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第2章 第34話 追放錬金術師の噂

第2章 第34話


追放錬金術師の噂


 ラウゼンの朝は、土の匂いだけでは始まらなかった。


 荷車の車輪が石畳を叩く。濡れた藁が踏まれる。魚の血、野菜の青い汁、熟れすぎた果物の甘い香りが、まだ冷たい空気の中で混ざっていた。


 ソーマは匂いの多さに、思わず足を止めた。


 故郷の市場にも活気はあった。けれど、ここでは人と荷と水と粉の流れが、朝から通りを押し動かしている。


 ユーリは、その流れの隙間を風のように歩いていく。小柄な体に荷紐を巻き、空の籠を背負い、人の肩や荷車の角を避ける足取りに迷いがない。


 セドは少し後ろを歩いていた。ソーマが立ち止まれば周囲を確かめ、ユーリが示す道にも目を配っている。


「フェルド老師は、朝の二つ目の鐘より前には人を入れないそうです」


 ユーリが振り返らずに言った。


「それまで市場を通る。爺さんの噂を聞くなら、ここが早い」


「悪い噂も、いい噂も?」


 ソーマが尋ねると、ユーリは肩をすくめた。


「いい噂があればな」


 冗談めかしているのに、少しも軽く聞こえなかった。


 市場の入口では、果物屋の娘が赤い果実を布で磨いていた。皮は硬く、リンゴに似ているが、香りは柑橘に近い。積まれた籠の下には、潰れた果実を受けるための浅い木箱があり、そこから甘酸っぱい汁が垂れていた。


