第2章 第33話 ユーリという荷運び
第2章 第33話
ユーリという荷運び
「フェルドの爺さんに会うなら、怒鳴られる覚悟はしておけよ」
荷運びの少年は、黒く汚れた袖で鼻の下をこすりながら言った。
肩にかけた空の麻袋には、灰色と黒の粉が染みついている。けれど少年は、風向きを確かめてから袋を足元へ下ろし、粉が舞わないよう口を折りたたんだ。
ソーマは職人街の入口に立ったまま、その少年を見ていた。
年は自分と同じくらいか、少し上。くすんだ栗色の髪に、頬の煤の跡。だが目だけは明るく、行き交う荷馬車と工房の煙を、ひとつも見逃していないようだった。
ラウゼンに来てから、ソーマは何度も圧倒されていた。道の粉。炉の熱。鉱石を洗う水魔術。煙を流す風魔術。光札に浮かぶ情報。
この少年は、そのすべての中を当たり前のように歩いている。
まるで都市の流れに乗る、小さな風のようだった。
「怒鳴られるのは、困ります」
ソーマが正直に言うと、少年は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「困るって、変な言い方するな。普通は怖いとか嫌だとかだろ」
「怖くもあります」
「じゃあ、行くなよ」
「でも、会いたいんです」
少年はソーマをじっと見た。
からかうような目の奥に、相手を測るような色が少しだけ混じっている。
「名前は?」
「ソーマ・アルディスです」
「貴族?」
「大きな家ではありません」
「貴族は、みんなそう言う」
少年は肩をすくめた。
「俺はユーリ。荷運び。風属性」
そう言って、彼は空の麻袋を片手で持ち上げた。
袋の底へ短い風を当てると、布はふくらみ、持ち上げる間の揺れが小さくなる。次に、風の向きを変えて袋を肩へ寄せ、紐を引っかけた。
派手な魔術ではない。
けれど、無駄がなかった。
「今のは、風魔術ですか」
「見れば分かるだろ」
「荷物を軽くしているのですか」
「軽くはならない。重さは重さだ」
ユーリは、肩の麻袋を軽く叩いた。
「持ち上げるときに袋の底へ風を当てて、揺れを減らす。粉が顔に来そうなら、風向きを少し変える。それだけだ」
「本当に軽くできたら、もっと稼いでる」
ソーマは、その言葉を記録したくなった。
荷を安定させる。
粉を避ける。
煙を読む。
ユーリにとって風魔術は、都市で働くための手足の延長なのだろう。
「おまえ、さっきから道の粉を拾ってたよな」
「はい」
「何で?」
「何が混じっているか見たくて」
「汚いだけだぞ」
「汚いなら、何で汚れているのか知りたいです」
ユーリはしばらく黙り、妙なものを見るようにソーマを見た。
「やっぱ変だな」
「よく言われます」
「だろうな」
ユーリは職人街の奥へ顎をしゃくった。
「フェルドの爺さんのところへ行くなら、道を知ってるやつがいた方がいい。あの辺は初めてだと迷う」
「案内してくれるのですか」
「ただじゃない」
ソーマは少し考えた。
ラウゼンの貨幣相場は、まだよく分からない。父から旅費は持たされたが、街の少年へ払う額が適切か判断できなかった。
「相場が分かりません」
「本当に変なやつだな。普通はまず値切るだろ」
「相場を知らないと、値切る基準がありません」
ユーリはまた笑った。
「じゃあ、今日は日が落ちるまで、錬金術師の古い区画までの安全な道を教える。銅貨三枚。明日の朝、爺さんの家まで一緒に行くなら、そっちも銅貨三枚だ」
セドが少し後ろから口を挟んだ。
「妥当です。今日の下見としてお願いしましょう」
ソーマは頷いた。
「お願いします」
「よし。じゃあ、荷は?」
「これです」
ソーマは試料箱を抱え直した。
ユーリはそれを見て眉を上げる。
「何が入ってるんだ?」
「土と砂と、焼いた陶片です」
「……本当に土を持ってきたのか」
「はい」
「ラウゼンに?」
「はい」
ユーリはしばらく口を開けていたが、やがて腹を抱えて笑い出した。
「大都市に土を持ってくるやつ、初めて見た!」
ソーマは少しだけ困った。
だが、不思議と嫌ではなかった。ユーリの笑いには悪意がない。驚きが、そのまま声になっただけだ。
「必要な土です」
「へえ。じゃあ、落とすなよ。ラウゼンの道の粉と混ざったら、どれがどれか分からなくなる」
その言葉に、ソーマは少し驚いた。
