第2章 第35話 記録なき実験を禁ず
第2章 第35話
記録なき実験を禁ず
扉を叩いた音は、思ったより長く響いていた。
木の板一枚の向こうは静かだった。市場の喧騒を背にしてきたばかりのソーマには、その沈黙が蓋をした壺の内側のように感じられる。
試料箱の紐を握る指に力が入った。
もう一度叩こうとしたところで、扉が内側へ開いた。
出てきたのは、背の高い老人だった。痩せているのに弱々しい印象はない。灰色の髪は後ろで雑に結ばれ、片方の眉の端には古い火傷の跡があった。
老人はソーマを見て、次にユーリを見て、戸口の外で待つセドへ視線を移した。
「魚屋の溝を触った子供は、お前か」
最初の言葉がそれだったので、ソーマは用意していた挨拶を失った。
「……僕です。近づきすぎて、袖を濡らしました」
「少しで済んだなら運がいい。入れ。敷居の左は踏むな」
石床の左側には、縄で囲まれた白い傷跡があった。
「昨日、酸をこぼした。乾いていても危ない」
ソーマは縄の内側を避けて一礼した。
セドは戸口の外から言う。
「私はここで待ちます。何かあれば呼んでください」
ユーリも麻袋を足元へ置いた。
「俺も戸口で待つ」
「余計な風を入れるな」
フェルド老師はそれだけ言って、背を向けた。
工房の中は、想像していた錬金術師の部屋とは違っていた。
黄金の塊も、宝石の山も、怪しげな大釜もない。壁際の棚には陶器の瓶、布袋、石片、細いガラス管が整然と並ぶ。瓶には木札が結ばれ、日付、採取場所、処理の回数らしい文字が書かれていた。
床の一角には、黒い泥、赤い砂、白い粉、銀色の細片を入れた浅い皿が置かれている。
「名前」
「ソーマ・アルディスです」
「年」
「十二です」
「属性」
「土です」
「なぜ来た」
「錬金術を学びに来ました」
「錬金術とは何だ」
ソーマは口を開きかけて、止まった。
市場では、金を作る術だと言われていた。だが、フェルド老師が集めたと聞いたのは、川砂、錆びた釘、魚の腹から出た砂だった。
けれど、それらはまだ噂と目撃談にすぎない。
「分かりません。だから、学びに来ました」
フェルド老師は、ほんの少しだけ眉を動かした。
「分からないと言えるなら、まだましだ。記録帳を出せ」
ソーマは荷を下ろし、布に包んだ記録帳を机へ置いた。
フェルド老師は手を洗い、布で水気を拭いてから帳面を開く。数ページめくり、宿屋の裏口、白い石の粉、泥団子、粘土の沈降、焼成試験の記録を黙って読んだ。
やがて、老人は帳面を閉じた。
「悪くない」
ソーマの胸がわずかに軽くなる。
「だが危ない」
軽くなったものが、そのまま落ちた。
「お前の手つきではない。記録が危ない。観察と推測が同じ行に混ざっている。これでは次に同じ失敗をする」
フェルド老師は、白い石の粉のページを指で叩いた。
「『水を入れると熱を持つ。おそらく焼いた白石が水を取り込む』。前半は観察だ。後半は推測だ。混ぜるな」
「はい」
「ここもだ。『炉の奥は火が強く、皿が割れた』。書くべき観察は、炉の奥に置いた皿が割れたことだ。火が強いから割れた、は解釈にすぎない」
乾燥不足、厚み、粘土の違い、置いた場所。
原因候補を並べられると、ソーマは息を詰めた。
記録帳の行き止まりを感じたのは、原因が多すぎたからだった。それなのに、帳面の中では、ときどき一つの理由へ結びつけていた。
フェルド老師は、欠けた皿の補修の記録を開く。
「『本体は焼き物なので土魔術が効きにくい』。効きにくいのか。効かなかったのか。お前の力が足りなかったのか」
「……少なくとも、その時の僕には効きませんでした」
「ならそう書け。自分にできなかったことを、材料の性質にすり替えるな」
できなかった。
分からなかった。
そう書くことを、ソーマは避けていた。
「工房では、記録なき実験を禁ず」
フェルド老師は言った。
「記録とは文字の量ではない。見たこと、したこと、考えたことを分けることだ」
ソーマは頷いた。
胸は痛かった。けれど、否定されたのは七年分の時間ではない。積み方だった。
「セドが持っている布を出せ」
「布?」
セドが戸口から、小さな蓋つきの容器を差し出した。
「今朝、魚屋の溝で濡れた袖を洗った時の布です。回収してあります」
フェルド老師は容器を受け取り、小さな木皿、井戸水の瓶、竹の匙、乾いた布を机に並べた。
「今日の試料はこれだ。書け」
「何を」
「まず、見えることだけ」
ソーマは帳面を開いた。
湿った布。
灰色の染み。
黒い粒。
生臭い匂い。
そこで手が止まる。匂いは分かる。けれど、それが魚の脂なのか、汚泥なのかは分からない。
黒い粒。灰色の染み。湿った布。細かい粉。
そこまで書くと、フェルド老師は頷いた。
「次に、これからすることを書け。手が先に動く者は事故を起こす」
その言葉に、ソーマは昨日を思い出した。