 汁は石畳のくぼみに入り、灰色の粉と混ざって薄い膜を作っている。細かな砂粒、藁の屑、誰かの靴裏から落ちた泥も絡んでいた。


 ソーマはしゃがまずに、少し離れた場所から眺める。


 自然の土ではない。


 ラウゼンの道は、人が歩くたびに別のものへ変わっていく。


 ユーリは果物屋の娘へ片手を上げた。


「ミナ、昨日の梨、まだある?」


「あるよ。傷物なら安くする。そっちの子は?」


「田舎から来た土属性。錬金術師を探してる」


 娘の手がぴたりと止まった。


「錬金術師って、あのフェルド?」


「まだ会っていません」


 ソーマが答えると、娘は少し眉を寄せた。


「あの人のところへ行くなら、火の近くには寄らない方がいいよ。昔、果物を乾かす棚を吹き飛ばしたって聞いたことがある」


「吹き飛ばした?」


「甘い匂いの煙が出て、屋根が鳴って、棚が倒れたって」


 娘は見てきたように言った。


 けれどソーマには、その話の中に隙間が見えた。甘い匂いの煙。屋根が鳴る。棚が倒れる。


 同じ出来事なのか。別々の話が混ざったのか。ミナ自身が見たのか。


 胸の不安が、少し形を変える。


 怖い。


 けれど、知りたい。


 ソーマは記録帳を取り出した。


 果物屋ミナの伝聞。甘い匂いの煙。乾燥棚。屋根が鳴る。直接見たか不明。


 書き終える前に、ユーリが覗き込んで苦笑した。


「真面目だな」


「噂も、試料みたいに混ざっているかもしれません」


「市場の噂を見分けられるのか?」


「できれば」


 ユーリは少しだけ笑った。


 八百屋の前では、葉野菜が霧吹きの代わりに水魔術で湿らされていた。店主の太い指が、萎びかけた葉を選り分けて桶へ落としている。


 大根に似た白い根菜には土がついたままだった。赤みの強い土を指で触れたい衝動を、ソーマはどうにか抑えた。


「フェルド? ああ、あの偏屈か」


 八百屋の店主は、葉を束ねながら言った。


「あいつは金を作るって触れ込みで錬金院にいたんだろう? 作れなかったから追い出されたんだ」


「金を作る、ですか」


「錬金術師ってのはそういうもんだろ。鉛を金に、石を銀に。違うのか?」


 ソーマはすぐに答えられなかった。


 前世の知識にある錬金術も、確かにそういう夢を背負っていた。けれど、目の前の世界には魔術がある。火が熱を整え、水が洗い、土が形を支え、光が傷や情報を読む。


 それでも、無から金を生むなどという話は、あまりにも都合がよすぎる。


 もし本当にできるなら、世界の秩序はとっくに変わっているはずだった。


 ソーマが黙っていると、店主は白い根菜を一本持ち上げた。


「俺は金を作るところなんて見たことがない。ただ、あいつが買う物は変だったな。焦げた石、川砂、錆びた釘、割れた硝子。何度も自分の店へ来たから、それは見た」


 川砂。


 錆びた釘。


 割れた硝子。


 それは黄金の夢よりも、ずっと材料らしい材料だった。


 ソーマは記録帳に、二つを分けて書いた。


 八百屋の伝聞。金を作れず追放された。根拠は不明。

 八百屋の直接の目撃。焦げた石、川砂、錆びた釘、割れた硝子をフェルド老師が購入した。


 肉屋の前では、鉄の鉤に吊られた肉が朝の冷気に赤黒く沈んでいた。脂、血、燻した木片の匂いが鼻に厚く触れる。


 店の奥では、火属性の若い男が燻製炉を見ていた。炎そのものではなく、炉壁の赤みを確かめている。


 ソーマは、その目つきにオルグを思い出した。


 火を使う者は、火だけを見ているのではない。


 火が触れたものの変化を見ている。


「ああ、フェルドの爺さんか」


 肉屋の主人は、骨を断つ手を止めずに言った。


「爆発させたって話なら知ってるぜ。閉め切った壺を火にかけて、蓋が飛んだってな」


「見たんですか?」


「俺は音だけだ。裏通りまで響いたからな」


「蓋が飛んだのを見た人は?」


「さあな。見たって言うやつは多い」


 多い、という言葉ほど頼りないものはない。


