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土魔術師は静かに世界を書き換える  作者: まぁさら
第1章 土属性の子
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第1章 第4話 白い石の欠片

第1章 第4話


白い石の欠片


 白い石は、濡れた土の中でひとつだけ乾いて見えた。


 宿屋の洗い場の脇、古い壁材を捨てた木箱の底に、それは転がっていた。灰より白く、骨より脆そうで、指で触れると細かな粉がつく。だが水を含んだ泥の匂いの中で、その欠片だけはどこか乾いた石室のような匂いを残していた。


 ソーマはそれを拾い上げた瞬間、胸の奥に小さな期待が灯るのを感じた。けれど同時に、その期待を両手で押さえ込むように息を整えた。知っている名を、すぐに当てはめてはいけない。石灰かもしれない。違うかもしれない。似ているものを見つけたときほど、研究者はよく間違える。


 《鷹のくちばし亭》の裏口は、数日前よりいくらか落ち着いていた。


 壊れ桶を使った沈み場は、見た目こそ粗末だが働いている。洗い水はいったん桶へ落ち、麻布の上に泥や野菜屑を残してから、壁際の浅い溝へ流れる。リナは朝と夕方に布を引き上げ、溜まった泥を畑の端へ運んでいた。


 もちろん問題は残っている。油膜は桶の縁に付く。溝の途中には細かな泥が沈む。強い雨が降れば、浅い排水路はすぐ頼りなくなるだろう。それでも、裏口で足を取られることは減った。


 ソーマはその小さな成果を喜びながらも、どこか落ち着かなかった。


 石屑と陶片の舗装は、水に耐えているわけではない。ただ水を逃がしているだけだ。流れが詰まれば、また泥に戻る。土は濡れれば弱くなる。ならば、水を受けても崩れにくい材料が必要だった。


 そのとき、白い石の欠片が目に入った。


「それ、壁のやつだよ」


 リナが麻布を洗いながら言った。袖を肘までまくり、冷たい水に指を赤くしている。


「壁?」


「倉庫の奥の壁が剥がれて、去年お父さんが直したの。剥がれたのをそこに入れっぱなし」


 グレッグは厨房で仕込みをしているらしく、裏口には出ていなかった。朝の宿屋は忙しい。焼いた玉葱の匂いと、煮込みに入れる肉の脂の匂いが流れてくる。鍋の蓋が鳴り、誰かが薪を割る音がした。


 ソーマは石を鼻に近づけた。強い匂いはない。湿った灰のような刺激もない。表面は粉っぽく、爪でこすると白い筋が残る。


 観察。


 これは自然の白い石ではなく、壁材の一部だ。砂粒のようなものが混じり、表面に藁の細かな繊維もある。固まった塗り壁が剥がれたものだろう。水に触れていたはずなのに、完全には泥になっていない。


 仮説を立てよう。


 石灰を含む壁材なら、水と反応して固まったり、空気に触れて硬くなったりする性質があるかもしれない。前世の知識では、石灰は扱い方を間違えると危ない。生石灰なら水と激しく反応して熱を出す。消石灰なら粉が目や喉を傷める。だが、この欠片は古い壁材だ。すでに反応後のものかもしれない。


 だからといって、安心してよい理由にはならなかった。


「リナさん、これと同じもの、まだありますか」


「倉庫の方に少し。いるの?」


「少しだけ。あと、触った手で目をこすらないでください」


 リナは目を丸くした。


「危ないの?」


「分かりません。白い粉は、肌に悪いことがあります」


「ふうん。分からないのに、危ないかもしれないんだ」


「はい」


 リナは少し笑った。


「ソーマって、怖がりだよね」


 その言葉は軽かったが、ソーマの胸に小さく刺さった。怖がり。確かにそうかもしれない。彼はいつも失敗を考えている。漏れたらどうする。滑ったらどうする。腐ったらどうする。怪我をしたらどうする。


 けれど、怖がらない研究者を彼は信用していなかった。


 何かを変える力には、必ず触れてはいけない面がある。前世の実験室でも、白い粉はただの粉ではなかった。吸い込めば肺を傷めるもの、濡れると熱を出すもの、混ざると毒を生むもの。便利さは、たいてい危うさと同じ皿に乗っていた。


「怖がった方が、長く試せます」


 ソーマがそう言うと、リナは布を絞る手を止めた。それから、少しだけ真面目な顔になる。


「じゃあ、わたしも怖がる」


「その方がいいです」


 倉庫の奥は薄暗かった。


 乾いた藁、古い樽、塩漬け肉の木箱、使わなくなった椅子が積まれている。壁の一部は確かに塗り直されていて、その周囲に白っぽい剥落片がいくつか残っていた。リナが小さな籠を持ち、ソーマは布を手にして欠片を拾った。


