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第1章 第3話 水の道

第1章 第3話


水の道


 洗い場の水は、絶え間なく裏口へ流れ込んでいた。


 桶を傾けた直後は、ただの水に見える。湯気の残る流れが木桶の足元を濡らし、灰色の泡を浮かべ、やがて土へ吸われる。だがしばらくすると、裏口の石屑の端が濡れ、昨日まで固かった表面が指で押すとわずかに沈んだ。


 ソーマは背中の奥が冷えるのを感じた。成功したと思った地面が、もう元のぬかるみに近づいている。土が弱かったのではない。原因となる排水を止めていなかったのだ。


 朝の《鷹のくちばし亭》は、表と裏で別の顔をしていた。表通りには焼きたてのパンの匂いと馬車の音がある。けれど裏口には、湯気、灰、油、泥、野菜屑の酸っぱい匂いが混じり、働く人の足音が絶えなかった。


 リナは髪を布でまとめ、腕まくりをして木桶を洗っている。昨日より少し緊張しているように見えた。


「やっぱり、だめ?」


 ソーマはすぐに答えられなかった。


 だめと言えば、昨日の成果を否定するようだった。だが、うまくいっているとも言えない。石屑を敷いた場所は滑りにくくなったものの、洗い場から水が流れ続ける限り、端からぬかるみに戻ってしまう。


「地面だけでは、足りません」


 ようやくそう答えると、リナは洗い場から裏口までの濡れ跡を見た。


「水が流れてくるから?」


「はい」


「じゃあ、ここで水を捨てなければいいの?」


「それは、できませんよね」


「できない。朝はずっと洗い物があるし、厨房に水をこぼしたらもっと怒られる」


 生活は止められない。鍋を洗い、野菜を洗い、手を洗い、床を流す。その水がどこかへ行かなければ、働く場所が汚れていく。


 ならば、水に道を与えるしかない。


 観察。


 ソーマはしゃがみ込み、洗い場から裏口までの地面を見た。水はまっすぐ流れているようで、実際には小さなくぼみを拾いながら蛇行している。低いところに溜まり、踏まれると広がり、荷物に押されると別の溝を作る。


 土の表面には、灰汁と油、細かな土が混ざった灰色の膜があった。触るとぬるりとし、指先に苦いような匂いが残る。前世の研究室なら手袋をしただろう。だが、ここには手袋も消毒液も排水基準もない。


 あるのは井戸水と布と灰と人だった。


 グレッグが濡れた鍋を持って裏口から顔を出した。


「また難しい顔だな」


「水を逃がす道を作りたいです」


「溝か?」


「はい。ただ、まっすぐ流すだけだと、泥も一緒に流れて詰まると思います」


「詰まる?」


「洗い水には土や灰、食べかすが混じっています。低いところで溜まります」


 ソーマは洗い場の脇にある古い桶を見た。底にひびが入り、水を溜めるには使えない。横には割れた大鉢が置かれている。


 仮説を立てる。


 水をいきなり地面へ流さず、一度どこかで受ける。重い泥や野菜屑を沈ませ、上の水だけを浅い溝へ逃がす。完璧な汚水処理はできない。だが泥を減らせば、裏口の舗装は長持ちするかもしれない。


「沈ませる場所が必要です」


 リナが首を傾げた。


「沈ませる?」


「泥や細かいものは、水の動きが遅くなると下に落ちます。全部ではありませんが」


 油は浮くものもある。野菜屑は放置すれば腐る。臭いが出ず、掃除できることも必要だった。


 グレッグは古い桶を見た。


「その壊れ桶を使うのか」


「内側に粘土を塗れば、少しの間は水を受けられるかもしれません」


「少しの間?」


「試験用です。長く使えるかは分かりません」


 グレッグは短く笑った。


「君は本当に、分からないことを分からないと言うんだな」


 褒められたのか呆れられたのか、ソーマには分からない。けれど、分からないものを分かったふりはできなかった。今回は実験だけではない。人が歩く場所が崩れる。


 作業の前に、ソーマは父から借りた小さな木板と炭片を取り出した。羊皮紙は高価すぎる。木板に洗い場、裏口、薪置き場、壁を簡単に描く。


 リナが覗き込んだ。


「地図?」


「水の地図です」


「水にも地図がいるの?」


「水は低い方へ行きます。でも低い場所は、見ただけでは分かりにくいので」


 勾配を測る道具はない。そこでソーマは、水そのものを使った。リナに柄杓で少量ずつ流してもらい、どこへ進むかを木板に記す。流れが合わさる場所、止まる場所、急に広がる場所を確かめた。