 ソーマは、記録帳に書いた。


 肉屋主人の証言。大きな音を聞いた。閉じた壺、蓋が飛んだという話は伝聞。

 肉屋主人の直接の目撃。温度、時間、重さ、塩の量をフェルド老師が尋ねた。


 主人が、ちらりとそれを見て鼻を鳴らす。


「あんた、あの爺さんと同じことをするんだな」


「同じ?」


「何でも書く。色がどう、時間がどう、重さがどう。肉を漬ける塩の量まで聞いてきたことがある。うるさい爺さんだったよ」


 悪口のはずなのに、ソーマの胸の奥で何かが静かに灯った。


 色。


 時間。


 重さ。


 それは知っている言葉だった。前世の研究室にあった。


 異世界に来てから失ったと思っていたものの名が、荒い市場の匂いの中で、ふいに戻ってきた。


 けれど、喜びはすぐに不安で覆われた。


 記録を取り、反応を見て、再現性を求める人が、追放されたと噂されている。


 ならば自分は、どう見えるのだろう。


 魚屋の通りに入ると、空気が一段冷たくなった。


 水魔術で流された水が石床を濡らし、冷却用らしい透明な魔石片が桶の間で淡く光っている。銀色の魚は腹を裂かれ、鱗が朝日に散っていた。


 潮の匂いと内臓の匂いが混じり、足元の水は薄く濁って、店ごとの排水溝へ流れていく。


 その溝の縁に、黒い粒が溜まっていた。


 黒砂に見える。


 故郷の川辺でも、ラウゼンへ来る道でも見た、黒く重い粒に似ている。


 だが、ここは魚屋の排水溝だ。


 魚の骨片、鱗、泥、灰、何が混じっているか分からない。


 ソーマは一歩近づきかけ、昨日の木札を思い出した。


 未知の粉に土魔術を使わない。


 管理者の許可なく触らない。


 手を出してはいけない。


 そう分かっていた。


 それでも、黒い粒が水の縁で沈んでいるのを見ると、身をかがめたくなった。


「近づきすぎるな」


 ユーリが低く言った。


「分かってる」


 ソーマは答えた。


 だが、溝の縁の石は濡れていた。


 一歩下がろうとした靴底が滑る。とっさに手をつく代わりに腕を引いたが、左袖が溝の水へ触れた。


 冷たい水が、布を伝って腕に染みる。


「うわっ」


「おい!」


 ユーリがすぐにソーマの腕を引いた。魚屋の女将が鋭い目でこちらを見る。


「何してるんだい。そこは手を入れるところじゃないよ」


「すみません」


 ソーマはすぐに頭を下げた。


 袖からは生臭い水が滴り、指先にもぬめりが残っている。魔術は使っていない。けれど、安全な距離を取ることに失敗した。


 見たいものだけを見ることはできない。


 触れたいものだけに触れることもできない。


 材料はいつも混ざっている。市場の噂と同じように。


 ユーリが布切れを渡してくれた。


「土属性って、水まで動かすのか?」


「動かしてない。近づきすぎて、滑った」


「それも危ないだろ」


「……うん」


 言い返せなかった。


 セドが周囲とソーマの袖を確かめ、女将へ頭を下げた。


「申し訳ありません。すぐに洗わせます」


「水路に流すなよ。こっちで使う水だ」


 女将は呆れた顔をしていたが、ソーマの記録帳を見ると、少し目を細めた。


「あんた、フェルドのところへ行くのかい」


「はい」


「なら覚えときな。あの爺さんは、汚いものを嫌がらない。魚の腹から出た砂まで買っていったことがある」


「魚の腹から?」


「川底で食う魚には砂が入るんだってよ。あいつはそれを洗って、重い粒を見るとか言っていた」


 ソーマは濡れた袖を気にしながら、急いで書いた。


 魚屋女将の目撃談。底魚の腹から出る砂を、フェルド老師が買い取った。重い粒を洗うと言っていた。


 女将は店の脇にある蓋つきの桶を指した。


「爆発の話もあるけどね、あたしが見たのは、爆発より後始末だよ。あいつ、自分の工房の排水を川へ流さなかった。黒い泥を桶に溜めて、何日も乾かしていた。臭かったけど、川を汚すよりはましだった」