「その通りです」
「だろ?」
案内はすぐに始まった。
職人街は、遠くから見たよりずっと入り組んでいた。広い通りから細い通りへ、さらに荷車一台がぎりぎり通れる裏道へ入る。
通りごとに匂いが違った。
鉄を焼く匂い。濡れた革。染料の甘く重い匂い。灰汁。炭。湿った石粉。
ユーリは迷わなかった。
「こっちは鍛冶場が多い。火の粉が飛ぶから、布の荷は避ける」
彼は次の角を指した。
「あっちは染め屋。水路が滑る。向こうは鉱石洗い場。粉が多いから、風向きが悪い日は通るな」
その判断は、身体で覚えた道順だった。
どの通りが汚れているか。どこで荷車が詰まるか。どの工房の親方が通行にうるさいか。どの排水路の縁が脆いか。
ソーマは、ユーリの足元を見た。
彼は水たまりをただ避けるのではない。水の色を見てから、踏む場所を選んでいる。
黒い水は避ける。
灰色の水は、浅ければ端を踏む。
青みのある水は、大きく回り込む。
「その水は、危ないのですか」
ソーマが尋ねると、ユーリは少し振り返った。
「青っぽいやつ? 染め屋か鉱石屋の水だな。靴が傷む。皮膚につくとかぶれることもある」
「誰が教えてくれたのですか」
「教わらなくても、一回かぶれたら分かる」
そう言ってから、ユーリは肩をすくめた。
「まあ、かぶれない方がいいけどな」
ソーマは胸の奥が少し重くなった。
ラウゼンでは、失敗が体に残る。
白石で荒れたオルグの手と同じだ。工房の水、粉、火、煙。それらを避ける知識は、誰かが怪我をして覚えたものなのだろう。
観察。
ユーリは、街を流れとして見ている。
人の流れ。荷の流れ。煙の流れ。水の流れ。粉の流れ。
風属性だからというだけではない。荷運びとして毎日通るから、どこで流れが淀むかを知っている。
仮説を立てよう。
ユーリの風魔術は、小さな風を起こす力だけでは役に立たない。都市の流れを読む経験と組み合わさっているから、荷も人も安全に動かせる。
ソーマの土魔術と似ている。
土をただ動かして固めるだけでは足りなかった。どんな粒か、どう乾くかも一緒に見なければならなかった。
魔術は、使う場所と対象を知って初めて意味を持つ。
途中、狭い通りで荷車同士が詰まっていた。
片方は鉱石の袋を積み、もう片方は陶土らしい白い塊を運んでいる。車輪が石畳の欠けた部分にはまり、押しても抜けない。荷運びたちが悪態をつき、通りが止まっていた。
ユーリは舌打ちした。
「ここで詰まると面倒なんだよ」
「手伝うのですか」
「通れないからな」
彼は荷車の横へ回り、風を起こした。
強い突風ではない。積み荷の間へ空気を通し、片寄った袋がさらにずれないよう支える風だ。別の荷運びが車輪の下へ石を噛ませ、男たちが力を合わせて押す。
車輪は、ごり、と音を立てて穴から抜けた。
その瞬間、袋の一つがずれた。
黒い鉱石粉が、通りへこぼれる。
ソーマの体が反射的に動いた。
土魔術でまとめれば、通りを早く空けられる。
そう思った。
だが、手をかざした瞬間に、自分が決めた規則が頭をよぎった。
知らない土と水には、許可なく触れない。
それでも、焦った指先は止まらなかった。
土魔術が粉へ触れる。
硬い粒の一部だけが寄り、軽い灰がふわりと舞った。
「伏せろ!」
ユーリが叫んだ。
ソーマが口元を布で覆うより早く、ユーリは空袋を粉の上へかぶせた。地面に沿って短い風を流し、袋の端が浮かないよう押さえる。
近くの荷運びが濡らした布を持ってきて、袋の周りへそっとかぶせた。
粉は、ようやく舞い上がらなくなった。
ソーマの肝が冷えた。
助けようとした。
けれど、知らない粉に土魔術をかけ、かえって灰を散らした。
規則を破った。
「すみません」
ユーリは少しきつい声で言った。
「初めての粉に、いきなり魔術を使うなよ。ラウゼンの道端は土だけじゃない。炭も鉱石も混じってる」
「はい」
「軽い粉を散らしたら、誰かが吸う。まず袋か布で押さえる。片づけるのは、こぼしたやつか清掃係に任せる」
「はい」
セドも静かにうなずいた。
「今の失敗は、必ず記録してください」
「はい」
ユーリが「魔術を使うな」と言わず、「触るな」と言ったことが、ソーマには少し残った。
少なくともユーリにとって、魔術は手で直接触ることに近い感覚なのかもしれない。