 大きな塊は避けた。粉が舞うと危ない。湿らせた布で軽く包み、外へ運ぶ。


 実験場所は、裏口ではなく宿の端の空き地にした。そこなら失敗しても人の動線を塞ぎにくい。グレッグに許可を取ると、彼は少し眉をひそめながらも、古い壁材の欠片なら好きに試してよいと言った。


「ただし、厨房に粉を持ち込むな」


「はい」


「リナ、目をこするなよ」


「分かってるって」


 リナは口を尖らせたが、ちゃんと水桶のそばに立った。手を洗えるようにするためだ。ソーマはそれを見て、少し安心した。


 現地制約は、今回も多かった。


 まず粉砕する道具がない。乳鉢もない。あるのは石、木槌、布だけ。粉の細かさを揃えられない。次に、正確な配合が測れない。天秤はなく、使えるのは匙と目分量。さらに、温度も分からない。焼くなら炉がいるが、宿の厨房炉を勝手には使えない。今回は古い壁材を砕いて、水や砂と混ぜる程度に留めるしかなかった。


 ソーマは欠片を布に包み、石の上で軽く叩いた。


 乾いた音がした。陶片より柔らかい。白い粉が布の内側に広がる。少し湿らせていたので舞い上がりはしないが、指先についた粉はぬるりともざらりともつかない奇妙な感触だった。


 彼は三つの小さな皿代わりに、割れた陶器の浅い欠片を並べた。


 一つ目は、白い粉と水だけ。


 二つ目は、白い粉に砂を混ぜる。


 三つ目は、白い粉に細かな土と藁を少し混ぜる。


 どれも少量。失敗しても捨てられる程度だ。


「何を作るの?」


 リナが尋ねた。


「固まるかどうかを見ます」


「壁を直すやつ?」


「たぶん、それに近いです。でも、水に強いかも見たいです」


 水を加える。


 一つ目は、すぐに白い泥になった。滑らかだが、少し頼りない。二つ目は砂が入り、ざらつく。三つ目は藁が絡み、粘るが均一ではない。


 ソーマは指で混ぜたかったが、やめた。木片を使う。粉が肌に触れすぎない方がいい。リナにも同じようにさせた。


 小さな板の上に、それぞれを薄く塗る。厚さは揃わない。道具がないので仕方がない。だが、できる限り同じくらいにした。端に炭で印をつける。


 実験。


 日なたに置き、乾くのを待つ。


 待つ時間は、研究の中で最も地味で、最もごまかしがきかない。五歳のソーマには、それがなおさら長く感じられた。宿の裏口では人が動き続けている。リナは途中で何度も仕事に呼ばれ、戻ってきては試験片を覗いた。


「まだ?」


「まだです」


「もう固そう」


「表面だけかもしれません」


 その言葉を言いながら、ソーマは自分にも言い聞かせていた。


 表面だけ。


 庭の泥団子で失敗した。外だけ固めても中が弱ければ割れる。乾燥はゆっくり見なければならない。だが今回は、待てる時間が少ない。宿の空き地をいつまでも使えないし、夕方には片付けなければならない。


 昼過ぎ、一つ目の試験片の表面が白く乾いた。


 ソーマは木片で端を押した。


 ぼろりと崩れた。


 水だけで練ったものは、乾いても粉に戻るように割れた。指で押すと白い粉がつく。固化というより、乾燥しただけだ。


 失敗。


 胸の奥に落胆が沈む。期待していた。慎重にしようとしたのに、どこかで「白い石なら何か起きる」と思っていた。その甘さを、崩れた粉が静かに示している。


 リナはソーマの顔を見た。


「だめ?」


「これは、だめです」


「白いのだけだと?」


「はい。少なくとも、このままでは」


 二つ目を押す。砂入りのものは少しだけ形を保ったが、端から砂が落ちる。水に濡らすとすぐ弱くなりそうだった。


 三つ目は、藁があるため割れにくい。だが表面に細かなひびが走っていた。乾くと縮み、藁の周囲に隙間ができている。


 ソーマは試験片を見つめた。


 仮説が浅かった。


 古い壁材の粉を水で戻せば、また固まるかもしれないと考えた。だが一度固まった石灰系の材料を砕いて水で練るだけでは、元に戻らない可能性が高い。前世の知識でも、焼成や反応の段階が重要だったはずだ。古い壁を砕いただけの粉は、ただの充填材に近い。