 黒い泥。


 排水を川に流さない。


 ソーマの中で、宿屋の裏口が蘇った。


 水の道を作ったとき、道の終点を考えなければ、問題はただ移動するだけだった。


 あの失敗は小さな宿屋の裏口で起きた。けれどラウゼンでは、同じ問題が工房街の規模で起きている。


 技術は、便利さだけでは終わらない。


 終わらせた先に、別の場所がある。


 ソーマは、記録帳へもう一行を足した。


 魚屋女将の目撃談。フェルド老師は黒い泥を桶に分け、乾かしていた。理由と処理先は未確認。


 市場の端にある小さな広場で、三人は一度足を止めた。


 ユーリは荷籠を下ろし、屋台で買った傷物の梨を二つに割った。果汁が指に伝い、甘い香りが生臭さを少し遠ざける。


「食えよ。袖、臭いけど」


「ありがとう」


 ソーマは梨を受け取り、ひと口齧った。


 皮は硬いが、中は驚くほど瑞々しい。舌に酸味が走り、その後から薄い甘さが戻ってくる。


 故郷でリナと食べた果物を思い出し、胸が少しだけ締めつけられた。


 ラウゼンは広い。


 人も、匂いも、噂も、材料も多すぎる。


 その多さの中で、ソーマは自分が小さくなったように感じていた。十二歳の体は、現実としてまだ細い。背も、声も、腕の力も足りない。


 前世の知識はある。


 けれど知識だけでは、市場の排水溝ひとつ扱えない。


 フェルド老師は、その中で追放されたとされる人なのだ。


 会いたい。


 怖い。


 その二つが、乾ききらない粘土のように胸の中で混ざっていた。


「なあ、ソーマ」


 ユーリが梨の芯を布に包みながら言った。


「今ので、フェルドの爺さんがいい人か悪い人か分かったか?」


「分からない」


「だよな」


「でも、噂の中身は少し分かれた」


 ソーマは記録帳を膝に置き、ページを見直した。


 甘い煙。乾燥棚。大きな音。金を作れなかったという話。塩の量を聞いた話。排水を分けた話。魚の腹の砂を買った話。


 最初に聞いたときは、すべてが「危険な錬金術師」という一つの塊に見えた。


 けれど書き分けると、少し違って見える。


 危険な反応はあったのかもしれない。


 金を作るという噂は、期待と失望が作った飾りかもしれない。


 そして記録を取り、排水を分け、重い粒を集める人物像が、その奥にぼんやり残る。


「仮説を立てよう」


 ソーマは小さく呟いた。


「フェルド老師は、危険を見ようとしていた人かもしれない」


 ユーリはしばらく黙っていた。それから、梨の残りを口に放り込んだ。


「それ、本人に言うなよ」


「言わない」


「たぶん怒る」


「怒られるのは、少し慣れてる」


 オルグの顔が浮かんだ。材料を見ろと言った大きな手。父が渡してくれた試料箱。リナが泣きながら笑った旅立ちの日。


 二つ目の鐘が鳴った。


 セドは、ソーマの袖をもう一度確かめた。


「工房へ行く前に、手と袖を洗います。水路ではなく、宿から持ってきた水で」


「はい」


 広場の井戸で、セドは持参の水を少し使い、ソーマの手と袖を洗った。洗った水は布へ吸わせ、蓋つきの小桶へ入れる。


「宿へ戻ってから、処理を相談します」


 ソーマは頷いた。


 市場を抜けると、通りは急に細くなった。石畳の隙間には黒い粉が残り、壁には煤が薄く重なっている。


 職人街に近づくにつれ、金属を叩く音、炉の息、遠い水車の低い響きが重なっていく。


 ユーリは、さっきまでより少し慎重に歩いた。


「ここから先は、勝手に触るなよ。落ちてる粉も、石も、水も」


「うん」


「フェルドの爺さんの工房の周りは、他の職人も嫌がる。何が混じってるか分からないから」


 何が混じっているか分からない。


 それは恐ろしい言葉だった。


 けれど、ソーマにとっては入口の言葉でもあった。


 何が混じっているか分からないなら、分けるしかない。見えるもの、見えないもの、重いもの、軽いもの。聞いたこと、見たこと、考えたこと。


 噂も、砂も、反応も。


 やがて、通りの奥に古びた石造りの家が見えた。


 大きくはない。けれど壁の補修跡が幾重にも重なり、窓には分厚い板戸がつけられている。門柱の片方は新しい石で継がれ、もう片方には焦げ跡のような黒ずみが残っていた。


 扉の横には、木札が掛けられている。


 そこには几帳面な文字で、こう書かれていた。


 ――記録なき実験を禁ず。


 ソーマは、その文字をしばらく見つめた。


 胸の不安は消えなかった。期待も、同じだけ残っていた。


 怖いものは怖い。


 けれど、ここには自分の知っている言葉がある。


 色。


 時間。


 重さ。


 記録。


 反応。


 セドは一歩下がった。


「私は戸口の外で待ちます。最初の話は、ソーマ様自身の言葉でしてください。危険を感じたら、すぐ呼びなさい」


「はい」


 ソーマは試料箱の紐を握り直した。


 扉を叩く前に、もう一度だけ記録帳を開く。


 フェルド老師に会う前。噂は混合物。直接の目撃談と伝聞を分けること。


 最後に、少し迷ってから一行を足す。


 会うのが怖い。けれど、会いたい。


 ユーリが横で息を吸った。


「叩くぞ」


 ソーマは頷いた。


 木の扉を叩く音は、市場の喧騒から遠く離れた路地に、思ったよりも乾いて響いた。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

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