観察へ戻る。
都市の粉は、危険性も価値も用途も混ざりすぎている。
土魔術で一括りに扱えば、軽い灰と重い鉱石が別々に動き、かえって危険になる。だから、正体の分からない粉は、まず覆って舞い上がりを止める。水を使うか、どこへ処理するかは、その場所を管理する人が決める。
ソーマは木札に書いた。
ラウゼン通りの粉。種類が多い。土魔術で一括りに扱わない。未知の粉は、まず布や袋で覆う。処理は管理者へ任せる。規則を焦って破った。
ユーリは横から覗き込み、少し笑った。
「失敗まで書くのか」
「書かないと、また同じことをします」
「変だけど、悪くないな」
その言葉は、妙に嬉しかった。
通りが動き出すと、三人は再び歩き始めた。
「ユーリさんは、いつから荷運びをしているのですか」
「さんはいらない。八つくらいからかな」
「今は」
「十三」
「僕より一つ上です」
「見れば分かる」
ユーリは軽く言った。
「家は?」
「ないわけじゃない。母さんが洗濯場で働いてる。俺は荷運び。弟が二人」
「学校は」
「行ってない。字は少し読める。荷札に書いてある行き先くらいはな」
ソーマは少し言葉に迷った。
自分には紙があり、記録帳があり、遠い都市へ学びに来るための金もある。
ユーリは同じ年頃で、この街の粉を吸いながら働いている。
どちらが優れているという話ではない。
ただ、立っている場所が違いすぎた。
ユーリはその沈黙をどう受け取ったのか、少し口を尖らせた。
「哀れむなよ」
「そのつもりはありません」
「じゃあ何だよ」
「ユーリは、ラウゼンのことをたくさん知っています」
「そりゃ、毎日走ってるからな」
「僕は、知らないことばかりです」
ユーリは横目でソーマを見た。
「貴族なのに?」
「貴族でも、知らないことは知らないです」
「ふうん」
それきり、少しの間黙って歩いた。
だが、空気は悪くなかった。
やがてユーリは、職人街の奥にある坂道を指した。
「あの先が錬金術師の古い区画。今は、薬師と金属屋が多い。フェルドの爺さんは、そのさらに外れだ」
「なぜ外れに住んでいるのですか」
「うるさいからじゃないか? 爺さんも、周りも」
ユーリは肩をすくめた。
「あと、爆発したって噂がある」
「爆発」
「昔な。俺が小さいころだから、詳しくは知らない。工房の窓が割れたとか、薬品の臭いが三日残ったとか、そんな話」
ソーマの背筋が少し伸びた。
錬金術。
薬品。
爆発。
不安がまた胸に戻る。
だが、それでも足は止まらなかった。
西の空が赤くなり始めたころ、ユーリは小さな広場で足を止めた。
「今日はここまでだ」
「フェルド老師の家は、まだ先ですか」
「この先の路地を抜ければ近い。でも、朝に紹介状を持って行くなら、今日は入らない方がいい」
セドも頷いた。
「下見は十分です。明朝、改めて案内をお願いしましょう」
「分かりました」
ソーマは、今日の下見の分として銅貨三枚を渡した。
ユーリは銅貨を確かめ、懐へしまう。
「明日も案内いるか?」
「お願いします」
「じゃあ、明日も三枚」
「はい」
「あと、道の粉を拾うなら俺に聞け。危ない場所がある」
ソーマは頷いた。
「助かります」
ユーリは少し照れたように鼻をこすった。
「変な土持ち貴族を、フェルドの爺さんに連れていくのは面白そうだしな」
その言い方に、ソーマは少しだけ笑った。
粉がこぼれたとき、ユーリはソーマを叱った。
だが、粉を覆い、近くの人が吸わないように動いてくれた。
土を持ち歩くことを笑っても、必要ないとは言わなかった。
宿へ戻る道で、ソーマは木札を見返した。
ユーリ。風属性。荷運び。
荷を軽くはしない。揺れを減らす。粉を避ける。
道の粉は危険。未知の粉に土魔術を使わない。
都市は流れで見る。人、荷、煙、水、粉。
最後に、少し迷ってからこう書いた。
友人に、なれるかもしれない。
書いたあと、少し恥ずかしくなって、木札を裏返した。
だが、消さなかった。
翌朝、フェルド老師を訪ねる前に、もう一度ユーリと会う。
不安はまだある。
けれど、ラウゼンの道を一人で歩くよりは、少しだけ息がしやすかった。
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