 では、なぜ壁は固まっていたのか。


 元の材料が違う。作り方が違う。石を焼いたのかもしれない。砂や繊維の配合が適切だったのかもしれない。空気中で時間をかけて硬くなったのかもしれない。


 観察が足りない。


 ソーマは倉庫の塗り直された壁を見に戻った。新しい壁は、表面が白く、指で叩くと乾いた音がする。古い剥落片の断面を見ると、表面は硬いが内側には砂粒と繊維が混じっていた。壁材は単一ではない。骨材と繊維と白い結合材が組み合わさっている。


 グレッグが通りかかった。


「壁屋は、白石を焼いた粉を使うと言ってたな」


 ソーマは顔を上げた。


「焼いた粉?」


「ああ。町の外れに白い石を焼く窯がある。壁屋や左官が買っていく。水で練ると熱いから、素手で触るなと昔言われた」


 その一言で、ソーマの背筋が伸びた。


 水で練ると熱い。


 生石灰。


 いや、名前を決めるのは早い。だが可能性は高い。白い石を焼いた粉が水と反応して熱を出し、その後、壁材として使われる。古い壁の欠片を砕いても戻らない理由も説明できる。


 リナが横で首を傾げた。


「じゃあ、白い石の粉を買えばいいの?」


「危ないかもしれません」


「また怖がる」


「今回は、本当に怖がった方がいいです」


 ソーマの声が少し強くなった。水と反応して熱を出すなら、目に入れば危険だ。皮膚を傷める。密閉すれば蒸気がこもる。宿屋の子供の実験として扱うには、あまりに危うい。


 期待が胸を押し上げる。


 これが石灰なら、水に耐える壁材や床材への道が開けるかもしれない。排水路の補強にも使える。白い石の革命。その遠い言葉が、まだ形もないのに脳裏をかすめる。


 だが、期待が強いほど慎重でなければならない。


 ソーマは試験片の前へ戻った。


 修正。


 古い壁材を「固まる粉」として扱うのはやめる。これは、砂や土に混ぜて性質を見る材料とする。新しい焼いた白石の粉は、今すぐ使わない。まず古い壁材の配合を観察し、どの組み合わせが割れにくいかを見る。


 白い粉と水だけは失敗。砂だけでも脆い。藁入りはひびが出るが、割れにくい。ならば、砂を骨にし、粘りのある土を少量つなぎにし、白い粉を表面の乾きを助ける程度に入れるのはどうか。


 これは石灰の再現ではない。


 壁土の改良に近い。


 ソーマは新しく三つの配合を作った。


 一つ目、砂多め、白い粉少量。


 二つ目、砂と粘土を半々、白い粉少量。


 三つ目、砂多め、粘土少量、短い藁を少量、白い粉少量。


 水は少しずつ加えた。入れすぎると乾燥で割れる。足りなければ塗れない。正確な量は分からないため、木片で押したときに形を保ち、持ち上げるとゆっくり崩れる程度を目安にした。


 リナはじっと見ていた。


「さっきと何が違うの?」


「白い粉を主役にしないことです」


「主役?」


「さっきは、白い粉が固めてくれると思いました。でも違いました。だから、砂で形を支えて、土でつないで、白い粉は少しだけにします」


「白いの、えらくないの?」


「まだ分かりません」


 リナは少し笑った。


「分からないまま使われるの、白い石も大変だね」


 ソーマもわずかに口元を緩めた。軽い冗談だったが、嫌な軽さではなかった。リナはもう、結果だけを待つ人ではなく、試す過程の面倒さを見ている。


 再実験。


 今度は薄板ではなく、小さな溝の側面に塗った。排水路の端、失敗しても削り取れる場所だ。三種類を手のひらほどの範囲に分け、印をつける。表面を水で軽く撫で、石屑が流れないようにする。


 乾くまで待つ間、ソーマは昨日の水の地図を見直した。洗い場からの流れは、沈み場を通って壁際へ進む。問題は、溝の壁が水で削られることだった。そこに今回の材料が役立てば、裏口の舗装も少し長持ちする。


 夕方、試験した三箇所に少量の水を流した。


 一つ目、砂多めのものは表面がざらつき、水の流れで端が少し落ちた。


 二つ目、粘土が多いものは水を弾くどころか、表面がぬめった。


 三つ目、砂多め、粘土少量、藁少量、白い粉少量のものは、少しだけ持ちこたえた。水が当たると表面は濡れる。だが泥のようには流れず、藁の細い繊維が小さなひびを止めている。