「ここ、毎回止まる」


「そこが低いです」


「こっちは見た目だと、へこんでないよ」


「土の中が詰まっているのかもしれません」


 グレッグは、厨房から出てくる者たちに「そこを踏むな」と声をかけていた。宿の仕事を止めることはできず、ソーマたちは人の流れの合間を縫って木板と桶を避ける。


 制約は多かった。溝は深いと足を取られ、広いと荷運びの邪魔になる。臭いが出ても駄目で、毎日掃除できなければただの汚物溜めになる。使える材料は、壊れ桶、粘土、陶片、石屑、藁、灰だけだ。


 前世なら沈殿槽や排水勾配という言葉が浮かぶ。だが言葉だけでは役に立たない。目の前の宿に置けるものにしなければならない。


 ソーマは壊れ桶を洗い、内側に粘りのある土を塗った。リナが藁を短く切って土へ混ぜる。藁がひび割れを減らすかもしれないが、多すぎれば水が漏れる。


 粘土を多く、藁は少し。土魔法で内側を薄く締め、底のひびには陶片を当て、その上から粘土を押し込んだ。


 見た目は悪くない。


 桶に水を入れると、最初のうちは保っていた。リナが笑い、グレッグも「お」と声を漏らす。


 だが半刻もしないうちに、桶の底から細い水が滲み出した。ひびの脇だけではない。粘土を塗った面全体から、汗のように水が出る。やがて陶片の端から大きな滴が落ちた。


 失敗だった。


「漏れてる」


「はい」


 ソーマは耳の奥が熱くなった。試験だと分かっていても、期待を向けられた場所で失敗を見せるのは苦しい。


 桶の水は茶色く濁っていた。細かな粘土が水に溶け出している。締め方が足りないのか、土が合わないのか。それとも、乾かさずに使ったこと自体が無理だったのか。


 観察へ戻る。


 漏れはひびだけではない。水を受ける器として使うなら、乾燥や焼成が必要だ。今すぐ使う応急の沈み場には、粘土の内張りだけでは足りない。


 では、逆に考える。


 完全に溜める必要はあるのか。


 水を長く保持するのではなく、一度勢いを弱めるだけでよい。桶の底に小石と陶片を入れ、泥をそこで捕まえ、上の水を横へ逃がす。漏れるなら、漏れる先を決めればいい。桶ではなく、小さな沈み場として使う。


「全部を止めようとしたのが、悪かったです」


「使えない?」と、リナが不安そうに尋ねる。


「形を変えます。水を溜める桶ではなく、泥を落とす場所にします」


 グレッグは腕を組んだ。


「掃除はできるのか」


 重要な問いだった。沈んだ泥を取り出せなければ、すぐに詰まる。籠はないが、割れた大鉢と粗い布がある。


「もう使わない古い布はありますか」


 リナは厨房へ走り、裂けた麻布を持ってきた。粉袋だったものらしい。


「これなら捨てるやつ」


「使わせてください」


 修正。


 桶の底に大きめの陶片を敷く。その上に石屑を入れ、粗い麻布を一枚敷く。洗い場の水はまず桶へ入り、重い野菜屑や泥は麻布の上に残る。水は石屑の隙間を通り、桶の低い側から浅い溝へ出る。


 溝は裏口の中央ではなく壁際を通し、果樹のある小さな土場へ逃がす。土場にも小石を多めに入れ、表面だけ土をかける。あくまで範囲を限った試験だ。


 グレッグが、幅を指三本ほど、靴底が引っかからない深さの溝を掘った。リナが石屑を運ぶ。ソーマは底を土魔法で軽く締め、ときどき小さな陶片を置いて水の通り道を保った。


 勾配は、少量の水を流して確かめる。速すぎれば土を削り、遅すぎれば溜まる。ちょうどよい傾きは、道具なしには分からない。ソーマは水の光り方、泡の止まり方、泥の動きを見る。


 途中で一度、溝の向きを間違えた。


 水は壁際へ行くはずが、裏口の舗装の下へ戻った。石屑の隙間から黒い水が滲み、リナが「あ」と声を上げる。


 ソーマは息を呑んだ。


「止めてください」


 水を止めてもらい、濡れた部分を掘り返す。焦りで手元が乱れ、爪のあいだに小石が食い込んだ。痛みに顔をしかめながら、息を整える。


 急いではいけない。


 水は、思った道を通らない。低い方へ行き、隙間があれば入り込む。人間の都合を考えてはくれない。


 溝を少し外側へ振り、出口の土を削った。再び少量の水を流す。今度は壁際に沿って進み、土場まで届いた。


「今度はいった」


「まだ少し速いです」


「速いとだめなの?」


「土を削ります」


 出口に小石を足し、小さな段差をつけて勢いを弱める。粗末な溝だったが、水の流れは少しやわらいだ。


 再実験。


 洗い場で実際に桶を洗ってもらう。灰色の水が壊れ桶へ入る。布の上には小さな野菜屑と泥が残り、水はゆっくり石屑を通って横へ出る。浅い溝を流れ、裏口の舗装を避けて土場へ届いた。


