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第2章 第44話 ナーシャの水瓶

第2章 第44話


ナーシャの水瓶


 フェルド老師の工房に、透明な水瓶が置かれた。


 細長い首を持つ、よく澄んだ瓶だった。胴の半ばには、薄い青い線が三本引かれている。


 その線は飾りではない。上の線から次の線まで水面を下げると、小皿一枚を洗う一回分の水になる。ナーシャが、自分で付けた水量の目印だという。


 窓から入る朝の光を受けて、水瓶の向こうにある棚まで透けて見えた。


 ソーマはその澄んだ水を見て、昨日まで自分が扱っていた濁水を思い出した。


 油膜に絡む黒砂。流した水の底に残る粉。磁鉄鉱を近づけても、目視できる動きのなかった黒粒。


 水で洗えばよいと思っていた。だが、実際は簡単ではなかった。


 工房の奥から、軽い足音がした。


「おはようございます、老師。水瓶を持ってきましたよ」


 現れたのは、ソーマより少し年上に見える少女だった。淡い水色の髪を肩のあたりで結び、袖口を紐できちんと留めている。片手に水瓶を、もう片方の手に小さな布袋と細い陶管を抱えていた。


 ナーシャは水瓶を机の上へそっと置いた。


 大きな瞳でソーマを見ると、ぱっと笑みが浮かぶ。


「あなたがソーマくんですね。はじめまして、ナーシャです。水属性です。これからよろしくね」


「ソーマです。よろしくお願いします」


 ナーシャはにこにこと笑ったまま、机の上の小皿を覗き込んだ。


 市場排水口・判定保留・油膜残留と書かれた札を見た瞬間、その笑顔が少しだけ固まる。


「うん。これは許せませんね」


 声は柔らかいままだったが、言葉ははっきりしていた。


 フェルド老師は壁際の椅子に座った。今日は最初から、ナーシャに任せるつもりらしい。


 ソーマは三つの紙束を開いた。観察、条件、解釈。


 ナーシャはそれに目を留め、嬉しそうに頷く。


「ちゃんと分けているんですね。えらいです。でも、水の条件が少ないです」


「水の条件、ですか」


「はい。量だけではありません。入れ方、速さ、当てる場所、待つ時間、水の温かさ、汚れをどこへ移すか。そこまで水です」


 ナーシャは水瓶の口に細い陶管を差した。


 陶管の先を小皿の内壁へ近づけ、水瓶をゆっくり傾ける。水は糸のように細く流れ、皿の縁を伝って底へ回り込んだ。


 中央へ直接落ちないため、砂はほとんど巻き上がらない。


「上から勢いよく入れると、細かい粉が水の中へ広がります。急いで流せば、残したい粒まで一緒に流れます」


 ソーマは昨日までの自分の手つきを思い出した。


 皿の内側の印まで水を入れる。揺らす。傾ける。流す。


 それで条件をそろえたつもりだった。


 けれど、水の入れ方まではそろえていなかった。勢いよく入れた時と、静かに入れた時では、粉の舞い方が違う。


 条件の紙束へ書く。


 水の入れ方。陶管を皿壁へ近づける。中央へ直撃させない。


 水量。水瓶の青線一目盛り分。


 流速。細い水の線を保つ。


 水温。同じ水瓶の水を使う。温度は未測定。


 ナーシャは、判定保留の皿から小匙一杯ほどを別の小皿へ移した。動きあり候補の皿には触れない。


 ソーマは、その操作も条件へ書き足す。


 市場排水口・判定保留・油膜残留・前日予備試験後から小匙一杯を採取。動きあり候補とは混ぜない。


「まず、洗う前に、油がどこへ集まるかを見ます」


 陶管を使い、試料の入った皿の壁へ水を静かに流す。


 水面ができ、底の黒砂がゆっくり濡れていく。しばらくすると、水面に薄い油膜が浮かんだ。


「油は水面に浮きますよね」


「はい。でも、油だけが浮くわけじゃありません。細かい粉や泡、木屑も、一緒に運ばれます」


 ナーシャは皿の水面を指差した。


「水面に集まったものは、底に残った砂とは別の試料です」


 水面も試料。


 ソーマはその言葉を書き留めた。


 ナーシャは指先を、油膜が浮いた皿の上にかざした。


 使う前に、ソーマは条件の紙束へ追記する。


 ナーシャが水魔術を弱く使用。水面の油膜を片側へ寄せる。砂時計の砂が短く落ちる間だけ行う。ソーマ単独では同じ操作を再現できないため、ナーシャの操作後試料として扱う。