道にこぼれた未知の粉へ、土魔術を使って灰を舞わせた。焦りが、記録より先に手を動かした。
ソーマは書く。
乾いた布で試料布を軽く叩く。落ちた粒を木皿で受ける。水を一滴落とす。変化を見る。必要なら二滴目を加える前に記録する。
「よい」
乾いた布で試料布を叩くと、黒い粒と灰色の粉がわずかに落ちた。
ソーマは、黒い粒の重さを確かめたくなった。
土魔術なら、重さが分かるかもしれない。
指先が動きかける。
だが、書いていない。
ソーマは手を膝の上へ戻した。
フェルド老師は、その動きを見逃さなかった。
「何をしようとした」
「土魔術で、黒い粒を見ようとしました」
「記録には?」
「ありません」
「なら使うな」
「はい」
ソーマは木皿へ視線を戻した。
失敗しなかったわけではない。使いたい衝動を、自分で止めただけだ。
だが、止めることも手順の一つなのだと思った。
フェルド老師は水を一滴、木皿の端に落とした。水は粉の間へゆっくり染み、軽い灰色の粉を広げ、黒い粒を残した。
「二滴目」
ソーマは変化を書いてから言った。
二滴目で濁りが広がり、黒い粒の周囲が少し見えやすくなる。
「反応を見る時も同じだ」
フェルド老師は別の小皿を取り出した。
「これは私が性質を把握している試料だ。石灰ではない。お前は名前を知る必要がない。ここに、私が用意した少量の酸性の液を一滴落とす」
老人は小皿を離れた位置へ置き、ソーマへ後ろへ下がるよう合図した。
透明な液が一滴落ちる。
白い粉の表面に、小さな泡が立った。かすかな音がして、酸っぱい匂いが少し強くなる。
「泡が出た。これは観察だ。熱を持ったかどうかは、判断するな。匂いはあるが、何の匂いかは推測だ。白い粉の正体も、反応の名も、まだ書くな」
泡はすぐに弱まり、湿った白い塊だけが残った。
派手な変化ではない。
けれど、ソーマの胸には市場で聞いた爆発の噂より強く残った。
静かな泡一つでも、材料は何かを語る。
ただし、聞き取るためには見方を整えなければならない。
「お前は、現象を見ようとしている。それはよい」
フェルド老師は小皿を脇へ寄せた。
「だが、見たものを急いで物語にする。原因を決め、意味をつけ、次へ進もうとする。子供の足で走れば転ぶだけだ」
ソーマは記録帳を見下ろした。
前世の記憶があっても、今の自分の手は十二歳の手だ。魔力量も、腕力も、社会の中での信用も、まだ子供のものだった。
「明日から来い」
ソーマは顔を上げた。
「いいんですか」
「よいとは言っていない。来いと言った。最初の課題を出す」
フェルド老師は古い紙束を三つ、机に置いた。
観察。
条件。
解釈。
「お前の記録帳を、この三つに分け直せ。見たこと。やったことと条件。考えたこと。混ざっている行は切り分けろ。分からないものは分からないと書け。空白を恐れるな」
「全部、ですか」
「全部だ。できないなら、錬金術はまだ早い」
ソーマは紙束を見つめた。
故郷から持ってきた記録は、自分の支えだった。それをほどき直すのは、積み上げた石を崩すようで怖い。
けれど、崩さなければ中に混じった砂利も分からない。
リナが藁の長さを揃えてくれた日を思い出す。
グレッグがひとつまみの量を決めた日を思い出す。
オルグが、材料を見ろと言った日を思い出す。
どれも、急いで形にする前に、ばらつきを減らすための手順だった。
「やります」
声は少し掠れたが、逃げるための言葉ではなかった。
フェルド老師はユーリの方を見た。
「明日も連れてこい」
「俺、こいつの保護者じゃないんだけど」
「案内料を取れ」
ユーリはソーマを見た。
「昨日と同じ銅貨三枚でいいか」
「お願いします」
「真面目だなあ」
ユーリは呆れたように笑ったが、その目は悪くなかった。
工房を出る前に、ソーマは扉の横の木札を見た。
記録なき実験を禁ず。
来た時には、厳しい戒めに見えた。
今は少し違う。
失敗も、恥も、分からなさも、記録すれば次の足場になる。
外へ出ると、ラウゼンの午後の匂いが戻ってきた。市場の甘さは遠のき、職人街の煤と熱い石の匂いが強い。
ユーリが、紙束を抱えたソーマを見た。
「大変そうだな」
「うん」
「怖かったか?」
「怖かった」
「期待外れだったか?」
ソーマはすぐには答えなかった。
追放錬金術師は、優しい師ではない。積み上げてきたものの弱さを、最初の机で突きつけてきた。
それでも。
「期待していたより、怖かった。でも、期待していたより、本物だった」
ユーリは少し笑った。
「それ、本人に言うなよ」
「言わない」
ソーマは紙束を胸に抱え直した。
宿へ戻ったら、まず白い石の記録から分け直そう。
観察。
条件。
解釈。
分からないことを書く。
それは、思っていたより難しい課題だった。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。
また次話でお会いしましょう!