 完全ではない。油の薄い膜は水面に浮き、細かな濁りは流れた。溝の途中にも少し泥が沈む。匂いも消えない。


 それでも、裏口へ直接広がる水は明らかに減った。


 グレッグは黙って見ていた。仕事の邪魔にならないか、臭わないか、掃除できるかを確かめるように目を動かす。


「毎日、掃除できるなら使えそうだ」


 ソーマは肩が少しほどけるのを感じた。桶は漏れた。溝の向きも間違えた。だが修正できた。完全ではなくても、使いながら観察できる形になった。


 リナは布の端をつまみ、桶の中を覗いた。


「これ、毎日わたしが捨てるの?」


「嫌なら、別の人に」


「嫌じゃないけど……臭くなったら嫌」


「臭くなる前に捨てる方がいいです」


「じゃあ朝と夜?」


「最初は、それがいいと思います」


 リナは真面目な顔で頷いた。


「分かった。見るところ、教えて」


 見るところ。


 それは、作ったものを渡して終えることとは違う。使う人が変化を見て、悪くなる前に気づく。使い続けるには、そのための観察も必要だった。


 ソーマは桶の中を指した。


「布の上に泥がたくさん溜まったら、流れにくくなります。水がここから溢れたら止めてください。溝の途中に水が残る場所が増えたら、そこに泥が溜まっています」


 リナは一つずつ頷いた。


 夕方まで、何度か水を流した。粘土の内張りは少しずつ剥がれ始めたため、ソーマは木板に漏れ、剥がれ、泥の溜まり方を線と印で残した。リナにも分かるよう、文字はほとんど使わなかった。


 日が傾くころ、裏口のぬかるみは昨日より乾いていた。湿りも匂いも残る。けれど、足を置いたときのぬるりとした怖さは少ない。グレッグが鍋を持って歩いても、靴は滑らなかった。


「ちょっと安心」


 リナの声は派手な喜びではなかった。だがソーマには、深く聞こえた。


 安心。


 技術が最初に与えるべきものは、それかもしれない。驚きや称賛ではなく、明日も同じように歩けるという静かな感覚。


 帰る前、グレッグはソーマに布で包んだ焼き菓子を持たせた。


「礼だ。まだ試しだから大したものは出せんが」


「いただけません。まだ完成していません」


「完成していないなら、次に来る理由があるだろう」


 返す言葉に詰まると、リナが横から包みを押しつけた。


「もらって。お父さん、こういうとき引かないから」


 ソーマは両手で受け取った。


「ありがとうございます」


 屋敷へ戻る道で、ソーマは焼き菓子の包みを抱えながら考えていた。水の道はできた。だが応急の道だ。強い雨なら溢れるかもしれない。布を替え忘れれば腐り、油が増えれば詰まる。人が溝を踏み崩すこともある。


 ひとつ作ると、十の不安が見える。


 前世でもそうだった。試作が通ると、次は耐久性、安全性、費用、廃棄の問題が来る。だが今は、そのどれもが人の顔をしていた。リナの手。グレッグの腰。厨房で働く人の靴。宿に泊まる旅人の足。


 責任は、技術のあとから来るのではない。最初から、そこに混じっている。


 その夜、ソーマは父に報告した。壊れ桶の沈み場、浅い溝、布の掃除、失敗した粘土の内張り。ダリオは黙って聞き、最後に短く言った。


「宿の裏口を、君の実験場にしてはいけない」


「はい」


「だが、宿の者が必要としていて、君が戻す責任を持つなら、学ぶことはある」


 父の声は厳しい。けれどそこには、昨日よりはっきりした関心があった。


 自室に戻り、ソーマは木板の水の地図を眺めた。炭の線は指でこすればすぐ薄れる。正確でも、保存に向くものでもない。それでも、今日の流れはそこに残っている。


 焼き菓子の包みを開くと、欠けた小さな菓子が出てきた。蜂蜜の甘さの奥に、少し焦げた香ばしさがある。噛むとほろりと崩れ、指に粉がついた。


 石屑も土も灰も、細かくなれば水に運ばれる。ならば逆に、細かな粉を固められれば、もっと強いものになるのではないか。


 宿の壁際にあった、灰とは違う白っぽい石の欠片を思い出す。グレッグは、古い壁を直したときに出たものだと言っていた。


 水に弱い土ではなく、水を受けても固くなる材料。


 そんなものが、この世界にもあるのだろうか。


 水の道は、ひとまずできた。


 だが、水に耐える地面はまだない。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

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