第1章 第5話 熱を持つ粉
第1章 第5話
熱を持つ粉
壺の蓋が開く前から、ソーマの喉は乾いていた。
白い粉はまだ見えていない。壁屋の親方が抱えてきた壺は麻布を二重に巻かれ、口元を紐で固く縛られている。ただそれだけのものが、宿屋の裏口の空気を変えていた。リナは無意識に一歩下がり、グレッグは腕を組んだまま口を閉じている。
見たい。触れたい。水を混ぜたときに何が起きるのか、確かめたい。
その好奇心のすぐ隣に、前世の記憶があった。この白い粉は生石灰かもしれない。危険かもしれない。
壁屋の親方は、オルグと名乗った。厚い掌を持つ背の低い男で、爪のあいだには白い粉が入り、指先の皮膚は荒れている。彼は壺を木箱に置き、ソーマを上から下まで眺めた。
「これを見たいと言ったのは、おまえか」
「はい。ソーマ・アルディスです」
「いくつだ」
「五つです」
オルグは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「五つの子供に見せるもんじゃない」
その言葉は正しかった。ソーマは反論しない。
「触りません。近づきすぎません。ただ、水と混ぜるところを見たいです」
「水と混ぜると、少しだけでも熱を持つ。目に入れば、泣くだけじゃ済まん。濡れた手で掴めば、皮が荒れる」
「分かりました」
「分かってる顔じゃない」
声は厳しかった。だが怒りというより、長年の事故の記憶が声になったような響きがある。白い粉を扱ってきた職人の手は、危険を知っている手だった。
ソーマはその手を見た。指の腹は厚く、爪の横は荒れている。粉に触れ続ければ、皮膚を傷めるのだろう。前世の言葉なら強いアルカリ性かもしれない。だがこの世界では、難しい名より「素手で触るな」の方が人を守る。
「親方は、どうやって扱っていますか」
オルグは少し眉を動かした。
「風の強い日は開けない。乾いた桶に入れる。水を一気にかけない。顔を近づけない。濡れた粉を素手で混ぜない。使い終わったら手を洗う」
短い言葉だったが、ひとつひとつに現場の重さがあった。
「同じようにします」
「おまえがするんじゃない。俺がする。おまえは見るだけだ」
リナが横で小さく息を吐いた。ソーマも同じように、胸の奥で息を吐いた。自分が直接触らないと決めていたはずなのに、親方に言われて初めて、触れずに済むことへ安心した。
実験場所は、裏口から離れた空き地にした。人が通らず、風が弱く、水桶が近く、こぼれても土をかぶせられる場所だ。グレッグが古い板を敷き、リナが水桶を運ぶ。
オルグは準備を見て、鼻を鳴らした。
「子供の遊びにしては、ましだな」
「遊びではありません」
「なら、余計に厄介だ」
ソーマは黙った。遊びなら途中で飽き、危なければ叱って終わりにできる。だが研究は危険の理由を知ろうとする。知れば使える。使えれば、もっと試したくなる。その先で人が怪我をすることもある。
好奇心は恐怖を超えることがある。だから手順がいる。
ソーマは木板に炭でやることを三つ記載した。
一つ目、粉だけを見る。
二つ目、水を少量混ぜたときの変化を見る。
三つ目、水と反応させて冷ました材料へ砂を混ぜる。
この粉が本当に生石灰なのか、異世界の別の鉱物なのかは分からない。だが、「焼いた白石の粉」「水で熱を持つ粉」「壁材になる粉」という性質は記録できる。
オルグは壺の布を外した。
乾いた白が現れた。
雪のような白ではなく、少し灰色がかった細かな粒と小さな塊だ。ところどころに、焼けた石の欠片らしいものも混じっている。
匂いはほとんどない。けれど鼻の奥がわずかに乾くような気がして、ソーマは一歩下がった。リナも同じように下がる。
オルグは乾いた木匙で粉をほんの少し陶片に取り、匙の先で広げた。
「これが焼き白石だ」
「焼く前の石は、どこで取れますか」
「町の北の崖だ。白い筋の入った石を掘る。重くて脆い。窯で焼くと軽くなる」
焼くと軽くなる。
炭酸塩が分解し、二酸化炭素を失えば質量は減る。前世の知識と一致する。だが、ここで考え込んではいけない。