 水面がふるりと震え、油膜の端が少しずつ片側へ寄せられた。


 強く押し流すのではない。水面に浮くものだけを、静かに一か所へ集めていく。


 その手つきは、土魔術とはまるで違った。


 土魔術では、粒に沈み込むような手応えを確かめる。ナーシャの水魔術は、水を力で押すのではなく、水が流れやすい道筋をそっと整えているように見えた。


「ここで、布で拭きたくなります」


「なります」


「だめです。細かい粒まで取れます」


 ナーシャは言い切った。


 それから平たい陶片を取り出し、水面へそっと差し入れた。集めた油膜と、油膜にまとわりついた細粉を、水ごと薄くすくい上げる。


 別の小皿へ移すと、皿底に沈んでいた砂は思ったより乱れていなかった。


「油膜は捨てません。別試料です。油膜の側にも粒がいるからです」


「流した水と同じですね。捨てたものにも粒がある」


「そうです。洗浄でどこへ何が移ったかを見なければ、水を使った試験を記録したことになりません」


 その言葉は、フェルド老師の教えとつながっていた。得たものだけでなく、失ったものも数える。


 次にナーシャは、細かい粉の扱いを見せた。


 川上の砂を小匙一杯ずつ、同じ大きさの小皿へ三つに分ける。それぞれに、同じ水瓶から青線一目盛り分の水を、同じ陶管で皿壁へ沿わせて加えた。


 軽く一度だけ揺らす。


 白い濁りが水中に広がった。


 条件の紙束には、あらかじめこう書いた。


 川上試料。水洗い後、乾燥。同量を三皿へ分ける。同じ水瓶の水を使用。水温は未測定。水量、陶管の位置、皿を揺らす回数は同じ。待つ時間だけを変える。


 ナーシャはすぐには流さなかった。水瓶の横にある小さな砂時計を返し、じっと待つ。


「細かい粉は、全部が同じ速さで沈むわけではありません。粒の大きさや形、沈み方が違います」


 底に、薄い層が少しずつできていく。


「だから、いつ流すかで残るものが変わります」


「待つ時間も条件」


「はい。待てない人は、水を使うのが下手です」


 ナーシャはにこにこと言った。


 ソーマは少しだけ耳が痛かった。


 陶器の乾燥でも、炉でも、記録でも、何度も待つことを学んできた。水もまた、待つ技術なのだ。


 砂時計が四分の一ほど落ちたところで、ナーシャは一つ目の皿の上澄みを受け皿へ静かに移した。


 二つ目は、砂時計が半分落ちたところで流す。


 三つ目は、砂が落ち着くまで待った。


 それぞれの受け皿と、元の皿に残った底の粉を並べる。


「同じ砂、同じ水でも、待つ時間で違います。これを知らないと、再現できません」


 ソーマは観察の紙束に、皿ごとの違いを書き分けた。


 砂時計四分の一。上澄み濃い。底層薄い。


 砂時計半分。上澄みやや濁る。底層やや増加。


 砂時計一回分。上澄み薄濁り。底層はっきり。


 ここで、ソーマも試すことになった。


 小匙一杯の川上の砂を新しい皿へ入れ、同じ水瓶の水を陶管で流す。


 最初はうまくいった。水は静かに流れ、砂は大きく巻き上がらない。


 けれど二度目、ソーマは陶管の先を皿から離しすぎた。細い水の線が途中で乱れ、皿の中央へ落ちる。


 細粉がふわりと広がり、さっきよりずっと白く濁った。


「あ」


「はい、失敗です。かわいい失敗ですけど、失敗です」


 ナーシャは困ったように笑った。


 ソーマはすぐに書く。


 陶管の先が皿から高すぎた。水流が皿中央へ落下。細粉が巻き上がる。濁り増加。陶管の高さも条件。


「かわいい、は記録しなくていいです」


「しません」


「残念です」


 ナーシャの言い方があまりに真面目なので、戸口にいたユーリが少し笑った。


 ソーマも肩の力を抜いた。けれど、手元は緩めなかった。


 新しい皿で再実験する。


 陶管の先を皿の縁へ近づける。水瓶を傾けすぎない。青線を目印に水量をそろえる。


 今度は濁りが少ない。完全ではないが、さっきより安定している。


 ナーシャは頷いた。


「いいです。水を使う時は、水に仕事をさせるんです。押しつけると、水は暴れます」


