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第2章 第36話 三つの記録帳

第2章 第36話


三つの紙束


 ラウゼンの夜は、故郷の夜より明るかった。


 窓の外では職人街の炉がまだ燃えている。遠くの煙突から立ちのぼる煙は、炉の明かりを受けて赤く染まっていた。薄い板壁の向こうから、荷車の軋み、酔った客の笑い声、水路を流れる水の音が途切れずに届く。


 ソーマは宿の机に、三つの紙束を並べたまま、しばらく手を動かせずにいた。


 観察。


 条件。


 解釈。


 フェルド老師が渡した紙束には、それぞれ一語だけが書かれている。


 だが、その三つは、これまで一冊の記録帳へ押し込んできたものを、ほどいて分けろと言っていた。積み上げた石垣を一度崩し、石と砂と泥に選り分けるような作業だ。


 夕食は、女将が部屋まで運んでくれた黒麦パンと豆の煮込み、干し肉を浮かべた薄いスープだった。香草と脂の匂いが湯気とともに立ちのぼる。


 腹は空いていた。昨日から歩き詰めで、今日は市場を回り、フェルド老師の工房では緊張しっぱなしだった。


 それでも、パンを半分食べたところで手が止まった。


 ――明日から来い。


 老師はそう言い、最初の課題として、記録を三つに分け直せと命じた。


 全部だ、とも言われた。


 けれど、夜が明けるまでに七年分の帳面を分け終えるのは無理だ。ソーマは、今夜は古い記録のうち、最初に読み返すべき頁だけを三つの紙束へ写し取ることにした。分け方そのものが間違っているなら、残りを急いでも意味がない。


 ソーマは深く息を吐き、古い記録帳を開いた。


 最初の方の頁は、まだ字が幼い。五歳の頃、庭の泥を固めようとし、外側だけが硬くなって割れてしまった時の記録があった。線は曲がり、量は「少し」「多め」「水をたくさん」と曖昧だ。今読むと、胸の奥がむず痒くなる。


 けれど、その拙さを笑う気にはなれなかった。


 あの頃の自分は必死だった。土属性しか使えないと言われ、役に立たない属性だと思われ、それでも何かできることを探していた。泥団子ひとつにも、自分の居場所がかかっていた。


 ソーマはペンを取り、まず「観察」の紙束に書いた。


 泥団子。表面が硬くなった。内側は柔らかかった。乾いた後に割れた。割れ目の内側は湿っていた。


 次に、「条件」の紙束を開く。


 庭の黒土。水量不明。手で丸めた。日なたに置いた。置いた時間は不明。


 そして、「解釈」の紙束へ移る。


 外側だけが先に乾いた可能性。内側に水が残った可能性。圧縮が均一でなかった可能性。


 そこまで書くと、手が止まった。


 可能性ばかりだった。


 以前なら、この下に「だから次は砂を混ぜる」と書いていた。実際、後に砂を混ぜ、乾かし方を変え、崩れにくい泥団子を作った。


 だが、この時点の自分は、砂を混ぜるべきだとは分かっていない。ただ、割れたことと、内側が湿っていたことだけがある。


 紙の上に空白が残った。


 ソーマは、その白さを見つめた。何も書かれていない場所は、自分の無知を広げて置かれたように見える。


 前世の研究室なら、測れば埋められたかもしれない。水分率、粒度分布、圧縮強度、乾燥条件。


 だが、この世界で十二歳の自分の手元にあるのは、曲がったペンと質の粗い紙と、曖昧な記憶だけだった。


 分からない。


 そう書くのが、ひどく怖い。


 それでも、フェルド老師の声が耳に残っている。


 ――自分にできなかったことを、材料の性質にすり替えるな。


 ソーマは「条件」の末尾に、小さく書いた。


 水量は分からない。乾燥時間も分からない。当時と同じ条件では再現できない。


 書いた瞬間、胸が少し痛んだ。


 けれど同時に、息がしやすくなった。


 そこからは、少しずつ手が動いた。


 宿屋の裏口の排水。白い石の粉。水を加えた時に熱を持った粉。焼成前後の重さ。ひび割れた壁材。藁の長さ。ひとつまみの量。水の終わる場所。雨の日の失敗。


 記録を分けてみると、確かに書ける観察事実は思ったより少なかった。条件の記録には穴が多い。反対に、解釈だけは不釣り合いなほど増えている。


 たとえば壁材の頁には、「砂を増やすとひび割れが減る」と書いてあった。


 けれど、確かな観察は、砂を増やした試験片の一つで表面の大きな割れが少なかったことだけだ。その時、厚みは完全には揃っていなかった。乾燥場所も端と中央で違っていた。藁の長さも、リナが揃えてくれる前のものだった。