観察が先だ。
「水を落とすぞ」
オルグが言う。リナが小さな匙に水を入れて渡すと、オルグは粉の端へ一滴だけ落とした。
白い粉が、じゅ、と小さく鳴った。
音はごくわずかだった。だが水の落ちた場所はすぐ濡れ、白い粒が崩れ、細かな湯気のようなものが立った。湿った石と熱い埃の匂いが、ソーマの鼻に届く。
胸が高鳴った。
反応している。
水を吸っているだけではない。熱を出している。粉の色は大きく変わらないが、粒は崩れ、膨らむように見える。
「見たか」
「はい」
「これを手の上でやる馬鹿が、たまにいる」
リナが顔をしかめた。
「痛そう」
「痛いで済めばいい」
ソーマは陶片の上の白い泥を見つめた。
仮説。
焼き白石は水と反応して熱を出し、別の白い粉、あるいはペーストへ変わる。十分に反応させてから使えば、壁材として扱える可能性がある。反応前の粉を直接混ぜれば、あとから熱を出して膨れやひびを生むかもしれない。
「壁に使うときは、水を混ぜてからどれくらい置きますか」
「その日のうちには使わん。大きな桶で水を入れ、熱が落ちるまで待つ。よく練って、翌日以降に砂と混ぜる。急いで使う奴もいるが、俺は嫌いだ。壁が暴れる」
「暴れる?」
「膨れる。割れる。剥がれる」
未反応の粒が残れば、あとから水を吸って膨張し、内部で割れるのだろう。現場の言葉と前世の知識が、初めて噛み合う感覚があった。
気分が高揚していたのかもしれない。ソーマは危うく前へ出かけ、すぐに足を止めた。靴先が板の縁を越えかけている。
「近い」
「すみません」
好奇心に引かれた。怖がると言ったばかりなのに、反応を見た瞬間、体が前へ出ていた。
触れてはいない。怪我もしていない。だが、手順を破りかけた。危険物の前では、それだけで失敗だ。
ソーマは一歩下がり、両手を握った。
「今のは、僕が悪かったです」
「大丈夫?」と、リナが心配そうに尋ねる。
「はい。でも、近づきすぎました」
オルグはしばらく黙り、やがて短く言った。
「自分で言えるなら、まだましだ」
許されたわけではない。だが続ける余地は残してもらえた。
修正。
ソーマは地面に小石で線を引いた。これより内側へ近づかない線だ。リナにも線の外にいてもらう。水桶は線の外。粉の壺はオルグの足元。混ぜる陶片は板の中央。風が出たら中止する。
実験そのものより、安全の配置を先にした。
オルグは少しだけ目を細めた。
「線を引くのはいい。現場でもやる」
「粉が落ちたら、どうしますか」
「乾いたままなら集める。濡れたら水を多めにかけ、熱が引くまで触らん。目に入ったら、とにかく水で洗う」
「布で拭くのは?」
「こすれば余計に悪くなる。水で洗う」
ソーマは木板へ、目と水、触らない、こすらない、という印を足した。リナにも分かるよう、文字は簡単にする。
次にオルグは、少し多めの粉へ水を数滴ずつ落とした。粉は水を含むたびに崩れ、小さな塊を作る。水が少なすぎると乾いた粒が残り、多すぎると白い泥が跳ねる。オルグは匙で押し潰しながら、ゆっくり混ぜた。
「水を一気に入れない理由が分かるか」
「熱と、粉が跳ねるからですか」
「それと固まりが残る。外だけ濡れて中が乾いた粒があると、あとで悪さをする」
外だけ濡れて中が乾く。
庭の泥団子も、壁材も、焼き白石も同じだった。表面だけでは駄目だ。内部まで見なければならない。目に見えない場所の差が、あとから割れや崩れになる。
土や石に触れると、密度や粒の詰まり方がぼんやり分かることがある。焼き白石に触れれば、未反応の粒も分かるかもしれない。そう思った瞬間、また好奇心が首をもたげた。
触りたい。
だが、触らない。
ソーマは指を握ったまま、見続けた。
白い泥はしばらくすると熱が落ち着いた。オルグは冷めたことを確かめてから、陶片の端に少し広げ、砂を加える。砂は石工からもらった粗いもので、粒の大きさも色も揃っていない。