「土魔術にも似ています。強く動かすと、混ざる」


「似ていますね。でも、土の試料は失敗しても皿の底に残りやすいです。水は流した先で、別の問題になります」


 ソーマは宿屋の裏口を思い出した。排水路を作った時、水はうまく流れた。けれど終点で油膜と泥が溜まった。解決したと思った場所の先に、別の負担があった。


 水は逃げる。


 逃げた先を見る。


 それはナーシャの水魔術の基礎であり、フェルド老師の錬金術の基礎でもあるのだろう。


 午後には、判定保留の市場排水口試料から、午前とは別の小匙一杯を取り出した。


 ソーマは、操作の前に条件を書く。


 市場排水口・判定保留・油膜残留・前日予備試験後。午前の試料とは別に採取。試料は小匙一杯。同じ水瓶の水を使う。水温は未測定。ナーシャが水魔術を弱く使用して油膜を寄せる。油膜を移した皿、上澄みを受けた皿、残った砂を別試料として扱う。


 水を一気に入れない。陶管を皿壁へ沿わせ、砂を静かに濡らす。油膜が水面に現れるまで、砂時計が四分の一落ちる時間だけ待つ。


 ナーシャが水魔術で油膜を片側へ寄せる。陶片で油膜をすくい、別皿へ移す。


 残った砂には、もう一目盛り分の水を加える。細粉を舞わせないよう、ゆっくりとほぐす。


 砂時計が半分落ちたところで、上澄みを受け皿へ移す。


 残った砂、油膜を移した皿、上澄みを受けた皿。


 三つを並べて、別々の試料として記録する。


 ソーマは、残った砂へ土魔術を弱く使った。


 油分が減り、細粉が落ち着いた後の方が、粒の沈み感を区別しやすいように感じる。


 ただし、それは一度の操作で得た手応えにすぎない。水による前処理が土魔術の観察を助けるかどうかは、別の日にも確かめる必要がある。


 ナーシャはその様子を見て、嬉しそうに目を細めた。


「分かりやすくなりました?」


「はい。沈み感の強い粒の位置が、さっきよりはっきり感じます」


「水で余計なものをどかすと、土が見やすくなるんですねえ。面白いです」


 フェルド老師が奥で小さく頷いた。


 その日の最後、ソーマは条件の紙束に新しい手順を書いた。


 油分付き試料の前処理。


 一、試料の採取場所、札の内容、操作履歴を書く。今回の試料は市場排水口・判定保留・油膜残留・前日予備試験後。


 二、試料は小匙一杯とする。同じ水瓶の水を使う。水温が分からない時は、未測定と書く。


 三、水瓶の青線一目盛り分の水を、陶管で皿壁へ沿わせて加える。


 四、砂時計が四分の一落ちるまで待つ。水魔術を使う時は、使う者と操作内容を書く。


 五、浮いた油膜を別皿へ移す。


 六、さらに青線一目盛り分の水を加え、細粉を静かにほぐす。砂時計が半分落ちた時点で、上澄みを受け皿へ移す。


 七、油膜、上澄み、残った砂をすべて別試料として記録する。


 書き終えると、紙の上にようやく道筋ができた気がした。


 完璧ではない。


 水温はまだ測っていない。油分を完全に取り切れるわけでもない。ナーシャが水魔術で寄せた油膜を、ソーマ一人で同じように扱うのも難しい。


 だが、昨日よりは再現できる。


 それが大事だった。


 工房を出る頃、ナーシャは水瓶を布で包みながら言った。


「ソーマくん、水は優しいです。でも、雑に扱う人には全然優しくありません」


「覚えておきます」


「はい。次に水を怒らせたら、わたしも怒ります」


「……気をつけます」


 ユーリが隣で小さく笑った。


 帰り道、ラウゼンの水路には夕方の光が流れていた。


 水面には油膜の薄い色が揺れ、その脇の流れの緩い場所では、細かな砂が静かに沈んでいる。


 昨日なら、汚れているとだけ思ったかもしれない。


 今日は、その中に層が見えた。


 浮くもの。漂うもの。沈むもの。逃げるもの。残るもの。


 水は、分ける力だった。


 そして、分けた先を見なければならない力だった。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

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