 成功、と呼ぶには弱い。


 指で強く擦れば崩れる。乾ききっていない部分もある。明日になれば割れているかもしれない。


 それでも、三つの中では明らかにましだった。


 リナがしゃがんで、息を止めるように見た。


「これ、残ってる」


「はい。少しだけ」


「じゃあ、これで全部塗る?」


「まだです」


 ソーマは即座に言った。


 リナはむっとした顔をした。


「また?」


「明日の朝に見ます。乾いたあとで割れるかもしれません。水を何度も流すと削れるかもしれません。あと、匂いが出るかもしれません」


「匂い?」


「藁が腐るかもしれないので」


 リナは肩を落とした。


「うまくいったと思ったのに」


 その落胆が、ソーマには痛かった。


 彼自身も、うまくいったと言いたかった。胸の奥の期待を、誰かと分け合いたかった。小さな排水溝に塗っただけの泥が、未来の壁材や床材につながるかもしれないと、声に出してみたかった。


 だが、ここで急げば、また人の足元を危うくする。


「期待するのは、悪くないと思います」


 ソーマはゆっくり言った。


「でも、期待したまま使うと、危ないです」


 リナは少し黙った。夕方の光が彼女の髪を赤く照らし、洗い場の水面に細く揺れた。


「ソーマは、期待しないの?」


 問われて、ソーマは答えに詰まった。


 期待している。


 土属性が地味だと言われた日の沈黙を、少しずつ覆せるかもしれない。父が落胆した理由を、別の形で返せるかもしれない。リナの宿屋の裏口だけでなく、町の水場や道や壁を、少しずつ良くできるかもしれない。


 けれど期待は怖い。


 期待は人を急がせる。成功したように見えるものを、成功だと呼ばせる。まだ試していない危険を、見ないふりにさせる。


「します」


 ソーマは小さく言った。


「だから、慎重にします」


 リナはその言葉をしばらく考えていた。それから、仕方なさそうに笑った。


「じゃあ、明日の朝も見る」


「はい」


 その夜、ソーマは屋敷に戻り、父に白い石の話をした。


 古い壁材を砕いても水だけでは固まらなかったこと。砂、土、藁を混ぜた方が割れにくかったこと。白い石を焼いた粉があるらしいこと。水と混ぜると熱くなるかもしれないこと。


 ダリオはいつになく真剣に聞いていた。


「危険なら、勝手に買ってはいけない」


「はい」


「だが、壁屋に話を聞くことはできる。明日、使いを出そう」


 ソーマは顔を上げた。


「よいのですか」


「君が触らないという約束なら」


「触りません。見て、聞きます」


 父は少しだけ笑った。


「見て、聞くだけで済むかは怪しいがな」


 その笑みには、以前のような慰めの色は薄かった。代わりに、危ういものを見る大人の警戒と、それでも息子の目が何かを捉えていることへの関心が混じっている。


 ソーマは深く頷いた。


 翌朝、宿屋へ行くと、試験した三つのうち、一つ目と二つ目は端が崩れていた。三つ目も小さなひびが入っていたが、形は残っている。リナは先に見ていたらしく、得意げに指を差した。


「これ、まだいる」


「はい」


 ソーマはしゃがみ込み、ひびを見た。乾燥で縮んでいる。藁の周囲は弱い。白い粉がどの程度働いたかは分からない。だが、砂、少量の粘土、繊維という組み合わせは悪くない。


 水を流す。


 ひびの一部から細かい砂が落ちた。完全ではない。だが昨日より観察できることが増えた。


 グレッグが厨房から出てきた。


「壁屋の親方が、昼に来るそうだ。白石の粉を少し持って」


 ソーマは思わず息を止めた。


 期待が胸を叩く。


 同時に、昨日より強い慎重さが背中を押さえる。


 水で熱を出す白い粉。壁を固める材料。水に耐える地面への手がかり。だが扱いを誤れば、人の手を焼くかもしれない。


 リナはソーマの顔を覗き込んだ。


「怖い?」


「はい」


「楽しみ?」


 ソーマは白いひびの残る試験片を見た。


 期待と不安は、同じ場所から生まれているように思えた。知らないものに近づくとき、人はその両方を持つ。どちらかだけなら、たぶん足を踏み外す。


「楽しみです」


 彼は正直に答えた。


 昼、宿屋の裏口に、白い粉を入れた密閉壺を抱えた壁屋の親方が現れた。


 その壺には、布が二重に巻かれていた。


 親方は開ける前に、低い声で言った。


「子供の遊びに使うもんじゃないぞ」


 ソーマは唾を飲み込んだ。


 白い石の欠片は、ただの欠片では終わらなかった。


 次に来るのは、まだ触れてはいけない粉だった。

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