「本当は、砂も選ぶ。丸すぎる砂は弱い。泥が多すぎる砂もよくない。だが貧乏な現場は、ある砂でやるしかない」
グレッグが苦笑した。
「うちは貧乏な現場だな」
「宿屋の裏口に上等な砂を使う奴はいない」
材料の質、値段、運搬、時間。規格品を買えるわけではない。使えるものを見て、その場で調整するしかない。
オルグは、水と反応させて冷ました白石を「消した白石」と呼んだ。それに砂を混ぜ、小さな団子にする。藁を少し入れたものと、入れないものの二種類だ。
「昨日の古い壁材より、粘りが違います」
「当たり前だ。死んだ壁を砕いた粉と、今消した白石は違う」
死んだ壁。
反応を終えたものは、反応前の粉と同じ性質ではない。その言い方が胸に残った。
オルグは小さな板に二種類を塗りつけた。藁なしは滑らかだが、厚く塗ると垂れる。藁入りは荒いが、形を保ちやすい。
リナは線の手前で止まり、顎に手を置いて見ていた。彼女もまた、好奇心を抑える側に立っている。
昼を過ぎるころ、試験片は表面が乾き始めた。だがオルグは、水をかけることを許さなかった。
「急ぐな。若い壁をいじめると割れる」
水と粉と砂を混ぜたばかりのものは、まだ変化の途中だ。乾き、空気に触れ、少しずつ硬さを得る。その時間を無視すれば壊れる。
夕方、二種類の端へ少量の水を流した。藁なしは表面が少し溶け、白い濁りが水に混じった。藁入りは表面が荒いぶん水を受け止めたが、藁の周囲には小さな隙間が見える。
どちらも完全ではない。それでも、昨日の古い壁材より明らかにまとまりがあった。
これは使えるかもしれない。
だが、まだ早い。
「明日の朝、また見たいです」
「当然だ。今日だけ見て、分かった気になるな」
「はい」
「それと、この粉は宿に置かない。俺が持ち帰る」
一瞬、残念に思った。だがすぐに頷く。
「その方がいいです」
リナも、ほっとした顔をした。
片付けは実験と同じくらい慎重に行われた。木匙は水で洗い、その水は人が歩かない土場へ流す。粉のついた布はまとめて濡らし、熱が出ないことを確かめてから処分する。試験片は触らず、板ごと端へ移す。
ソーマは粉に直接触れなかった。
触れずに終えたことに、少しだけ誇らしさを覚えた。変な誇りだと思う。だが今日、それは大切だった。
帰り際、オルグがソーマを呼んだ。
「おい、坊主。白石は便利だ。壁を強くする。湿気にも少し耐える。だが、知らない奴が扱えば怪我をする。知っている奴でも、手を抜けば怪我をする」
「はい」
「それでも知りたいか」
問いは重かった。
好奇心は消えない。恐怖も、消してはいけない。
「知りたいです。でも、急ぎません」
オルグはしばらくソーマを見てから言った。
「なら明日は窯場に来い。焼く前の石と、焼いたあとの石を見せてやる。触るのは、まだ駄目だ」
ソーマは息を呑んだ。
窯場。白い石が熱によって変わる場所。温度を測る道具はなくても、火の色、石の音、重さ、割れ方、職人の経験がある。
次の扉が開いた。
その夜、ソーマは何度も手を洗った。今日は直接粉に触れていない。それでも、指先には陶片を選んだときの古い傷があり、水が染みる。
木板に今日の出来事を書き写す。
水を一気に入れない。顔を近づけない。線を引く。熱が落ちるまで触らない。目に入ったら水で洗う。粉は持ち帰らない。
それは発明の記録というより、失敗しないための記録だった。
前世の研究室にも、規則、手袋、換気、表示、廃液容器があった。面倒に思ったこともある。だが、それらは誰かの失敗の後に作られたものだったのだろう。
この世界では、まだ失敗の記録が少ない。
ならば作るべきものは、材料だけではない。扱い方も作らなければならない。
明日、彼は窯場へ行く。白い石が火の中で何を失い、何を得るのかを見る。
「仮説を立てよう」
白い粉は、水を加えると熱を持つ。
ならば、その熱を生む前に、石は火の中で何を抱え込んだのか。
答えは、窯の中にある。
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