 ソーマは焦った。


 同じ出来事に関する記録を三つの紙束へ振り分ける手間を省こうとして、観察の紙束にこう書いてしまう。


 砂を増やした方が良い。


 書いた直後、違和感が走った。


 これは観察ではない。結果を急いで決めた解釈だ。


 線を引いて消しかけたが、安いインクは紙に滲み、黒い染みが残った。


 悔しくなって、その頁を破りたくなる。


 指先に力を込めたところで、ソーマは止まった。


 破ってしまえば、失敗は見えなくなる。けれど、見えなくした失敗は、また繰り返す。


 ソーマは滲んだ行の下に書いた。


 誤記。観察の紙束に解釈を書いた。消さずに残す。


 それから、ゆっくり書き直した。


 砂を増やした試験片の一つで、大きな割れが少なかった。厚みは不揃い。乾燥場所にも差がある。理由は未確定。


 窓の外で、夜回りの鐘が二度、三度と鳴った。


 ラウゼンの夜は長いが、紙の上の時間はさらに長かった。


 リナがいたら、どう言うだろう。


 ふと、そんなことを考えた。


 故郷では、リナは藁の長さを揃え、混合のむらを見つけてくれた。トマは雨の日に点検板を見に行き、グレッグはひとつまみの量を決めた。オルグは現場での手の動かし方を教え、父は試料箱を作ってくれた。


 彼らの手があったから、記録帳は増えた。


 それなのに今、紙束を前にしているのは一人だった。


 寂しさは、急に来る。


 ラウゼンの音は途切れないのに、自分の机だけが静かだった。ソーマは食べかけのパンを口に入れ、冷めた豆の煮込みを飲み込んだ。香草の苦みが舌に残り、ようやく体が少し温まる。


 もう少しだけ、と自分に言い聞かせ、欠けた皿の記録を開いた。


 粘土で補修。低温焼成。陶片と一体化しない。土魔術が効きにくい。


 昨日、フェルド老師に指摘された行だ。


 ソーマは目を閉じ、当時の感覚を思い出した。


 欠けた皿の断面。乾いた陶片の硬さ。粘土を詰めた時の湿り気。低温で焼いた後、補修部だけが少し硬くなり、本体との境目が残ったこと。土魔術を使っても、焼かれた陶片は生粘土のようには伸びなかったこと。


 では、観察として書けるのは何か。


 陶片は動かなかった、だけでは足りない。少なくとも、当時の自分の魔術では動かせなかった。


 どの程度の力で、どれほどの時間、陶片のどの部分へ魔術を働きかけたのか。その記録はない。


 ソーマは「条件」の紙束に書いた。


 土魔術を使用。強さ不明。使用時間不明。働きかけた位置も不明。


 記録は、あまりにも乏しかった。


 だが、それが事実だった。


 解釈には、こう書く。


 焼成後の陶片は、生粘土とは反応が異なる可能性。自分の土魔術が未熟だった可能性。水分量の差が影響した可能性。未確定。


 最後に、空白を残した。


 そこへ何かを書き足したい衝動が何度も来た。焼成によって構造が変わる、と書きたかった。前世の知識を頼りにすれば、粘土鉱物が加熱によって元へ戻らない変化をすることも思い出せる。


 だが、あの時の自分は、それを測っていない。温度も分からず、材料の中で何が変わったかも確かめていない。


 知っていることと、今回見たことは違う。


 それを分けるのが、こんなに難しいとは思わなかった。



 翌朝、ソーマは目の下にくまを作って、フェルド老師の工房を訪れた。


 ユーリは宿の前で待っていてくれたが、ソーマの顔を見るなり、少し眉を上げた。


「寝たか?」


「少し」


「少しは寝たうちに入らないぞ」


「分け始めたら、止めどころが分からなくなった」


「爺さんに似てきたな」


 ソーマは少し困った。似たいのか、似たくないのか、自分でもまだ分からない。


 工房の扉を叩くと、昨日と同じように少し間があってから、フェルド老師が出てきた。老師の袖には、濃い灰色の粉がついている。


 老人は記録帳より先に、ソーマの目の下を見た。


「寝不足は条件を乱す」


「すみません」


「謝るな。次から睡眠時間も書け」


 冗談ではなかった。


 ソーマは、昨夜のうちに分け終えた範囲だけを、三つの紙束にして机へ置いた。


 フェルド老師は、まず観察の紙束から読み始める。


 昨日より長い沈黙が続いた。炉の奥では小さく火が焚かれ、乾いた薬草のような匂いが空気に混じっている。


 ソーマは膝の上で手を組んだ。


 怖い。


 また、そう思った。


 だが昨日と違うのは、その怖さの中に、見てほしいという気持ちも混じっていることだった。上手にできたから褒めてほしいのではない。どこが間違っているのか、今度こそ知りたかった。


