炭粉が飛散。床接触あり。比較対象外。
購入した、飛散前の炭粉には別の木札をつけた。
炭粉。店頭購入品。未使用。
ユーリはしばらく黙っていたが、次の店へ向かう途中で足を止めた。
「もう一回、試したい」
「風を?」
「今度は逃がすんじゃない。人や粉にまっすぐ当たる流れを、弱くしたい」
近くの路地は、建物の間を細い風が抜けていた。
ユーリは、壁から離れた地面に落ちていた乾いた葉を一枚、目印として置く。人通りの邪魔にならない壁際で、ナーシャとソーマは少し離れて見守った。
ユーリは手のひらを開き、路地を抜ける風を止めようとはしなかった。
壁際へ近づく流れを、さらに薄く広げる。風を一か所へ押し込むのではなく、葉の上を通る勢いだけを弱めるように、何度も調整した。
葉は最初より動かなくなった。
ただし、壁際の紙くずがわずかに揺れた。
「完全に止めるのは無理だ」
ユーリの額に汗が浮かぶ。
「でも、まっすぐ当たる風を散らすことはできる。散らした分は、別の場所へ行く」
「風はなくならない」
ソーマが言うと、ユーリは頷いた。
「うん。どこへ行くかまで見てないと、また同じことをする」
ナーシャが笑った。
「水と似ています。流れを変えたら、流れた先も見ないといけません」
その後の買い物で、ユーリは店先ごとに風の抜け方を確かめた。
陶器屋では蓋付きの小皿を選ぶ。蓋が軽すぎればずれ、重すぎれば中身を確かめにくい。木工屋では乾燥棚用の木枠を選んだ。隙間が広ければ空気は通るが、小さな紙片や粉が落ちやすい。狭ければ安定するが、風は抜けにくい。
ある棚を前にして、ユーリが言った。
「これを窓際に置くなら、端だけ先に乾くかもしれない」
「どうして?」
「窓から入った風が、棚の手前を斜めに通りそうだ。奥まで同じようには行かない」
ソーマは、観察ではなく仮説として書いた。
ユーリの風感覚。窓際の棚は、手前と奥で乾燥差が出る可能性。要試験。
工房へ戻ると、三人は買ってきた物を先に机の奥へ置いた。
炭粉の未使用品と飛散品は、別の浅箱に入れる。水に関わる皿は棚の奥へ寄せ、塩の結晶が残る皿には手を触れない。
それからユーリは、戸口の外の風を確かめた。
扉を指二本分だけ開け、風がどちらへ流れるかを見る。次に、外からの風が工房の中央へまっすぐ入らないよう、自分の体で戸の隙間を隠しながら、ゆっくり開いた。
風は入った。だが、机の上の木札も、窓際の結晶も動かなかった。
フェルド老師が机の奥から見ていた。
「少しは分かったか」
「風は消えない。だから、消したつもりで使わない」
「よい」
最後に、買ってきた木枠を使って、小さな乾燥の予備試験をした。
薄紙を同じ大きさに三枚切る。水瓶の水を、木匙の先から三滴ずつ、紙の中央へ落とす。紙の種類、水の量、置き場所、乾燥時間はそろえる。
違えるのは、空気の動かし方だけだった。
ただし、木枠は一つしかない。三枚を同時に比べることはできないため、今日は同じ棚の中段中央で、一枚ずつ順に行う予備試験とした。室温と外の風の強さは測れていない。
最初の紙は、ユーリが何もしないまま置いた。
二枚目は、同じ位置に置き、ユーリが紙の手前から弱い風を一定の向きで当てた。
三枚目は、紙へ直接風を当てない。ユーリは棚の前を通る空気だけを、紙から手のひら一枚分ほど離れた位置で、ゆっくり横へ流した。
砂時計が同じだけ落ちた時点で、三枚を比べる。
何もしなかった紙は、表面にまだ湿りが残り、反りは少なかった。
直接風を当てた紙は、風を受けた側の端から早く乾いた。その一方で、紙は少し反り、中央には湿りが残った。
棚の前だけをゆっくり流した紙は、直接風を当てた紙より乾き方が遅い。だが、反りは小さく、湿り方の偏りも目立たなかった。
ソーマは観察と解釈を分けて書いた。
観察。直接風では端が先に乾き、反りあり。棚の前を流す弱い風では、直接風より乾燥は遅い。今回の範囲では、反りは小さい。
解釈。乾燥では速さだけでなく、紙全体の乾き方を見る必要がある。棚の外を流す風は、偏りを小さくできる可能性がある。ただし、同時比較ではなく、室温と外風も未測定。再試験が必要。
ユーリが帳面を覗き込み、少しだけ笑った。
「俺、何もしない係から進んだ?」
「進んだよ」
ソーマは答えた。
「風を止める係じゃない。風の行き先を見る係だ」
「地味だな」
「かなり大事です」
ナーシャも頷いた。
「粉も水面も、静かにしてもらえると助かります。静かにするには、ちゃんと見ないといけません」
ユーリは窓際の塩の皿を見た。
白い結晶の輪は、朝から変わらず残っている。
その周りには、見えない空気がある。
風は目に見えない。けれど粉を飛ばし、水面を揺らし、乾き方を偏らせる。
だからこそ、器の形や置き場所と同じように、風の向きも強さも見なければならない。
ソーマは今日の最後の行を書いた。
風属性は、風を起こすためだけの力ではない。風の影響を抑え、粉や水や乾燥の条件を整えるためにも使える。ただし、風の行き先を確かめること。
インクが乾くまでのあいだ、ユーリは戸口に立ち、外から来る風の向きを静かに見ていた。
荷運びの少年は、その日から少しずつ、工房の空気を見るようになった。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。
感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。
また次話でお会いしましょう!