 フェルド老師は、滲んだ頁で手を止めた。


「消さなかったか」


「はい。消したくなりましたが、残しました」


「なぜ」


「観察の紙束に解釈を書いた失敗です。残した方がいいと思いました」


「よい」


 短い言葉だった。


 それだけで、胸の奥が少し熱くなった。


 だが、次の瞬間には別の頁を指で叩かれる。


「ここは駄目だ」


「はい」


「『白い石は水で熱を持つ』。お前が調べた白い石は何種類だ」


「宿屋の古い壁材の欠片と、オルグさんが焼いた白石です」


「なら、白い石すべてではない。『この白い粉』と書け。対象を広げるな」


「はい」


「ここも駄目だ。『炉の奥は温度が高い』。温度を測ったか」


「測っていません。焼け方の違いを見ました」


「なら、『炉の奥に置いた試験片は焼け色が濃い』だ。温度が高い、は解釈に置け」


 フェルド老師の指摘は細かく、容赦がなかった。


 けれど、不思議なことに昨日ほど傷つかなかった。紙の上で何を直せばいいのか、少し見えるようになっていたからだ。叱られているというより、混ざった砂の中から異なる粒を一つずつ拾い出してもらっているようだった。


 途中で、フェルド老師は小さな試験皿を三つ並べた。


 一つ目には川砂。二つ目には炉の灰。三つ目には、魚屋の溝から乾かしたらしい黒い粉が入っている。昨日、袖の汚れから落としたものではなく、老師が以前から保管していた試料のようだった。


「記録も、これと同じだ」


 老師は川砂を指した。


「見れば砂だ。だが中には石英も、黒砂も、貝殻片も、金属片もある。混ざったまま使える時もある。だが、分けなければ使えない時もある」


 次に、炉の灰を指す。


「灰はさらに厄介だ。同じ灰という名でも、燃やした木、燃え方、雨に濡れたかどうかで違う。名前だけで扱えば失敗する」


 最後に、黒い粉へ指を移した。


「汚いものには、情報が多い。だが、汚いままでは読めない」


 ソーマは三つの皿を見つめた。


 市場の排水溝。宿屋の裏口。工房街の黒い泥。どれも汚れであり、問題であり、同時に情報だった。


 自分が見たいものだけを取り出すには、まず、いろいろなものが混ざっていると認めなければならない。


「今日の課題だ」


 フェルド老師は、黒い粉の皿を少しだけソーマの方へ押した。


「この粉を見て、観察だけを十個書け。解釈は書くな。土魔術も使うな。匂いは、顔を近づけず、手で仰いで確かめろ。棒以外では触るな」


「十個」


「少ないか」


「多いです」


「なら、ちょうどいい」


 ソーマは棒を受け取った。


 黒い粉は、一見すると乾いた汚泥にしか見えない。だが、光の角度を変えると、艶のある黒い粒、鈍い黒の粒、茶色い粒、白い細片が混じっている。


 棒の先でそっと寄せると、細かい粉はすぐに動き、大きな粒は遅れて転がった。


 ソーマは紙へ書く。


 黒い粒が多い。茶色い粒が混じる。白い細片がある。光を強く返す粒が少しある。艶のある黒い粒がある。鈍い黒の粒がある。粒の大きさに差がある。棒で押すと細かい粉が先に動く。大きな粒は遅れて転がる。手で仰ぐと、かすかに酸っぱい匂いがする。


 十個目を書いたところで、ソーマはペンを止めた。


 指で触れていない。


 水を加えていない。


 それも書きたくなったが、今は観察の紙束だ。


 ソーマは余白へ手を伸ばしかけ、やめた。


 黒い粒は黒砂かもしれない。白い細片は骨か、貝殻かもしれない。光る粒は金属かもしれない。


 それも、まだ書かない。


 空白のまま、観察を終える。


 フェルド老師は紙束を読み、ほんのわずかに頷いた。


「九つ目と十個目は観察になっている。よい」


「指で触れていないことと、水を加えていないことは」


「明日、条件の紙束に書け。今日、何をしたか。何をしなかったか。そういうことも条件になる」


「はい」


「解釈は」


「まだ早い」


 物足りなさがあった。


 けれど、その物足りなさを飲み込むことが、今日の練習なのだろう。


 ソーマは紙束を閉じた。


 工房を出る頃、昼の鐘が鳴った。ユーリが外壁にもたれて待っていて、手に小さな紙包みを持っている。


「市場の傷物の梨。食うか?」


「食べる」


「今日は袖を汚してないな」


「土魔術を使うなと言われた」


「それが一番効いたんじゃないか」


 ソーマは少し笑った。


 梨を受け取ると、昨日と同じ酸味が舌に広がる。けれど今日は、その味の中に昨日とは違う細かさを感じた。皮の渋み。果肉のざらつき。芯に近いところの淡い苦み。


 観察しようと思えば、果物一つにもいくつもの情報がある。


 宿へ戻ったら、また記録帳を分け直す。今日も終わらないだろう。空白はまだ多く、分からないことは減るどころか増えている。


 それでも、昨日の空白とは少し違っていた。


 空白は恥ではない。次に何を見るべきかを示す場所なのかもしれない。


 そう思えた時、ソーマは三つの紙束を抱える手の力を、少しだけ緩めることができた。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

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